「エンダーのゲーム」


 SFとしてのアイデアは短編の方で出そろっていますが、私はこの長編版の方が断然好きです。カード作品のいいところは脇役がチョイ役にいたるまでリアルに描けている点だと思うのですが、長編版でないとそれが見えません。そもそも短編版では敵についての描写も一切なく、この作品で初めて「バガー」として登場したのです。今思えば、短編版を読んでから、長編版を読めたらよかったのに、と残念です。短編版の方はオチがわかっていると読む価値が半減してしまうので。それに加えて、長編版でないと続編「死者の代弁者」につながらない、という点も大きな理由です。
 冒頭はエンダーの能力に嫉妬してリンチを加えようとした指揮官ボンソーを自衛とはいえ殺してしまったときの、エンダーのセリフで飾ってみました。バガーを全滅させてしまったときにも同様のセリフがあります。エンダーの悲痛な心境が最もストレートに現れるシーンの一つでした。
 ところで私はあの「エヴァンゲリオン」を見たことがないのですが、知人からあらすじを聞いたとき、直観的に「あ、これはエンダー入っているかな」と思いました。ひょっとしたらとんだカン違いかも知れませんが。


(2000.5 再読による追加)

 東京オフの目印用に持っていったんだが、ついでに再読。改めて読み返してみて、つくづく厳しい小説だなぁとため息をついた。
 登場人物が皆、逃げない、逃げることを許されていない話なのである。エンダーは能力的にも精神的にも限界ギリギリまで追いつめられる。そして、ついにキレてとった行為こそが、次なる苦難への始まりになってしまう。
 主人公ばかりではない。エンダーを「つくりあげる」責任者グラッフは、あえてエンダーと直接対面し、行動をともにし続ける。遠くで指示だけ出して、自分が追いつめた子供の苦痛を見ずに済ませるとこともできたと思うのだが、そのような「逃げ」には走ろうとしない。ピーターにしても、自分の野心と適当なところで折り合いをつけずに、地球の「覇者」にまでなってしまう。ボンソーですら、エンダーに対する憎悪から逃げず(…彼の場合「逃げられず」と言う方が正しいだろうが)、いき着くところまでいってしまったと言えるのではないだろうか。
 こんな容赦のない話なのに、それでも引き込まれてしまうはなぜだろうか。アーライやビーンらのエンダーに対する信頼・友情、グラッフがアンダースンやメイザーの前でときおり見せる人間的な躊躇、そしてラストでバガーの窩巣女王がエンダーに遺した許しと希望……そういった要所要所におかれた優しさが、エンダーを彼の苦痛多き人生に繋ぎとめると同時に、読者をも繋ぎとめているのかも知れない。

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