駄弁者の駄弁

別に知りたくもないでしょうが、駄弁者自身のことについて。それだけだとあまりにつまらなさすぎるので雑記帳を付けます。
タイトルページに戻る

司書の駄弁者
生 年:197X年
出 身:大阪府
現住所:岐阜県多治見市
職 業:その名の通り
趣 味:見ての通り


日々雑感98年1月〜6月


 郵便局に勤める私の妹は、現在保険の勧誘に忙しい。
「にいちゃん、にいちゃん、ほら、こことここに名前かいてハンコおすだけでええから。めんどくさなくていいやろ?」
お前、その言い方、悪徳商法が入ってるぞ。契約書に細かい字で、変な条項入れてないだろうな…。
(6/24)
「酒のない 国へ行きたい 二日酔い」
 むかし何とかいう落語で聞いた狂歌である。午前中いっぱい頭痛に悩まされた。蔵書点検の疲れと、電車の足止め が酒の効果を倍加させているようだ。
 それにも懲りず、夜にはワールドカップの日本−クロアチア戦を肴に缶ビールを空けている私がいるわけだ。ちなみに冒頭の狂歌、下の句はこうである。
「酒のない 国へ行きたい 二日酔い 三日たったら もどりたくなる」
(6/20)
 蔵書点検明けは恒例の親睦会(要は宴会だ)。今年は幹事をやらなくていいからと油断したせいか、やや飲み過ぎたかもしれない。まあ、明日は勤務日ではないからかまわんが…とか思いつつ電車に乗る。
 …しまった、寝てしまった。降りるのは終点だから乗り過ごす気遣いはない。だが時計を見ると、とうに到着しているはずの時間。なのに電車は終点の一つ手前の駅で止まったまま。大雨のせいで運行が完全にストップしているらしい。
 結局、1時間半も足止めを食らう。酒のせいで気分は悪いし、長時間座席でうたた寝したせいで首も痛い。職場の近くに引っ越したくなるのは、こういうときである。
(6/19)
 泊まり込みの次の日は休み。出勤してきた同僚たちを後目にひとり「お先に失礼しまあす」と言うのはたいへん気分がよろしい。
「なら、もう一回やるか?」
とは、先輩のあたたかいお言葉。謹んで辞退させていただいた。
(6/16)
 泊まり込み2回目。眠い。新着資料案内の原稿を書いているうちに机に座ったまま沈没。
(6/15)
 ただいま図書館は蔵書点検中。コンピュータを徹夜で動かすため、今日は図書館に泊まり込み。と言ってもコンピュータが勝手に働いているだけで、私の用はトラブルがあったとき救援を呼ぶだけ。キーひとつ叩くわけではない。寝ててもよさそうなものだが、一応目は開けて、このHPの更新をしたり、少しは仕事もしてみたり。点検中にあと最低1回(多分2回)当番が回ってくる。私は夜更かしが大の苦手なんだが。
(6/12)
 ふと目について手にした本。その名も「武器としての電波の悪用を糾弾する!」。ちょっと前話題になった電磁波関係の本かと思ったが、「武器としての」というからには違うだろう。産業スパイか、あまり見ないがECM関連だろうか?
 ……そんなおとなしい本ではなかった。これは電波を悪用して人の心を操る謎の悪の組織の存在と陰謀を知った著者が、世界各国の首脳に対し警告を発するための本なのである。言っておくが小説ではない。帯には「著者の実体験からの証言!」と書いてある。著者がクリントン大統領、エリツィン大統領、李鵬首相、ローマ法王らに宛てた手紙とそれについての解説で構成されている。それによると悪の組織(その正体は明かされていない)は電波によって人の思惟を操作したり狂人化したりする事はもちろん、気象操作や地震の誘発まで可能なのだそうである。電波で人を操るって……そりゃどっかのアヤしい系のゲームの話でしょうが。
 著者の実体験とはつぎのようなもの。
「電波で映像・意志を送る…みたこともない白人男性の憎しみの表情が頻繁に送られてきた」
…まあ、本人が見たと言うんだからこれはよしとしよう。
「体調の操作…吐き気、胸焼け、(中略)、水虫、いぼ痔等(失礼!でも原文ママ)が電波の操作で可能である。インドへ行ったとき体調不良に悩まされた。特にベナレスではひどい下痢と嘔吐に苦しんだ」
…単なる食あたりでないとすれば、ゆゆしき事態である。
「機器への悪用・ワープロ操作…しばしば経験するのは漢字へ変換するときである。あるときは変換でき、あるときはできない場合もある。これも電波によるものと判断している」
…いや、気持ちはわからんでもないが……。
「自然環境への悪用・地震・火山の噴火…雲仙・普賢岳の噴火。北海道南西沖地震、阪神大震災、そして伊東沖の地震と続いている。本当に自然な災害であったのであろうか」
…電波で日本が沈没するかも知れない。

 全編こんな調子である。トンデモを地で行く内容とはいえ、他人が真剣に書いたものをHPであげつらって茶化すなど司書としてあまり褒められたことではないとは思う。しかし、あまりにあまりだったので、どうしても誘惑に勝てなかった。お叱りは甘んじて受ける。
(6/2)


 久々にカード「帰郷を待つ星」シリーズを読み返したので、当HPの駄弁を更新することにした。メイン企画のはずなのに半年近く更新していない。怠慢といえば怠慢なのだが、去年11月に「消えた少年たち」が出て以来、続刊どころかその予定さえ聞こえてこないのでは、いかにファンとはいえ意欲は薄れる。まあ、翻訳SFの刊行ペースとしてはそれで普通なのかもしれないが……。
 しかし「帰郷を待つ星」も「エンダー」も宙ぶらりんのままである。原書が出てないのならともかく、両方既刊。ファンを称するぐらいなら原書を読め、といわれれば一言もないが…、そろそろ翻訳されてもよさそうなものだ。
(5/31)
 何なんだ、この感覚は。何か血管を血のかわりに溶けた鉛でも流れているような……。カウンター業務の疲れだけではないようである。半死半生(自分の感覚ではあながち誇張でもない)で何とか家までたどり着き、メシも食わずにそのままぶっ倒れて寝てしまった。
 翌日熱を計ると9度を超えていた。道理で辛いはずだ。
(5/24・25)
 休み。ゆっくり寝るつもりで、酒をのんで朝日が入らないようにカーテンも締め切って、万全の態勢で床に就く。
 が、目が覚めると朝の5時。しかもやけに目が冴えて二度寝が効かない。(ジジイか、お前は)
 そのくせ、昼頃になると寝不足で頭痛がし、まともに本も読めない有様である。神経がちょっとイカれているようだ。
(5/3)

 図書館のカウンター業務は、端から見てどうなのかは知らないが結構きつい。しかし、私は今のところ週に一度、土日にしかカウンターに立たないという気楽さもあって、平日の仕事よりは好きである。気分転換、と言えば普段からカウンターで苦労している人に失礼だが。
 またカウンター主務もいいかな、などと思ってしまう。一昨年、実際にそうだったときには何でもいいからカウンター以外の仕事にかわりたい、などと愚痴っていたくせにだ。勝手なものである。
(4/26)
 今週はホームページ更新しようかなあ…でもめんどいなあ…サボってしまおうかなあ…などと考えつつメールを見ると、
 なんとしばらく沈黙していた「名文句集」に投稿が来ているではないか!それも2通も!!しかも内輪の知り合い以外から!!!
 これはなんとしても掲載しなければ。奮起して更新作業に入る。HPを見てくれる人がいると知るのは本当に嬉しいものだ
(4/18)

 今度こそホームページ更新。たまっている「読後駄弁」を片づけるのだが、なかなか文章が思いつけないし、何とか書いた文章は最悪レベル。小説の感想は文句ばかりだし…。他人様にみせられるもんじゃない。我慢できる程度になるまでかなり苦労した。
(4/5)

 ホームページの更新をする…予定だったのだが、結局せずじまい。いかんなあ。
(3/30)

 水族館にて。魚を見るのも面白いが、他の客が話しているのを聞くのもなかなか面白い。
 こちらに背を向けているウツボを見ていたオバサンいわく、「何かイヤなことでもあったのかねえ?」……ひょっとしたらコワモテの容姿を気にしているのかも知れませんがね。
 一抱えほどある球形のサンゴ(脳ミソのようなヒダのついたやつ)をしげしげと見ていた別のオバサン、「これ、何?石?なんかのタマゴ?」……こんなタマゴがあったら生まれてくる奴はガメラかクラーケンだぞ。
 極めつけは外国人の親子(なのだろう、多分)。水槽にはりついていた子供がある魚を指さし父親に尋ねる。
「What’s this?」
英語がからきしダメな私でも、この程度は聞き取れる。
父親は記憶を探っているにしてはやや長い沈黙のあと、答えた。
「It’s a fish!」
英語がからきしダメな(以下同訓)。……お父さんは辛いね。
(3/22)

 この一週間、休日までのカウントダウンをしながら仕事をする。いや、いつもカウントダウンはしているのだが、今週は特に切実だった。多分来週はもっと切実だろうが……。
 とりあえず休めるという開放感と、来週の仕事からくる圧迫感が、私の購買意欲を不健康に刺激し、いつ読むかも分からない本を買い込んでしまう。(大丈夫か、おい)
(3/21)

今日の電話レファレンス。本の題名も著者も分からないが調べることはできないか、とのこと。
「出版社は分かりませんか?」「分かりません」
「題名の一部でも分かりませんか?」「…覚えていません」
「おおまかな内容でも…」「旧館時代(駄弁者注:ってことは少なくとも4年は前)カード目録をめくっていて偶然見つけたもので、確か歴史関係だったとおもうんですが…。」
「それではちょっと(実際「ちょっと」どころではない)お調べできませんね…申し訳ないですが」「そうですか…ありがとうございました、失礼します」
さて、私はよく当たる占師か、逆行催眠のできる医者を紹介してあげるべきだったのだろうか?
(3/8)

 雑誌「特選街」の特集、パソコンのQ&Aで「昔、MS−DOSというOSがあったそうですが…」という質問が載っていた。昔…。そうか、あれはもう「昔」なのか。ゲームの必要メモリを空けるため、ほとんど訳の分からないconfig.sysやautoexec.batをひねくり回していたのは…。
(3/5)

電車にて、隣に座る高校生ぐらいの男女の会話を聞くとはなしに聞いている。ヤなおっさんである。
「漢字のテスト、「玄関」のゲンの字、どう書くんだった?カンはアイダってすぐ分かったけど…」
「うん、どう書くんだったかなあ…」
お前ら、ちょっと待てえ!!ゲンを思い出すより前に、考えることはないか!?
こういうとき、つっこまず黙って聞いているのは非常につらい。
(2/27)
頭痛がひどく、起きあがれず。図書館を欠勤する。はからずも3連休になってしまったが、あまり嬉しくない。
(2/22)

 ここの「名文句」コーナーに投稿してもらったこともある”踊るらいぶらりあん”女史に、書評を書くのでお薦めのSFをリストアップして欲しい、と頼まれていた。今日で一気に仕上げる。日本のSFは詳しくないので翻訳物に限定し、載せる作品も結構絞ったつもりなのだが、それでもちょっとした長さになったしまった。
見たい方はどうぞ。txt文書で改行を入れていないので、ダウンロードしてメモ帳などで読むのをお薦めします。
私の薦めるSFたち(海外編)
(2/21)
 係長が県庁から回ってきたレファレンスをやっている。岐阜にいた戦国大名の関ヶ原合戦後の領地移動を追跡するために「寛政重修諸家譜」を調べている。「この大名たちも幕府から突然系図を作れと言われて、慌てて作ったんだろうなあ」という言葉、妙に実感がこもっていた。
(2/13)

 ディスプレイを持ち込みOKの修理屋に見てもらう。ブラウン管がだめになっていて部品の全取り換えが必要だとのこと。4、5万はかかるという。その値段にしばし硬直してしまう。そりゃ新品買うより安いが、しかし来年あたり新しいパソコンを買おうかと考えているのである。1年たらずしか使う予定のないものを修理するより、思い切って新品を買うべきか…。かなり悩んだが結局新品を買うことにする。来年買うときはディスプレイ別売の本体のみを買えばいい。
 しかし…ああ……はちまんえんんん!
(2/7)

 休み明け。出勤すると先日の「大槻家の家紋」レファレンス(1/31の頁参照)について、折り返しFAXが来ていた。「伊東氏の家紋が木瓜であるのはすでに分かっていました。伊東氏を通じてでなく大槻家の家紋が「木瓜」であるという記述の載った資料が欲しかったのですが…」云々。
 …………。
 だったら最初にそう書いておけ!
 それは、最初に行き詰まった時点で確認を入れなかったこっちにも非はないではないが、しかし最初のFAXにはどこまで調べがついている、などということは書いていなかった。
 じゃあ何か、私がこの間、ちょっとは気を入れて調べたことは全く無駄骨だったというわけか。
 「寛政重修諸家譜に大槻家自体の家紋についての記載はなかったでしょうか」か…。
 FAX用紙に大きく「知るか!」とだけ書いて返送することを、しばし真剣に検討した私であった。
(2/3)

 例によって、コンピュータがないと実に読書に身が入る。…禁断症状の一種みたいなものかも知れない。
(2/2)
 今日はホームページの更新をするつもりで、電源を入れると…ディスプレイに何も映らない。いや、真ん中に縦線が一本光っているのだが、それだけである。去年の初めあたりから、冬の寒い朝に電源が入らないということはよくあって、暖房をつけてから改めてスイッチを入れるなどだましだまし使ってきたのだが、とうとう年貢の納め時か。修理、いくらかかるだろう……。
(2/1)

 ちょっと厄介だったレファレンス。
 某市立図書館からのFAXである。「大槻家の家紋を調べています。もと仙台藩家臣、藤原姓で伊東祐親の次男祐清を祖とする…(中略)…16代目の清成が大槻家の初代だそうです」
 みるとすでに「姓氏家系大辞典」など家紋・家系についてのめぼしい資料は調査済み。さて見つかるかどうか。まず、これを調べて欲しいと注文のあった「寛政重修諸家譜」から。…大槻はない。ならば「伊東」の方から。こっちはありすぎるほどある。かつてゲーム「信長の野望」にハマった私にとって、伊東氏と言えば日向国の戦国大名なのだが、仙台ということなのでこれは関係なし。仙台、岩代、白石あたりにも伊東氏は多いようだ。しかし、「伊東祐親」「祐清」は出てこない。そこでこの資料には見切りをつけ、「三百藩家臣人名辞典」「戦国家臣団人名辞典」を引っぱり出す。仙台というから伊達家だろう。…なし。別の資料に芦名から伊達に移った伊東氏が載っていたのでついでに芦名氏のページも見る。しかし、こちらもだめ。
 ここらで諦めても怠慢ではなかったと思うのだが、相当時間もかけておりこちらも少々意地になっていた。市立図書館がすでに調べたという資料をもう一度あたってみる。すると、仙台藩の家臣で伊達政宗に使えていたのが件の16代目、大槻清成であることが判明。私はどうも勘違いしていたらしい。私は伊東祐親、祐清が仙台藩に仕えていた頃の人物だと思いこんで調べていたのである。うかつと言えば言えるも知れないが、FAXの文面を見れば私のように錯覚しても仕方がないんじゃないか。はっきり言って書き方が悪い。
 江戸初期の大槻清成からさらに16代前となると鎌倉時代あたりになるだろうか。すでに調査済みの資料も含めて家系図の根本から調べる直す。今度はすぐにみつかった。伊東祐親は藤原南家、為憲を祖とする工藤家からさらに枝分かれした家系らしい。この工藤家、伊東家の代表的な家紋は「木瓜」ないし「庵木瓜」「九曜」。家祖為憲の官職が「木工助(もくのすけ)」だったことからきているらしい。
 こんなところでいいか。FAXで回答を送って、一件落着……のはずだった。
(1/31)

 もう、震災から3年経つ。神戸にいた人たちに比べれば些細なものであるとはいえ、私にとってもあれは大きな体験だった。あの頃私は下宿先の尼崎にいた。何とか就職も決まり卒論の提出も終え、一番気楽な時期だった。卒業旅行というわけではないが、18切符で普通列車だけを乗り継いで北海道まで行ってみよう、と友人たちと計画していた。

 その朝はやけに早く目が覚めた。5時前である。当時は二度寝ができない体質だったので、素直に起きて朝食の用意をする。朝のバイトの時間までかなり時間があったので珍しくスクランブルエッグとしゃれこみ、コーヒーの湯を沸かしていたときだった。
 揺れが来た。地震は、そう頻繁ではないが仰天するほどのことでもない。念のためにと火を止めガスのコックを閉めた(後で、そうしておいて本当に良かったと思った)。とりあえずよし、と思った瞬間、激しい揺れが来た。体験したことがないほどの震動だった。かなり古い下宿はギシギシどころかガガガガという音を立てた、ガラスの割れる音もした。私は慌てふためいて外に飛び出した。後から考えると危険なことだった。扉を出てすぐの所にある、二階の踊り場を支える鉄柱につかまった。外はまだ暗く、ゆれた電線がとなりのそれと接触して発する火花がやけに不気味で目についた。
 震動はどれぐらい続いたのだろう。長かったようでもあるし、短かったようでもある。それがおさまった後も、少しの間足がふるえて動けなかった。しばらくすると、隣や向かいの住人がそろそろと出てきた。「すごかったねえ」「大丈夫でしたか?」などと、普段挨拶もろくにしないのにこのときばかりはお互い声を掛け合った。ラジオを持ち出してきた人がいたが、神戸の方で地震があったというほか、まだ詳しい情報はなかった。私は部屋に戻った。飛び出したとき開けっ放しだった扉は変形していてきちんと閉まらなかった。戻った部屋はまだ真っ暗だった。日当たりの悪い場所なので昼間でも電気をつけていないと薄暗い。その電気は…当然と言うべきか、つかなかった。これでは動きようがない。私は食器棚の倒れたあたりを避けて台所に入り、先ほどのスクランブルエッグ(どういうわけか、こぼれずもせず無事だった)をフライパンのまま食べた。今から考えると変としか言いようのない行動で、どうやら相当混乱していたらしい。

 どうやら動けるぐらいに明るくなったのは7時ぐらいだったのではないかと思う。壁には大きくひびが入っていてところどころで水がしみ出していた。本棚の本は8割方飛び出し割れたガラスや壁土と混ざり合っている。私の枕があったあたりにはパソコンのディスプレイが転がっていた。寝ていたらきっとケガをしたことだろう。台所では、食器棚が反対側の壁にもたれかかっていた。部屋が狭いので倒れきらなかったのだ。おかげで中の食器は半分ほどが無事。また流しに放りっぱなしのものもあるので、その方面の被害は少ない。…人間、何が幸いするか分からないものだ。部屋の外を見たのはこのときからだいぶ後だったがここで述べておくと、壁はおおむねはげ落ちて心棒や板がむき出し。それなのに小窓のサンに結わえ付けた郵便箱はしっかりくっついていて無性に笑いを誘った。
 とりあえず、動くに困らない程度に部屋を片づけていると、電気が回復した。8時にはなっていなかったと思うが、よく覚えていない。テレビでは当然地震のニュースをやっていた。それをつけっぱなしにしながら大して見もせずに作業を続ける。震源は淡路島、神戸は大被害…淡路に知人はいないが、神戸市には友人が多い。彼らは無事だろうか。それに自分の家族も心配してるかもしれない。
 自分の電話は使えなかったが、公衆電話は生きていた。まず実家。意外と心配していなかった。余裕があれば近所の伯母の家に応援に行ってやってほしいとのこと。了承して電話を切る。その伯母の家にかけると、伯母家族も無事、ただし部屋はかなり荒れているらしい。昼から応援に行くと伝えた。神戸で一番被害が大きい地域に住んでいるはずの友人には…つながらなかった(次の日無事と分かって安心したのだが)。
 約束通り昼から伯母の家に行く。途中町の様子を見る。ヒビや壁落ちは珍しくない。一階がガレージになっている家屋は二階が落ちてきていた。マンションが一つ、倒れそうなまでに傾いでいた。伯母の家での一番の大仕事は倒れたピアノを起こすこと。3人がかりで動かさねばならなかった。この下に人がいたら、シャレにならない事態になったはずだ。

 夕方、下宿に戻って本棚とパソコンの復旧にかかる。本はページの間に細かいガラスや土がはさまり、除くのに難渋した。何冊かは読むに耐えなくなっており、買いなおさなければならないだろう。コンピュータは問題ないようだ。ディスプレイが転げ落ちたのだが、布団の上だったので壊れなかったらしい。マハーポーシャのくせに意外としぶとい(…オウムの事件はまだあまり公にはなっていなかった)。
 夜もう一度、公衆電話(どこの電話も長蛇の列)から家に電話をかけた。朝よりかえって声が心配そうだ。情報の伝わるのが遅かったせいだろうか。友人が何人か電話をくれたそうだ。下宿の電話が死んでいるので実家にかけてくれたらしい。心底嬉しかった。彼らにも電話を入れた。
 一日の最後、晩をしのぐ食物を買いに、ダメでもともとと思いつつコンビニに行った。開いている、たいしたものだ。もっとも商品はあらかたなくなっていた。スナック菓子の小袋が2、3あるだけ。それを買って下宿に戻った。食事はコーヒーとその菓子。水道は夜には回復していたので助かった。伯母の家では水が出なかったのでこれは非常に運がいいといえる。何とか腹を落ち着けてから寝る。明日は神戸の友人たちに電話をかけてみることにしよう…。

 非常に長くなった(最後まで読んでくれた人、ありがとう)。私の95年1月17日はまずこんなところだ。かなり記憶が曖昧になっている部分もあれば、不思議と細かく覚えている部分もある。幸い私は震災で親しい人を失うことはなかった。神戸の友人もみな無事だった。それでも知っているいう程度の人が何人か命を落としたし、よし知人でなかったとしても、あの震災を片鱗ながら経験した一人として、亡くなった人々を悼む気持ちはある。それにまだ震災の被害は終わったわけではない。仮設住宅で孤独死する人々はまだ数多いと聞く。神戸の街も表通りはすっかり旧に復したようだが、少し奥に入ればまだあの日の痕は残っているのだろう。
 私は地震の後、家族のすすめもあってしばらく岐阜の実家に戻ることにした。自分だけ逃げるような、後ろめたい感情があったのを覚えている。なお計画していた北海道旅行は、結局行かなかった。
(1/17)


 文芸春秋2月号の書評「北上次郎のミステリー道場」にカード「消えた少年たち」が紹介されていた。メジャー総合誌で紹介されるとは、なかなかどうして大したものじゃないか、とちょっと嬉しくなる。
(1/14)
 同期の司書さんたちと新年会。明日は勤務なのだが、それでも酒は飲む。大した量ではないのだが、私は弱いので調子にのると次の日がツラい。しかし私の「自分は弱い」という真実の吐露に、集まった面々はなぜか文句があるようだ。本当のことなんだがなあ。まあ、「弱い、弱い」と連呼しながら杯を重ねる傾向があることも自覚してはいる。これは「ねじあげ上戸」(参考・司馬「最後の将軍」)の一種だろうか。
(1/10)
 明日から出勤。曜日の関係で休みは例年より長くなったのだが、8日休みがあれば、9日、9日あれば10日欲しいのが休みというものである。もっとも、休みだからといって何をする、ということもなかった。本も2冊読んだけだし。小人閑居して…という言葉があるが、不善でも何かを為しているならマシである。
(1/6)
 誕生日である。年齢の計算を四捨五入から切り捨てにかえなくてはならない。などと言えば上ので「生年:197X年」などとしている意味がなくなってしまうのだが。
(1/5)
 あけましておめでとうございます。新年早々このページを見てくださってるご奇特な方々に、年賀状代わりにアップロードします。では、おやすみなさい。
 …のはずなんだが、電話が使用中で更新できない。2年ごしで長電話しやがって。
(1/1・0時…を予定していたんだがなあ)
nabesan@blk.mmtr.or.jp
「日々雑感97年9月〜12月」へ  「日々雑感98年7月〜」へ
タイトルページに戻る