「ゼノサイド」


 私が人にSFを薦める場合、遅かれ早かれ「エンダーのゲーム」と「死者の代弁者」は必ず対象になるのだが、この「ゼノサイド」は今のところ人に薦めたことがない。これは作品の質とは全く関係ない。話が第4作に続くようになっているので、その邦訳が出ていない現在、人に待ち遠しい思いをさせるに忍びないからである。せっかく「死者の代弁者」でハッピーエンドの大団円を迎えているのだから、そのまま心穏やかでいたいものである。読んでしまった私は、おかげで文庫の出版情報がでるとまずカード新作を確認せずにはいられないハメに陥っている。(そして2番目に角川文庫で某作家の漢字四字の書名を探すのだが、それはここでは関係ないことである)
 ゼノサイドでは「死者の代弁者」から少し歳月が経っており、エンダーももう爺さんである。ノヴィーニャの子供達も一人をのぞいて立派に成長し、母からの遺伝か、義父の薫陶のかいあってか、賢明かつ辛辣なキャラクターに育っている。そのせいか「死者〜」で見られたようなエンダーのスーパーマンぶりは影をひそめている。各キャラクターがそれぞれエンダーばりの意志を持って行動をしていくので、話としてはより複雑になっている。
 加えてルジタニアと平行して話の進む植民星パスの存在がさらに構造を複線化する。こちらだけ別の作品としてもいいぐらいのものである。ひょっとしたら元々別の短編だったものを合わせたのかも知れない。東洋風を意図した世界は、さすがに私たちから見ると違和感もあるが、例によってキャラクターは印象的である。紹介の一言はこちらパスのキャラであるチンジャオの死に際の言葉。どちらかというと敵役にあたるのだが、彼女の一生があまりに切なく感じたので、エンダーらをさしおいて採用。チンジャオはこの言葉を口にしたとき神々からの回答を聞いたのだと思いたい。それは錯覚なのだろうが、彼女にとっては真実であり、この場合客観的事実は重要でない。
 カードの作品でSFのSはあまり厳密に追求しないほうがいいのだが、それにしてもこの「ゼノサイド」の光速突破の方法はすごい(イアン・ワトソン「川の書」三部作のと似てるかな)。そしてその実験旅行の結果は、光速どころか質量保存則まで超越してしまっている。いくら何でもそりゃないだろう、とは思うが、しかしこれからの展開が面白くなりそうではある。
 だから早川書房さん、後生ですからはやく続巻だしてください。


(2001.2 再読による追加)

 待望の「エンダーの子どもたち」刊行につき、復習のため再読。
 読んでいて感じたのは、全編通して会話とディスカッションで物語が進行しているということ。チンジャオがジェインの正体を暴くのも、デスコラーダの難題を解決する手段も、超光速の方法も、全部登場人物が言葉を交わす中でとるべき道が見つかっていく。エンダーなど、この話で実際に体を動かしたのは窩巣女王に2回会いに行くときと、キンの遺体を引き取りにウォーメイカーの森に入ったときぐらいじゃないだろうか。前作にくらべるとエンダーが他の登場人物の背後に隠れがちに感じられるのも、そんなところが一因になっているのかも。実際はポイントポイントで重要な示唆を与えているのは、やはりエンダーなのだけれど。
 そういう動きの少ない物語の中で、数少ない「行動する者」の犠牲はより強いインパクトを与えてくれる。まずペケニーノの急進派を説得するため単身彼らの森に赴き、殉教するキンことエステヴァン神父。「死者の代弁者」と「ゼノサイド」とでは、作中30年の時間差にも関わらずどの登場人物もあまりキャラが変わっていないようなのだが、彼だけは例外中の例外。あのときのボウズが、まさかこんなに成長するとはねえ。
 そしてもう一人、ペケニーノのプランター。ペケニーノ自体に知性はなく、デスコラーダがペケニーノの知性を司っているのではないかという仮説に対し、彼は自ら実験台となって反証する。私は「死者の代弁者」のヒューマンと並んで、このプランターが大の気に入り。彼がデスコラーダの改造に反対するクァーラを説得して死を迎えるくだりは、物語中もっとも緊迫するシーンであり、泣かせるシーンのひとつである。

 話は変わるが。読み直してみてもやっぱり、ラストでピーターとヴァルが登場する展開は突拍子ないよなあ…。続く「エンダーの子どもたち」を読み終わった今となっては、事態をうまく整合させてみせた巧みさに感心するが、もしこれで続きが出てなかったらと思うと…。

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