「エンダーズ・シャドウ」


 「エンダーのゲーム」(以下、「ゲーム」)をビーンを主人公に描くということで、原書が出たときから訳されるのを期待していたものである。とはいえ、不安もあった。ヒューゴー・ネビュラ両賞受賞作「ゲーム」の外伝ならば、多少質が悪くても売り物になる。シリーズを出さんがための無理な内容になってはいないだろうか、と。
 で、実際どうだったか?…カード先生、妙な疑いをもってごめんなさい。
 「ゲーム」を読まなくても100%楽しめる、とは言わない。やはり前作(短編版・長編版は問わない)の後から読むのがもっとも作品の魅力を味わえる読み方だろう。しかしそれは、有名な前作に依存した作品だということでは決してない。
 物語はロッテルダムのスラムからはじまる。身体的には非力なビーンは自分の知力だけを頼りに、ただ命をつながんがための戦いを始める。
「(…)スラムのシーンは誇張されているものの、子供社会のメタファーだと思うし(幼稚園児のうちの娘の行動パターンを見てもそう思う)、そこにいかに適応しようと知恵を振り絞るビーンの姿には身に迫る者があります。(…)」とは、当掲示板「Da Bench」でのOkawa@風の十二方位さんの言(投稿日2000/11/12[1452])。私はビーンの言葉の子供らしくなさに目をとられてそれには気付かなかったのだが…。言われてみると、子供が意識せずにやっている部分まで大人の言葉で語らせると、このようになるのかも知れない。
 生存競争にうち勝ったビーンは、バトルスクールへ。ここからが「ゲーム」と重なってくるところである。先に「ゲーム」を読んだ人はビーンが早々に「ゲーム」最大最後の仕掛けに迫りかけるシーンで、彼の鋭さを改めて印象づけられるのではないだろうか。私などほとんどゾッとしたと言っていい。この本が訳されると聞いたとき、私は訳題は「エンダーのゲーム」をもじって「ビーンのゲーム」などというのもいいな、と考えたこともあったのだが、これは完璧に間違い。ビーンはこれがゲームはでないことをエンダーより先に悟るのだから。
 そしてエンダーとビーンとの出会い。ビーンはバトルスクールに入学以来、否応なくエンダーを意識させられるようになる。このエンダーに対するビーンの心の動きは、私が一番に引きつけられた部分である。自分の心を隠すのが何より巧みなビーンが、グラッフにそれと悟られてしまうほどのエンダーへの関心、実際にエンダーの隊に属してからも、彼が自分を認めようとしないもどかしさ、友情を差し出されたときの当惑、そして彼の補佐となり「影」となることに生きる意味を見いだした感動。紹介文で出した一節と、その少しあとの「ポークはビーンに命をくれた。エンダーはそれに意味をあたえてくれたのだ」という言葉が端的にビーンの心を表している。
 舞台がコマンドスクールに移ってからは、ビーンはエンダーの最も有能な部下として活躍する。そして、影では武器としてのエンダーが壊れたときのスペアとしても。だが、重なる戦闘の重圧でエンダーがほとんど壊れかけても、ビーンは強力な示唆を与えはするが、彼に取って代わることはついに拒み続ける(この意味でもやはり「ビーンのゲーム」という題は不適当だった)。
 ビーンの示唆でエンダーはゲームを全うし、それ以後戦いを捨てる。だが、ビーン自身の戦いはむしろここから、地球に帰還してからが本番なのだろう。バトルスクールで一度は退けたアシルとの再対決、ビーンがその才能と引き替えに背負っている運命など、興味は尽きない。長編版「ゲーム」が「死者の代弁者」のプロローグ的な役割をしていたのと同様、「エンダーズ・シャドウ」も続く「Shadow of the Hegemon」のプロローグになるのかも知れない。
 だらだら書いたが要するに、「ゲーム」の外伝というだけにとどまらず、同じ世界観を用いたもう一つの物語として十二分に通用する作品だということである。
 あえて文句が出そうなところを挙げれば、SF的アイディアという点で、遺伝子操作による人為的な天才というのはどうも新味に欠ける、という点。ストーリーテリングが売りのカード作品に求めるには、ちょっと方向性の違うことではある。SFとして見たときのカード作品のよさを挙げるとしたら、舞台となる社会や組織がコンピュータを道具として使っているとき、そのディティールが意外なほどしっかりしているということだろう。「シャドウ」でも、ビーンがバトルスクールのシステムを欺いて情報を探るシーンなどにそれが発揮されている。
 もうひとつ、「シャドウ」を先に読んでしまうと「ゲーム」を後で読んだときにエンダーがあまりすごくないように思えてしまうんじゃないか、ということだが…。これはつまり、「シャドウ」がそれだけよくできている、ということでもある。
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