駄弁者の駄弁

別に知りたくもないでしょうが、駄弁者自身のことについて。それだけだとあまりにつまらなさすぎるので雑記帳を付けます。
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司書の駄弁者
生 年:197X年
出 身:大阪府
現住所:岐阜県多治見市
職 業:その名の通り
趣 味:見ての通り


日々雑感(97年9月〜12月)

 今日で仕事納め。昨日でひと仕事終えた気分なので、どうも力が入らない。忘年会も何とかクリアしたし(やはり景品は趣味が悪いと言われた。いいのさ、どうせ…)。
 事務室で片づけをやっていると、電話がかなり頻繁にかかってくる。「図書館今日開いてますか」「すいません、27日から年末休館に入っています。来年は6日から…」このやりとりを何度繰り返したことか。年末ぎりぎりまで図書館に来ようと思ってもらえるのは(決して皮肉でなく)冥利に尽きるというものだが、たて続けにベルを鳴らされて辟易する気持ちも分かってくれるとありがたい。あれ、また…
 …プルルルル…ガチャ「あの、今日…」「一昨日から図書館は休みです来年は6日からです遅れている本はとっとポストにほりこんどいてくださいねではよいお年を」ガチャッ。
 なんて、やるわけないでしょうが。
(12/28)

 明日は忘年会の幹事などをやるハメになっている。だいたい、私のような、横のものを縦にしようともしないモノグサ人間に幹事などをさせようとするのが無茶なのだ…などと今更言っても始まらない。余興の景品は、名古屋のロフトあたりで適当に探すことにする。どうせ「趣味が悪い」とか言われるだろうから、いっそ自分で見ても悪趣味、野暮、ダサダサもので占めてみようか。しかしそれでもし「いい趣味してる」などと言われた日には世をはかなむしかないだろうが……。えい、愚痴しかでないぞ。
(12/26)

 映画「MIB」を観にいく。まずまず、おもしろいといったところか。ちょっとドロ、グチュ、ベチョのシーン(意味不明…か?)が鼻につく。アメリカ人はこういうので爆笑できるのだろうか。私は悪趣味だとしか感じないのだが。あ、爆笑できるネタもあるので、これから観ようと思っている人は気にせずに。
(12/21)

 今日は本もパソコンもなし(メールは読んだが)。たまにはこういう日も必要である。
(12/12)

 朝の駅ホームにて。さて今日から「世界の歴史18」を読み始めるか…と思って取り出してみると、18巻ではなく19巻である。半年ぐらい前すでに読んだ本だ。しまった…慌てていたし、表紙の色合いも似ていたので間違えたのだ。仕方がないのでこれを読んで通勤時間をつぶす。往復3時間。なんか非常に損をした気分である。
(12/9)

 新聞に瀬名秀明「BRAIN VALLEY」の宣伝が載っていた。読みたいがヒマもカネもないな…。コピーに「科学と文学の垣根を越え(た…)エンターテイメント大作」とあったが、それって要するにSFだ、ということじゃないか?コピー業界ではこの2文字を使ってはいけないという規則でもあるのだろうか。いや、この2文字を使うと売り上げが半減するというジンクスの方がありそうな話である。
(12/6)

 休みの月曜日、ホームページの更新をする…はずなのだが、頭が頭痛で痛い(言語中枢も錯乱中)。風邪、じゃないだろう。持病のようなものだ。ひどかった頃は月に2回ぐらい見舞われた。最近は治まっていたのだが…。こういうときは寝ているに限る。では失礼。
(12/1)

 出張ついでに神田古書店街へ。こんなことやってるから書生気分が抜けないのだが…。
 しかし、意外と気に入った本は見つからない。人に頼まれている本も見つからなかった。結局ちょっといいなと思った文庫を1冊だけ買う。他に少しぐらいは興味を引く本がないではなかったのだが、あいにく自宅の本棚に未読の本はたまっており、フトコロの財布に小遣いの金はたまっていない。
(11/22)

 出張で東京へ。人が多くて疲れる。大阪でも人は多いのだが、それより疲れる。単に慣れのせいなのだろうが。
 東京で勤めている高校時代の友人2人と飲む。そういえば背広姿で3人そろうのは初めてのことだ。どうも私が一番似合っていない。2人はすっかり「社会人」になってしまったが、それに比べると自分だけは書生気分が抜けていないような気がする。
(11/21)

 カード新刊「消えた少年たち」発売日。仕事帰りに名古屋駅地下の三省堂に寄る。が、ない。まさか、1日で完売してしまったのか!?(その可能性は低い)それとも、はなから1冊も入荷しなかったのか!?(その可能性は高い)…まあ、ないものは仕方がないか、とあきらめて三省堂を後にする。
 付近にもう一つ、書店がある。三省堂と比べれば敷地面積は多分十分の一もないだろう。雑誌と売れ筋主体の小さな所である。三省堂がある以上、普段なら寄る必要ないのだが、電車の時間にはまだ間があったので、ダメもとで「消えた少年たち」を探して見ることにする。すると…1冊だけあった。三省堂で見逃したはずはない。あなどり難し、小書店。
(11/20)

 意外と知らない人もいるようだが、司書の仕事にレファレンスというものがある。利用者の質問に、資料を用いて答えられる範囲で答えるというものだ。学校の宿題とかクイズの解答、法律相談や医療関係など専門知識を要するものを除く、大抵の質問は受け付ける。
 たとえば、今日あったレファレンス。
 「西行法師の短歌に「願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」というのがあるが、この「きさらぎの望月」=旧暦2月16日・太陽暦3月30日に、西行のいた河内国の弘川寺で、本当に桜は咲いていたのか。桜の種類(多分ヤマザクラだと思うんですが)や当時の気候も考慮して調べて欲しい」
「……。わかりました、できるだけ調べてみます」電話をおく。
んなもん、わかるわけないやろ。そうとりあえず一回つぶやいてから、仕事にはいる。私は愚痴と不平が多い性分で、まず文句をたれてストレスを発散させないと次に進めないのだ。まあ最終的な答を出す必要はないし、そもそも不可能である。推定の材料を集めるだけにとどめるとしよう。
 まず気候の方だが、こちらは「日本でも9世紀から13世紀にかけては現代より気温が高かった」という記述が割とすぐ見つかった。だとすると桜が咲くのも現代より早くなるわけだ。もっともそれがどの程度かははっきりと書かれていない。資料の絶対量が少ないのでこの方面から詳しいことはわかりにくい。
 次にサクラの種類はどうか。さすが日本の国花、資料は山ほどある。本命のヤマザクラは開花時期が4月の中旬から下旬。当時の気候が今より暖かでも3月30日にはちょっと咲きそうにない。しかし本当に西行の「花」はヤマザクラなのか?今の桜の代表格、ソメイヨシノは当時存在しない。いくつか資料を見ると平安・鎌倉時代に貴族に愛でられたのはシダレザクラが多かったという記述を発見。これならどうか…いや、シダレザクラの開花時期も種によってまちまちで決め手にはならない。待て、シダレザクラは人工的につくられた品種で、母種はエドヒガンザクラらしい。これの開花時期はその名の通り3月下旬から。これなら3月30日に咲かせられそうだ(いつのまにか桜を咲かせることにやっきになっている)。だが、残念なことに自生のエドヒガンは西日本には分布していない。大阪にある弘川寺で自生のエドヒガンを見るのはちょっと無理だ。つまり、母種のエドヒガンからさほど血筋が遠くないため開花時期の早いシダレザクラがあったとして、それが弘川寺に植樹されていれば、西行法師はめでたく桜の下で死ねるわけである。「たら・もし」が多く決定打にかけるが、データとしてはこんなものだろう。
 ここまで調べてギブアップ。それ以上のことは資料では見つけられなかった。とりあえず、これをまとめて回答することにするとしよう。
 こういうこともやっているわけだ。気分が乗ると面白いが、結構消耗する。…そういえば「桜の樹の下には死体が埋まっている!」ってのがあったな…たしか梶井基次郎だったか(妹に借りた「東京BABYRON」でパクってたな)。ちょっと読んでみるか、たまには文学作品も悪くない。
(11/16)

 月刊「公募ガイド」12月号に「時効はありますか?図書館でしたいけないこと」というテーマの投稿があった。返却期限が遅れたとか、書き込みや破りとりをしたとか、こともあろうにつぶしたゴキブリをページに挟んだまま返したなどというものもあった。こいつら、自分のしたことを悪いと思っていない。文面から罪悪感らしきものは全く感じられないし、だいたい臆面もなく実名まで出して投稿すること自体、罪悪感を感じていない証拠だろう。そもそも、こんなテーマで投稿を募集する「公募ガイド」が一番悪い。これぐらい「笑って話せる程度のことなんだ」と言っているようなものではないか。
 自分のみを清しとするつもりはない。私だって借りた本の返却が遅れたことはある。しかしそれを恥ずかしげもなく吹聴する気には絶対になれない。
 遅れている本を待っている人がいるんじゃないかという想像ぐらいできないのか。ついでに、その利用者に謝ったり貴重な時間を費やして行間のアンダーラインに消しゴムをかけたりしているのが誰だと思っているのか。
 …書けば書くほど怒りが募る。やめ、やめ。
(11/15)

 今月カードの新刊が出ると教えてもらった。SFマガジンを確認すると確かに「消えた少年たち」の紹介が出ている。新刊紹介はちゃんとチェックしていたはずなのに、見逃すとはなんと迂闊な。カードの新刊はしばらくなかったので嬉しいのだが、しかし、(以下同文)。どうせ何冊たまっていようと発売当日に買うことだろう。
(11/8)

 草思社「サイエンス・マスターズ」シリーズの7、8巻が出ているのを見つけた。ドーキンス「遺伝子の川」やスチュアート「自然の中に隠された数学」など佳作の多い科学解説シリーズだ。5、6巻のあとずっと止まっていたので打ち切りになってしまったのかと心配していたのだが、出て良かった。良かったがしかし、なぜに今?借りたり買ったりした本が10冊ほどもたまっているのに。せっかく出てくれても、読んでいる余裕がないではないか。…ならば買わなければいいのだが、そうと気づくのはたいてい買った後である。
(11/7)

 2日、3日と仕事の代わりに4日、5日と休み。日は違えどちゃんと週休二日で祝日分も休めるのだから、文句を言うとバチが当たる。しかし家族には、ちょっと気を遣う。
(11/4)

 今日は「県民ふれあいデー」。要するに図書館と美術館が主催するお祭りみたいなものだ。ネーミングセンスについては、…言わぬが華だ。「じゃあどんなのがいいんだ」とつっこまれたら困る。当日係員に配られた特製のハッピについては、…いや、これも口にはすまい。
 イベントのひとつ「古本自由交換会」を担当。前もって集めた古本を自由に持っていってもらうという太っ腹な(自分で言うか)企画である。10:30からの開始なのに、9時前から人が来はじめる。フライング防止のため紐で仕切ってあるのだが、そのまわりを何回も行ったり来たりする人あり、目標の本から片時たりとも目を離さない人もあり。何というか、肉食獣の群を想像する。主催者側としては、はっきり言って、怖い。本来私に古本の番をさせるなど、猫にカツブシ、政治家に札束もいい所なのだが、この状況では手は出せない。
 10:30。放送と同時にみな棚に駆け寄る。児童書は5分でほぼ全滅。さすがお母様方、だてにバーゲンで鍛えていない。ほどなく漫画もめぼしいものはなくなる。文庫・一般書の方は絶対数が多いこともあるが、そうすぐには捌けない。みなじっくり選んでいるようだ。
 12:00をもって、1回目終了。2回目は13:00を予定。しかしなかなか準備がはかどらず、連絡の手違いもあって開始時間が13:30になったり、また13:00に戻ったり。待ってる人たちが殺気立っている。あそこのオバさんなんか、比喩でなしに目が三角だ。前に立たないようにしよう…。
 結局13:00に2回目スタート。前回に輪をかけた修羅場が展開される。私はこの時間だけ駐車場整理だ。いつもは面倒なことこの上ないが、今回だけはありがたい。
 15:00に戻ってみると、当然ながら児童書、漫画は跡形もない。一方、文庫・一般書は好みが分かれるせいだろうか、意外と掘り出し物も残っている。あ、神林長平「猶予の月」がある。あとで取っておこう。
 17:00終了。最後にひとり10冊の制限をなくしたので、だいぶ捌けたようだ。後片づけの手間が減るのでありがたい。……「猶予の月」がない。さっきまで残ってたのに。し、しまったあああ!
(11/2)
 コンピュータ、復旧完了。しかし、Cドライブをフォーマットしなければならなかった。直るには直ったが、なぜおかしくなったのかわからない。もう1年と少しぐらいは保ってほしいものだ。
(10/27)

 2週連続で図書館の週刊新潮が破りとられた。「ストリップの女王」一条さゆりの連載特集である。あきれて腹も立たない、とは本当にあるものだ。
 ページを破るほど欲しくても290円の週刊誌が買えないというのだから、さぞ貧乏をなさっている方なのだろう。ちゃんと作法通りゴザひいて「右や左の旦那様」とお辞儀するのなら、憐れんでやらないこともないのだが。
(10/23)

 コンピュータが動かないので本がよく読める。2日で2冊と半分。ついでに本棚の整理までしてしまった。これで本棚のスペースは半年ぐらい保つ。それにしても何かやることを見つけておかないとパソコン禁断症状で手が震えてくるかもしれない。
(10/20)

 パソコンが故障した。しかも自力で直そうとして事態をよけい悪化させたような気がする。さらに悪いことにメンテナンスディスクが正常に作動しない。不幸中の幸いはこのホームページのファイルやダウンロードファイルなどはバックアップをとっておいたことである。
(10/18)

 一昨日、昨日と久しぶりに大阪に帰った。いや「行った」というべきなのだが、20年近くも向こうに住んでいたので、どうしても里帰りの雰囲気が強い。しかし、アメリカ村と心斎橋筋の人混みに酔ってしまい、情けなくもダウン。そう、私は蒲柳の質なのである(なに、体格がメタセコイア?ほっとけ)。
 それでも吉本の「ワッハ大阪」と千日前の淳久堂には行った。淳久堂の壁面を埋め尽くす書架に圧倒された。なにせハシゴつきである。私は探していた「十億年の宴」「一兆年の宴」を見つけて満足。
(10/12)

 「エントロピーは増大する」図書館の書架整理をしていると、しばしば頭に浮かぶ言葉である。まったく、絶えず利用者の出入りする図書館で、エントロピーを減少させる=NDC配列の秩序を保たせるのは至難の業である。とくに出し入れが多く、薄くて大きさがまちまちな59代(あ、NDC知らない人には分からないか、手芸とか料理とかが分類されるところです)は思わず見なかったことにしたくなるほどの乱れよう。みなさん、読んだ本はちゃんと元の場所に戻しましょう。元の場所が分からなかったら図書館員に任せましょう。見当違いの場所に置かれるよりよっっっっぽど手間が少ないのです。
 他によく思い浮かぶ言葉「賽の河原」「シシュポスの罰」…いかん、疲れている。思考がネガティブ一辺倒だ。
(10/5)
 きのう職場からこのホームページをのぞいてみたら(仕事をしろ、仕事を)、アクセスが100人越えていた。千とか万とかいくページもあるので大したことはないのだろうが、こちらはテーマがテーマなだけに、身内以外は見るやついないんじゃないかと思っていたのだ。まずは、めでたし。
(10/3)
 共済組合から「メンタルヘルス・ハンドブック」とかいう冊子が配られた。何気なくめくっていると「職場外活動熱中症」という言葉が。ギクリとした。しかし、それって「心の病」とは違うんじゃないか…(むしろ健康なんじゃ?)。ま、私は少なくともワーカホリック(仕事中毒)の心配だけはない。
(10/1)
 今日の朝刊(うちは朝日新聞)でチンギス・ハーン人気のナゾという記事があった。ナゾも何も、そんなに人気なのか?そういえば「チンギス・ハーンの一族」は貴社出版でしたよねえ朝日さん。
 それはいいとして、橋本首相が歴史を知る一冊としてこの「チンギス・ハーンの一族」を推しているそうだ。政治家が推薦していると知ると急に読む気が失せる。知ったのが読んだ後で良かった。
 「大モンゴルの時代」(中央公論社,世界の歴史)の杉山さんの話も出ていた。「チンギス・ハーン」は正しくは「チンギス・カン」、「フビライ・ハーン」は「クビライ・カーン」である、とここでも言っていた。相当こだわっているようだ。
(9/26)

 本棚の残りスペースが心細くなってきた。今月はハードカバーを5冊も買ってしまった(しかももう1冊買う予定)のでサイフの中身も心細いことおびただしい。ハヤカワ文庫に割いているスペースはすでに飽和状態。安手の本棚は重みで段がしなっている。ここは涙をのんで、蔵書を放出しなければいけないだろうか。
(9/21)

 「マザー・テレサ、ダイアナさんの後を追うようにして死去」とかいう表現の記事があった。いくらなんでもマザー・テレサに失礼である。それは確かにダイアナさんの死は悲劇だし、大事件だとは思うが、それとこれとは全く別の話である。ボランティア活動家として語るなら、とてもダイアナさんはマザー・テレサと同列に扱えるモノではない。二人が親しかったというが、会ったのはせいぜい1回か2回ぐらいのはずだ。だいたい、マザー・テレサの体調が思わしくないとは、少し前に報道されていたことである。それをダイアナさんの事故から急に亡くなったような表現は控えめにいっても不適切というものだろう。もっとも、そういう報道があったところで、マザー・テレサ自身は別に怒りもせず静かに笑うだけのように思える。私が文句をいう筋合いではないのだが。
(9/19)
 やっと、曲がりなりにもホームページができた。誰か見てくれる人がいるといいのだが…。作るのはなかなかに面倒くさく、他にやりたいことも多かった(本も読みたい、ゲームもやりたい、ついでに仕事もある)ので難航した。一日が48時間あるか、自分が二人いたらいいのにと、ちらと考えた。しかし実際、一日が48時間あってもおそらくそのうち36時間はぐうたらと何もしないで過ごすだろうし、自分が二人いたら自己嫌悪のあまり病気になってしまうだろう。
 ま、見てくれる人ができたら励みになるだろうし、細く長く続けられればいいかな、と思ったりしている。
(9/14)

nabesan@blk.mmtr.or.jp
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