読後駄弁
1997読後駄弁1〜3月


・山内昌之「世界の歴史20・近代イスラームの挑戦」,中央公論社,1996.12
 読むのに二年越し、一週間もかかってしまった。まあ、他事ばかりで一日に読む量が少なかったせいもあるが、やはりこういう類の本は実際にも時間がかかる。
 この時代のイスラーム圏は逆風まっただ中。ヨーロッパの帝国主義的侵略もさることながら、現地政権の腐敗が何とも情けない。やはり隷従を強いられるにもそれなりの理由はある、ということか。この時代のイラン、トルコの知識人達が明治日本にとても高い評価を与えているが、その日本がこの後たどった道を考えると、今更どうしようもないことながら、恥ずかしく感じてしまう。さて、今の日本に対しては、イスラーム圏の人々はどのような印象を持っているのだろうか。トルコなどはかなり親日感情が高いようなことを聞いているが、どうしても「知らぬが仏」のような気がしてならない。
 この間に登場した人物で一番興味を持ったのがエジプトのムハンマド・アリー。この間読んだ田中芳樹の「中国名将列伝」にならって「イスラーム名将、名宰相列伝」を作るならまちがいなく彼、さらにひょっとしたら息子のイブラーヒムも、ランクインされるのではないか。あと、トルキスタンのヤークーブ・ベクなんかも。


・高橋吉文「グリム童話・冥府への旅」,白水社,1996.
 「白雪姫」「金のがちょう」などで日頃親しまれているグリム童話集。この童話集については、編者のグリム兄弟が民衆昔話の本来の姿を恣意的に改変したとの批判がよくなされる。だがその改変にはどのような意図があったのか?各童話に見られる執拗なまでの反復の多さ、前半部と後半部の対称性、頻出する跛行のアナロジーなどに着目して、ドイツ神話学、民俗学の開祖でもあったグリムが綿密に構築したメルヘン世界を探る一冊。素朴で無邪気な昔話に何気なく挿入される一節、無意味に見える残酷性が、その奥に隠された真の意味を読み解くことによって、太古の昏い神話にも通じるカギとなっていることが、豊富な事例とともに示されている。
 …というのが児童図書研究センターの「あひるの子」に掲載される文章である。あまり突飛な意見も書けないので、こんなもんだろう。正直な感想を言うと、大筋では納得できるのだが、細かいところになるとちょっとこじつけじゃないかと思う箇所もしばしば。白雪姫の女王様と、ギリシア神話のメドゥーサが同じなどといきなり言われても面食らう。
 それにしても、グリム童話の中の有名な話でも、結構知らない部分が多いことに気づいた。白雪姫の女王様が最後で焼けた鉄の靴を履かされて死ぬまで踊り続けたなど、初めて知ったことである。確かに子供に聞かせるには残酷にすぎるが。この本を読む前に、ちゃんとしたグリム童話集と、ロマン主義文学の概説書を一冊ぐらいは読んでおいた方がよく理解できるだろう。


・児島襄ほか「日米中国際シンポジウム・人類は戦争を防げるか」,文芸春秋,1996.10
 題名がすごい大風呂敷だが、内容は太平洋戦争の検証である。大学の時伊藤先生だったかが、事件を歴史としてみることができるようになるには百年かかる、少なくともそれを体験した人が死んでいなくなってからでないとできない、と言っていたが、確かにその通りのようである。シンポジウムの参加者全員、自国に傷がある事件ではどうも歯切れが悪い。アメリカの参加者は多少その傾向が少ないようだったが、なにせアメリカは侵略された側でも、戦争に負けた側でもない。
 南京大虐殺に関する日本人参加者の反応は、はっきり言って見苦しい。被害者が4万人だったか、40万人だったかなど、そんなにこだわる必要があるのか。4万人しか殺さなかった奴は40万人も殺した奴より道義的だとでも言うのか。40万人も、日本刀で、3日間で殺せるのか、という発言など、反論というよりただの言いがかりにしか聞こえない。本人達は歴史家として、事実をはっきりさせておきたいだけだと言っているが、それもどうも嘘臭い。中国側参加者はわりと冷静に対応しているが、さぞ腹が立ったことだろう。もっとも、中国側にしても、中国がやっている最近の核実験についての発言は言い訳がましいことおびただしい。
 このシンポの参加者は日本人もアメリカ人も自衛隊の海外派兵について肯定的で、中国人でさえそれを否定していないが、日本人一般となると、たぶん意見も違ってくるだろう。参加者は全員60歳以上のジジイばっかりなので、もっと広い年齢層から参加者を選んだ方が幅広い議論ができたのではないかと思う。また、太平洋戦争を論じるなら、中国だけではなく、朝鮮と東南アジアのどこかの国からも参加してもらえばよかったのではないか。


・ロバート・A・ハインライン「月は無慈悲な夜の女王」,ハヤカワ文庫,1976.10
 面白かった。コンピュータのマイクがいい味だしている。ちょっと古くさい感じがしないでもないが、それでもやはりいい。ハインラインはこれまであまり読まなかったが、これから少しずつ読んでみようかと思う。もっともこの本はどちらかというと異色作のようで、他を読んで面白いかは分からない。
 議会制についてこの本で言われているような意見には賛成したくない。議会制民主主義は確かに衆愚政治に陥りやすいが、かといって教授がいうほど救いようのないものでも軽視してよいものでもないように思う。ただ「賛成できない」と言いきれるほど見事な議会制の事例を見たことがないのが残念だ。まあ、アメリカ型の民主主義、自由主義を無条件に礼賛されるよりはよっぽどましなのだが。
 ラストでデ・ラ・パス教授が死ぬのは話の流れから予想できたが、マイクまで「殺す」ことはなかったのではないかと思う。


・赤川次郎「殺人を呼んだ本」,角川文庫,1996.3
 赤川次郎を読むのは中学のとき以来だ。あまりにもはやっているし、カルいという印象がぬぐえなかったので読まず嫌いで通していた。確かにカルいのはカルイが、しかし仕事の帰りで疲れているときなどはこんな本がちょうどいい。
 プロットとかストーリー展開にはとりたてて言うことなし。あえていえば第1の事件と第2の事件が好みである。しかし醍醐味はキャラクター同士の掛け合いだろう。
 登場人物が勝ち気な女の子と優柔不断な男の子で幼なじみ、というのは黄金パターンである。人気のある設定だからこそパターンにもなるのだが。


・林真理子「茉莉花茶を飲む間に」,角川文庫,1990.1
 貸してもらわなければ、この手の本を読むことは決してなかっただろう。しょっちゅう読みたいとは思わないが、たまには気分が変わっていいものだ。視野が広がる、とまで言えばいいすぎか。
 第1章から6章までに登場する6人の女性は後の章の女性ほど「最後まで戦う」女性である。個人的な好みで言うなら、第4章の陽子と第5章の留美を応援したい。しかし、こういう女性とちゃんとつきあっていくには男性も努力(というと変な言い方だが)が必要だ。


・椎名誠ほか「発作的座談会」,角川文庫,1996.10
 わざわざ感想を書くほどの本ではないが、面白かったという点では文句なし。中でも「おじさんたちの科学」は傑作。「ウィルスは空を飛び、バイキンは地を這っている」など思わず納得しかけてしまう…しないか。第2弾が出版されているらしいが、ハードカバーを買うのはちょっともったいない気がする。こういうバカ笑いできる類の本は文庫本の方がいい。ちょっと電車の中では読めそうにないが。


・陳舜臣「中国五千年(上・下)」,講談社文庫,1989.11
 「中国の歴史」のダイジェスト版。5千年を上下2冊にまとめると、王朝の交代や事件などが多すぎてかなりめまぐるしい。予備知識があるのでそれでも結構楽しめるが、中国の歴史物は初めて、という人にはあまり勧められないと思う。


・塩野七生「海の都の物語〜ヴェネツィア共和国の一千年〜(上・下)」,中公文庫,1989.11
 前の「中国五千年」に較べてこっちはゆったりした歴史物。「ヴェネツィアほどアンチ・ヒーローに徹した国はない」ということで、英雄や猛将や名宰相など傑出した人格は一部の例外をのぞき登場しない。それでも歴史概説書のような無味乾燥さが感じられないのは、ヴェネツィア共和国という国そのものをひとつの人格のように見立てて表現しているからじゃないかと思う。
 上のようなわけで特定の人物に特に興味がわく、というようなことはなかった。あえて挙げれば第4回十字軍の「黒幕」、エンリコ・ダンドロと、「宿敵、トルコ」の章でトルコ軍相手にゲリラ戦を戦い抜いたアルバニア王スカンデルベルグだろうか。当時のトルコ軍はスィパーヒーもイェニチェリも強さを失っていないはずだから、地の利があったとはいえ、相当の名君、名将だったのだろう。でも、この人の伝記など現地でもなければまず期待できない。
 当然のことかも知れないが、この本、ヴェネツィアを褒めすぎなんじゃないか。西欧史の知識は今一つ蓄積がないのでどこがどうとは言えないが。ちょうど今妹がイタリアに行っているが、帰ってきたらヴェネツィアの感想でも聞いてみるとしよう。


・礪波護・武田幸男「世界の歴史6・隋唐帝国と古代朝鮮」,中央公論社,1997.1
 前からちょっと知っている時代の話だったせいか、20巻より読むペースが速かった。しかし、宗教面に絡んだ中国史はこれまであまり読まなかったように思う。これまでは人物列伝を中心に展開するものばかり読んできたし、実際中国史は他の地域の歴史より宗教の影響が少ないように思う。儒教は、宗教というよりも政治哲学に近いものがあるし、道教は、少なくとも公式には政治の表舞台にたたないし。そういえば仏教は中国では土着の道教とかなり対立したようだが、日本では仏教と神道は伝来当初をのぞいてあまり対立したような話は聞かない。神道に原始宗教の名残が多く仏教ほどきっちりした枠組みができていなかったので、何となく共存してしまった、というところだろうか。あ、今思い出したが、廃仏毀釈というのがあった。権力者がどれかひとつの宗教に肩入れしてしまったとき、他の宗教が弾圧されて対立が生じると行った図式が成り立つのか。
 朝鮮史のほうは新羅、百済、高句麗(すごい、三国とも一発で変換できた)の争覇時代がおもしろい。これは小説にしても結構読めるのではないだろうか。金春秋とか金庚信あたりを主人公にして、新羅の統一までを舞台にすれば、いい線いくと思う。日本も登場するし。


・ロバート・A・ハインライン「宇宙史1・デリラと宇宙野郎たち」,ハヤカワ文庫,1986,3
「月は無慈悲な〜」に触発されて手に取った。ハインラインは確か4冊目である。さすがに古ぼけた設定の話が多い。何しろロケットに原子力だ。それでも作品はそこそこ楽しめるのだから、やはり大したものだと思う。この短編集で一番よかったのは「月を売った男」だ。民間企業が月旅行を計画するというのもすごいが、その資金集めのためのあの手この手がもっとすごい。ラスト近くの「かれは歴史など考えてもいないよ。かれは、ただ月に行きたいだけなんだ」は名言だと思う。さて、かれは月に行けたのだろうか。後日談が次の巻にあるようなので、それに期待する。


・ロバート・A・ハインライン「宇宙史2・地球の緑の丘」,ハヤカワ文庫,1986.7
 まず第一に「月を売った男」の後日談(執筆はこちらが先なので、続編というとちょっと違う)、「鎮魂歌」。かれは月に行くことは行けたが、結末はちょっと悲しい。物語としては陳腐といえるが、人が心を動かすのは、どうも独創性に対してだけではないらしい。それともパターンだな、と考えつつも物語にハマっているのは、私が単純なせいにすぎないのだろうか?他の作品にしても古くさいヒーローものだったり、腹が立つぐらい脳天気だったりするが、それでも「もう読むのやめ」という気にはならない。脳天気といえば、「夏への扉」もこれ以上ないほど脳天気だった。
 一番よかったのは「犬の散歩も引き受けます」。カバー紹介で名作と書かれている「地球の緑の丘」はそれほどとも感じなかった。音楽家が主人公のSFといえばまずカードの「無伴奏ソナタ」と「ソングマスター」を連想する。ハインラインとカードでは年代も作風も全然違うので、比べること自体適当とは言えないが、個人的にはカードの二作品の方がひいきである。


・クリスチャン・ジャック「太陽の王ラムセス2〜大神殿〜」,青山出版社,1997.1
 1巻を読んだときから思っているのだが、この小説、脇役は割と魅力的なキャラクターが多い。私はラムセスの秘書アメニが気に入っている。自由人セタオーも味があるし、友情と信仰の間で悩むモーゼも、これから面白くなりそうである。シェナルはいかにも悪役然としていて、今一つだが、アーシャはなかなか魅力的である。しかし、肝心の主人公がつまらない。何の変哲もないただのスーパーマンである。高潔で明敏で勇敢。ヒーローなんだから当然かも知れないが、こんなご立派な人間に感情移入などしていられない。なにか、奇癖があるとか、欠点があってくれたらよかったのに。そう考えるのは私だけで、実は私の根性が狭いのだろうか。


・マクドゥーガル「太平洋世界(上下)」,,1996.12
 読ませ方がうまいので、中だるみせずに最後まで読めた。歴史叙述は「ミレニアム」より奇を衒わないぶん、少し退屈かも知れない。特に日本に関する記述は分かり切っている部分もあったので、特にそう感じた。ハワイの歴史やロシア領アメリカのバラーノフなどに関する部分は今まで知らなかったことでもあったのでよかった。しかし、たとえ本文で退屈しかけたとしても間に挟まれる「賢人会議」が面白いのでそれを楽しみに読み続けることができる。この「賢人会議」でそれまでの話のまとめとこれからの話へのつなぎ、意見と予想される反論などが討論の形で述べられるのだが、登場人物がいかにも「らしく」ていい。ロシアのウィッテ以外、知らない人物なのだが、興味をひかれる登場人物ばかりだった。伝記なんかがあれば読むことがあるかも知れない。(後で忘れてしまうかも知れないのでここに記録しておく。カメハメハ大王の妃カアフマヌ、西海岸の伝道者セラ神父、国務長官スワード、ロシアの宰相ウィッテ、1930年代の駐米日本公使だった斉藤博、辛亥革命で孫文を支援したアメリカ人ホーマー・リー)


・眉村卓「不定期エスパー(全8巻)」,徳間文庫,1992
 相変わらずの一人ツッコミ。「引き潮の時」よりも多いのではないかと思う。しかし、こういう心の動きかたは、自分にも覚えがある。主人公のイシター・ロウはエスパーであることと格闘技の達人であることをのぞけば(って、のぞいた部分が多すぎるんじゃないか、とこれも一人ツッコミ…)、ごくふつうの秀才君だ。真面目で、しっかりしているようで実は結構その場の雰囲気にノリやすく、かといってノってしまった自分に気づかないほどバカでもないからふと我に返ってはツッコミを入れてみたり、自嘲的になってみたりする。その動きを逐一文章にしていくと、こういう風になってしまうのだろう。
 Y女史(眉村卓ワンダーティールーム店長)もF女史も、ラストはちょっと文句があるようだ。私も彼女たちとニュアンスは違うが、やや不満である。何となくこうなるんじゃないかな、と思ったその通りの結末になってしまったからだ。イシター・ロウがいかにもありそうな人間だから、いかにもありそうな結末になってしまったのだろうか。「引き潮の時」もそうだったが、最後はアンチクライマックス気味だった。
 蛇足。すべての人がエスパーである社会というのは、私には少し怖い。そんな社会が理想社会になると考えられるほど、人間を信じられないから。筒井康隆の短編で人間の心のマイナス部分を叩きつけられたエスパーが発狂してしまう話があったが、そちらの方がありそうな話だと思う。自分の心がさして美しくないことは嫌ほどよく知っているし、他人も自分と同じようなものだとすれば、そんな心など絶対知りたいとは思えない。それとも他の人はたいてい美しい心をもっているのか?突き詰めては考えたくないものである。


・サミュエル・R・ディレイニー「アインシュタイン交点」,ハヤカワ文庫,1996.6
 解らない。難解だが傑作、との評判のこの作品が理解できないというのは、正直かなり悔しいが、解らないものは仕方がない。グリーン・アイがキリストの比喩だというのはすぐわかったが、これは処女懐胎という点で一目瞭然なので自慢にもならない。他のキャラクターについては何の表象なのかひとつもわからなかった。何度かゆっくり読み返せばわかってくるのかも知れないが、当分そんな暇はないだろう。そういえば、買った本は時間をあけて3回は読み返す、というのがモットーだったのに、最近は1回きりしか読まないものが多くなってしまった。のべつまくなしに買い込んでしまっているせいだ。よくないとは思うのだが、なまじ金銭的に余裕があるとどうしても次々と新刊を買ってしまう。


・ロバート・A・ハインライン「宇宙史3・動乱2100」,ハヤカワ文庫,1986.9
 うってかわって、解りやすいことこの上ない作品。日本で出版されたのは80年代だが、書かれたのは戦前である。全体主義との闘いなど、もろに時代を反映している。軍隊をほとんど賛美しているのも時代のせいだろう。何しろ第2時世界大戦真っ盛り、ベトナム戦争は遠い未来だった頃である。もっとも、ハインラインは個人的にも軍隊が好きなようである。まだ読んでないが問題作「宇宙の戦士」を書いた人物なのだから。
 収録されている3作とも素直に楽しめる作品だが、「もしこのまま続けば」は長い割にラストが尻切れトンボのような印象があった。ここに登場する秘密結社組織の自由に対する考え方は後年の「月は無慈悲な夜の女王」のデ・ラ・パスたちに通じるものがある。「疎外地」は疎外地の住民が外の世界の秩序をぶちこわし暴力的だが闊達な世界を復活させて 終わり、という展開を予想していたのだが全く逆だった。確かに私もどっちに住みたいかと聞かれれば多少窮屈でも秩序の確立された世界に安住したい。しかし無責任な読者としては体制側がやはり正しかったのだ、という展開はなんとなく嫌である。「不適格」はよくあるヒーローもの。主人公のA・J・リビイは長編「メトセラの子ら」に登場するらしいので次にハインラインを読むとすればこれだろう。


・寺田隆信「永楽帝」、中公文庫,1997.2
 三国志より新しい時代の中国人物伝はあまりでないので、見かけた瞬間、「これは買いだ」と思った。田中芳樹の言いぐさではないが三国志以外の中国史の読み物は本当に少ない。こう言っている私自身、つい最近までは「三国志」一辺倒に多少「史記」を混ぜる程度だったのだからあまり偉そうなことは言えない。しかし、この永楽帝のような人物でも日本では知名度が低いのだから、田中芳樹が嘆くのは一理も十理もある。中国でなら小説もたくさんあるのだろうが、中国語は読めないし、訳されたとしてもやけに勧善懲悪ものだったりするから面白くないかも知れない。紹介されていた幸田露伴の「運命」はとりあえず近いうちに読むことにしよう。
 永楽帝が名将であることは間違いない。手兵800から始めて政権を獲得するなど尋常のことではない。名君、というにはちょっと血なまぐさすぎるし、性格も悪そうだし、内政がおろそかだが。帝位についた後、建文帝の旧臣達が永楽帝に従わなかったのは、確かに儒教道徳の影響が主だろうが、永楽帝自身の性格にも問題があったのではないだろうか。田中芳樹の「中国名将百選」ではこの時代の名将として姚広孝と鄭和が出ていた。永楽帝自身がこの時代最高の名将だったので、あとはその軍師の道衍(姚広孝)と有名人の鄭和ぐらいしか登場させるワクがなかったのだろうが、私は靖難の変で済南を守った鉄鉉を文官とはいえランクインさせたいと思う。


・J・M・ディラード「スタートレック・ファーストコンタクト」,ハヤカワ文庫,1997.2
 結局映画を見るまで待ちきれなかった。買わなければ良さそうなものだが、ことSTに関する限り、理屈で制御できるものではない。
 ピカード艦長がボーグへの復讐心にとらわれて冷静な判断を下せなくなる、という筋はいいと思う。ひょっとしたら艦長にアクションを演じさせたいだけだったのかも知れないが、この設定一つでピカードが俄然生きてくる。話の展開をエンタープライズE内と地球上との二つに分けたのは数多い主要登場人物にできるだけ見せ場を作ってやる必要があったためだろう。ST・TNGではひとつの話にテーマ二つ、というパターンが多いように思う。テレビの「バースライト」でもデータとウォーフのふたりに別々の展開(父親、というキーワードが共通しているが)があった。一筋の話に登場人物がひしめき合って、全員に見せ場を提供しようとしたあげく、作品がピンぼけするよりはこの方がずっといい。
 次の映画がボーグものだと聞いて私はテレビ編で自我をえたブルーが絡んで、最終的にはボーグとも共存できるようになるのだろうと踏んでいたのだが、はずれた。いくらシリーズものでも一個の映画である以上独立した話にしなければならなかったのかも知れない。しかし、「インデンペンデンス・デイ」といいこの「ファーストコンタクト」といい、最近「理解も共感もできない敵とのハルマゲドン」という図式が多すぎるように思う。そんな話がウケるアメリカに危険を感じるというのは大げさだろうが、SFファンとしてもそういう一方的な話は面白くない。「エンダーのゲーム」のバガーもボーグと同じような集合知性だが、こちらは最終的には(といっても続編の「死者の代弁者」のラストまで待たなければならないが)共存へと向かう展開になっている。


・栗本薫「グインサーガ55・ゴーラの一番長い日」,ハヤカワ文庫,1997.2
 大々々長編の一冊なのでこれひとつの感想は書きにくいのだが、題名だけ記録して次、というのも格好が悪いので形だけでも努めてみよう。前巻やその前よりも不健康な度合いは少ない。アリが登場しないせいと戦闘シーンがほとんどであるせいだろうが、やはりこっちの方が読んでいて楽である。戦闘中、相手を斬り殺しながら哄笑するのが健康的なのかと言われればそれまでだが、要は比較の問題である。
 しかし、主人公不在のまま、はや11冊目。この小説では珍しいことではないが、そろそろグインが登場してもいい頃じゃないか。主人公の活躍を外伝で語る、というのも普通ではやらないと思うが。(おお、結構たくさん書けたじゃないか)


・山崎元一「世界の歴史3・古代インドの社会と文明」,中央公論社,1996.2
 第1回配本の「ルネサンスと地中海」などはあまり概説的な記述がなく、一応の基本的事実をふまえた上での話となっていたが、こちらは普通の概説書に近かった。一般になじみのない地域、時代だとそうなるのだろう。なじみがない、とは言ってもそこは仏教の源、思わぬところに日本語との関係がある。仏教関係の日本語にサンスクリットに語源があるものが多いとは知っていたが、「旦那」「檀家」などもそうだとは知らなかった。
 歴史の長さは同じでも、れっきとした史書がある中国と違って、インドはかなり謎めいている。インダス文明についてもまだはっきりしたことまでは不明だし、年代についてもかなり不正確。このあたりの曖昧さや、史料が宗教書や叙事詩しかないあたりに、デニケンや高橋克彦が「遊ぶ」余地ができる。転輪聖王のまえ現れるという輪宝など、見る人が見たらUFO以外の何者でもないだろう。
 固有名詞が覚えにくいのには苦労する。世界史の授業で出てきたマウルヤ朝やクシャナ朝、グプタ朝、ハルシャ・ヴァルダナ王などはいいのだが、それ以外、南インドのチャルーキヤだとか、ラーシュトラクータ朝、北部のプラクティーハーラ朝など読んだ尻から忘れてしまう。高校の世界史もなかなかバカにはできないものだと思う。とりあえず、固有名詞は記憶を放棄して、この巻では大体の流れとカースト制の展開だけ頭においておくことにしよう。知りたくなったら、また拾い読みすればいい。


・フリッツ・ライバー「闇の聖母」ハヤカワ文庫,1979.9
 題名や表紙絵がSFらしくないと思っていたら、案の定ホラーだった。ハヤカワSFは代表作がSFの作家は他のジャンルのものもひっくるめてSF文庫に収録してしまう。
 登場した「闇の聖母」はオカルト本の化身だったが、私はむしろ本というもの全部がある程度「闇の聖母」なのじゃないかと思う。私の「闇の聖母」はクラーク・アシュトン・スミスやラヴクラフトではなくアシモフやカードやホーガン、あるいは司馬遼太郎や陳舜臣でできているが。寝床で女性の形に並べるほどまだトチ狂ってはいないが、気をつけていないとこの小説の主人公のように取り憑かれて現実から遊離してしまいかねない。しかも私には「バッハとモーツァルトとベートーベンの名にかけて」自分を救ってくれる人はいないのである。思いつく友人はみな自分の「闇の聖母」を飼っているし。


・コードウェイナー・スミス「人類補完機構・第81Q戦争」,ハヤカワ文庫,1979.2
 他の「人類補完機構」ものにくらべるとやや期待はずれ。めぼしいものは「シェイヨルという名の星」までで、残り物しかなかったのだろうか。コードウェイナー・スミスの売りの一つである中国語のちりばめた用語や人名なども、日本語訳だと場違いに聞こえるだけで対して魅力を感じない。原典を読めば(読めれば)また違うのかもしれないが。
 一番記憶に残るのは「ガスタブルの惑星より」。何のことはないブラックユーモアだが、なかば焦げて破れたチャイナドレスを着た美人がお椀と箸を持って、舌なめずりしながらアヒル型異星人の丸焼きに迫る様子を想像して妙に笑えた。スミスは北京ダックの味を懐かしく思い出しながらこの短編を書いたに違いない。


・森岡浩之「星界の紋章(全3巻)」,ハヤカワ文庫,1996
 以前から興味はあったのだが、表紙イラストが「プリンセス・メーカー」だったので今一つ手に取る気にならなかったシリーズである。I先輩がハマったらしいので(よくハマる人である)、借りて、というか貸し付けられて読んだ。見かけほどには悪くない。いや、非常に面白かった。登場人物が青春まっただなかの爽やかさなので、すれた人間にはちと面はゆいが、SFとしても物語としても読んで損はなかった。イラストだけで判断していたことを後悔している。
 作者が人工言語にこだわりを持っているせいで、アーヴ語の読み仮名がうるさすぎる嫌いはある。漢字+カタカナ読みは初出の一回だけにして、あとはどちらか一方にすれば読みやすかったのだが。それでは作品の雰囲気がそがれてしまう、という見方もあるので結局感じ方の問題か。このアーヴ語は日本語が起源らしいが、まるきり原形をとどめていないような気がする。どういう変遷でそうなったのか、それを説明するだけでひとついいSFができると思う。私は最初、単語が出てくる度にこの単語はどの言語から取ってきたのかと考え、日本語起源というのが作品内で説明されてからはどの単語が語源なのか当てようと試みた。途中で面倒になってやめてしまったが。皇帝を意味する「スピュネージュ」は「すめらみこと」、ばか「オーニュ」は「おろか」ないし「おこ」だと思うのだが、どうだろうか。また、アーヴ語では形容詞が名詞の後につく点が日本語とは逆である。言語学をやったことがないので分からないが、こういう変異の仕方はアリなのだろうか。
 …どうもこんな想像をするあたり、私自身結構ハマってしまったようである。本当ならアーヴ語の細部などは作者に任せておいて、読者である私は話を楽しめばよいのである。そうしないところが私はオタクなのだろう。


・ジョン・キーガン「戦略の歴史」,心交社,1997.1
 「戦略」と言うよりは戦争そのもののの歴史。「人類は戦争を防げるか」よりも戦争全般に視野が行き届いていて面白かった。クラウゼヴィッツ「戦争論」で述べられていることは戦争全般に当てはまることではなく、クラウゼヴィッツが生きた18世紀の啓蒙主義の中でのみ当てはまるものである、という考えは大いに納得。私もそうの通りだと思う。  この本では戦争史に大きく影響を与えた道具として、馬の牽く戦車、騎馬、鉄器、火砲が挙げられている。飛行機はそれに含まれないのだろうか。戦争のテンポ、破壊力は飛行機によって大幅に増大したが戦争思想への影響は少なかったのだろうか。戦記や戦争の小説は割とたくさん読んでいるが、戦争そのものについての論述はあまり読んだことがない。「戦争論」にしても途中で止めてしまった。他の本も読んでみるべきだろうか。
 最後に一つ。著者は現在、戦争はなくなりつつあるような希望的観測を述べる一方、軍隊がこれからも存在し続けるだろうとも言っている。これは矛盾ではないだろうか?


・アーサー・C・クラーク「宇宙のランデブー3(上下)」,ハヤカワ文庫,1996.9
 「宇宙のランデブー4」を読むにあたっての復習。クラーク得意の壮大なSF世界と、共著者リーによると思われる、キャラクターの繰り広げるドラマとが共存している。「2」「3」ではどちらかというとドラマ優先か。これについては批判が多いらしい。私は別にいいと思うのだが。純粋なセンス・オブ・ワンダーを求める読者にしてみれば、月並みなドラマシーンはうざったいのだろう。そんなものだったら他ジャンルの小説で十分間に合っている、といったところか。しかし、短編ならともかく上下二分冊になるような長編だと、キャラクターの牽引力なしには根気が持たないと思う。少なくとも私はそうである。
 話は変わるが、この「宇宙のランデブー」といい、「幼年期の終わり」といい、クラークの作品にはカミサマ的宇宙人がよく出てくると思う。あるいはクラークだけではないかもしれない。マクダウェルの「エニグマ」「トライアッド」にもそんな超越者的な存在が登場したと記憶している。キリスト教徒には受け入れやすいイメージなのかも知れないが、私はどうも違和感を感じてしまう。


・アーサー・C・クラーク「宇宙のランデブー4(上下)」,ハヤカワ文庫,1997.3
 さて本番。ラーマ三部作の中で一番よかった。解説にもあったが、「2」「3」よりクラークの持ち味がよく出ている。楽観的といえるほどの理性への賛歌である。主人公ニコルは文字通り死ぬ間際まで知識の探求を続ける。ふと思ったのが私自身は死ぬ間際に本を読んでいるだろうか、ということだ。ひょっとしたら、読んでいるかも知れない。
 このニコル・デジャルダンは小説の登場人物とはいえ、すごいの一言に尽きる人格である。こんな人が実際にいたら、ただただ尊敬するしかない。しかし、私が自分の器で一番共感できる登場人物は女婿の医師ロバート・ターナーである。この人はたぶん、自分が役に立たたずであることに過敏で、しかもそんな状態が耐えられないタイプなのだろう。その現れ方が極端だとはいえ、ニコルより彼の方が一般人に近いだろうと思う。


・亜満利麿「日本人はなぜ無宗教なのか」.ちくま新書,1997.1
 反省その1。「世界の歴史・隋唐帝国」で日本古来の神道は原始的なので仏教と争うことがなかった、という意味のことを書いたが、これは大いに「自然宗教」をナメた見解だった。この本によれば「仏教」という塊が日本の自然宗教というもやもやしたものに包まれて変質したという方が適当らしい。
 反省その2。私もこの本で批判されているような、内的な信仰心と外的な布教活動を別のものとして考えていた。「なにを信じようと自由だが、他人にそれを押しつけるのは間違っている」などというのはどうやら宗教に対する無知の現れらしい。とすれば国家が特定宗教に肩入れすることがいかに危険かということが改めて理解できる。「神のものは神へ、カエサルのものはカエサルへ」と戒めた聖書はなかなかどうして馬鹿にはできない。


・司馬遼太郎「最後の将軍」,文春文庫,1974.6
 久しぶりの司馬。この徳川慶喜という人物はなにをやらせても一流の人間になっただろうが、ただ一つ将軍という役には向いていなかったのじゃないかと思う。頭が切れすぎるのである。むしろ彼は誰かの知恵袋として、トップには立たない方が自他共に幸福だったろう。
 もうひとつ、彼に向きそうにないものがあった。大河ドラマの主人公である。原作のままの慶喜では時代劇風ホームドラマの主人公には到底なりそうもない。来年の大河ドラマでは、個々のエピソードは原作で紹介されているものを使って、慶喜のキャラクターはだいぶ違ったものにするんじゃないかと思う。そもそもこの薄い文庫一冊きりの話でどう一年保たせるつもりなのだろうか。


・今日泊亜蘭「光の塔」,ハヤカワ文庫,ハヤカワ文庫,1975.12
 戦前の冒険活劇かと思った。しかし初出は1962年、確かに古いがそんなに大昔と言うほどのこともない。SFとして日本独特の雰囲気を出そうとしたのかも知れないが、登場人物の言葉遣いや軍事的浪漫主義が21世紀という舞台とはあまりにミスマッチである。そこがいい、といえばそうなのかも知れないが。登場人物はたぶん私たちの子供か甥ぐらいになる思うが、そんな世代の人間が部下の罪をかぶって切腹するか?しかも、それに感動して政策方針を変更するか、31世紀人が!?
 SFとしては光速の限界を超えたことで生ずる時間逆行が主題である。この点ではチャチすぎず、難解すぎることもなかったので良かった。それに科学的(正確を期すなら疑似科学的)叙述は翻訳だと言い回しがややこしくなってしまうので、邦文の方がいい。


・長谷川輝夫ほか「世界の歴史17・ヨーロッパ近世の開花」,中央公論社,1997.3
 この巻で扱っている時代には、面白そうな人物が多い。フランスのアンリ4世、リシュリュー、ルイ14世。イギリスのヘンリー8世、スウェーデンのグスタフ・アドルフ。ロシアのピョートル大帝には以前から興味があって、伝記も読んだことがある。とにかく、歴史、というよりも列伝が好みの私にとっては読んでいて飽きない時代である。
 しかし、上に挙げたような華々しい活躍をした人物ははみな王か貴族である。表面には現れない民衆達にとっては、戦争ばかりのこの時代は悲惨なものだっただろう。歴史に興味を持つというのは、彼らの生きた時代がどんなものだったのかを探るものであって、いたずらに英雄列伝に胸を躍らすことではない。よく言ってもそれは歴史の一面でしかない。
 この本では18世紀フランスの日常生活に1章を割いていて、民衆の生活が多少ではあるが描かれている。


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