読後駄弁
1997読後駄弁4〜6月


・梶尾真治「ゑゐり庵綺譚」,徳間文庫,1992
 原点に帰ったようなおもしろさがあった。緻密なストーリーとか、先鋭なアイディアというのもいいが、時にはこういう軽く読めて単純だが良質、という作品もないと本来のSFの良さを忘れてしまう。
 「アンクル&コングのインクレジブル・ギャラクシイ・サーカス」ではラストでもろに騙されてしまった。SFを読みつけて久しいが、いまだにこんな単純なひっかけに乗せられるとは、ちょっと悔しい。もっとも、うまく騙される快感、というものも確かにあって、それがSF、とくに短編SFの醍醐味の一つである。
 「電気パルス聖餐」は「未知との遭遇」のパロディで笑えた。言われてみれば確かにあの宇宙人は今にも餓死しそうな格好だった。そういえば雑誌のインタビューで松本零司が、アメリカのSF映画に出てくる宇宙人はなんでみんな服を着ていないのか、宇宙人が見たら怒るんじゃないか、と言っていた。この作品と相通じるものがあると思う。


・ロイス・マクマスター・ビジョルド「自由軌道」,ハヤカワ文庫,1991.8
 これでロイス・マクマスター・ビジョルドの邦訳は全部読んだことになる。なじみの「ヴォルコシガン・サーガ」ではないが、同じ宇宙史の話なので、あまり違和感はなかった。
 足の代わりにもう一対の腕がついているミュータントというのは、今一つ頭でイメージしにくかった。猿のような、クモのような感じになるのだろうか。想像しにくい分、実際に見たときのショックは大きいことだろう。主人公はよく慣れることができたものだと思う。この「クァディー」はヴォルコシガン・サーガの短編にも登場していた。技術者ではなく音楽家だったが。すると、レオとクァディーたちの脱出は成功したわけだ。とりあえずめでたしめでたし。
 ネビュラ賞の受賞作は分かりにくい話が多いのだが、これはそうでもなかった。賞をとった要因のひとつはおそらく無重力状態での溶接作業の描写だろう。確かにこの部分はちょっと専門的だったが、適当に読み流してもストーリーの把握に問題はなかった。


・オリヴァー・サックス「火星の人類学者」,早川書房,1997.3
 私にとっては生半可なホラーより、精神分析とか脳病の話の方がずっと怖い。こちらは現実の話で、しかも自分もいつか直面するかも知れないことだからだ。
 そんなことを考えながら、この本を買った。結局私が期待していたのは変な病気にかかった変な患者の、変な症状なのである。そしてそれにおぞけをふるい、自分でなくてよかったと思う。楽しみさえしたかも知れない。これでは見せ物小屋の「ヘビ女」に群がるのとたいして違いはないではないか。この本のまえがきを読んでいて私は自己嫌悪に陥った。  登場する患者は病気であるにもかかわらず、というよりもその病気であるが故に何事かを成し遂げることに成功した人たちである(「最後のヒッピー」はちょっと違うと思うが)。それについて同情したりすることは彼らに対する侮辱である。ましてやその奇妙さを楽しもうとは言語道断だ。
 前にサックスの「妻を帽子と間違えた男」を図書館で借りたことがあるが、「火星の〜」を読んで、もう一度読み返してみたくなった。サックスの代表作「レナードの朝」も読もうと思う。ひょっとして私はまだ性懲りもなく、「世にも奇妙な(患者の)物語」を求めているのだろうか。残念ながら、それもあるだろう。好奇心、と言うか覗き屋根性はなかなか抜けてくれるものではない。ただ、それだけに堕さないように注意したいものである。
追記・個々で紹介されていた自閉症の博士、テンプル・グランディンの著書が邦訳であるらしい。多分読むことはないだろうが参考までに記録しておく。「自閉症の才能開発」「我自閉症に生まれて」(両方ともカニングハム久子訳、学研より)


・フレデリック・ポール「ゲイトウェイ」,ハヤカワ文庫,1988.5
 高校の時に一度読んだことがあるが、古本屋で手に入れたので復習してみた。宇宙を舞台にしているのに狭苦しい、閉所恐怖を感じさせるような(と言えば大げさだが)雰囲気である。確かに「無限の大宇宙」でも人間がそこで生きていくには密閉された環境が必要なのだから、狭苦しい方が事実に近いのかも知れない。解説では、この作品には「鉱山のイメージが横溢」していると書かれている。同感。
 2回目で結末を覚えているので、どういう風に伏線を張っているのかよく分かった。こういう裏側からの楽しみも悪くないと思う。
 「ゲイトウェイ」は正編が4作と番外編があったと記憶している。正編は全部高校の時に読んだはずなのだが、どんな話だったのかほとんど記憶がない。あまり面白くなかったのだろうか。だとしたら、続編を買ってもう一度読むのは止めようか。読み返せば案外いいと言うことも結構あるので考え物である。


・ジェフ・アボット「図書館の死体」,ハヤカワ文庫,1997.3
 ミステリーと言えば最近は島田荘司などの「本格推理」ばかり読んでいたので、こういう雰囲気を楽しむ類の作品は久しぶりである。とりたてて奇抜なトリックも出てこないので、かえって戸惑ってしまった。ラストの「実はおまえは私の息子だ」はちょっと陳腐な感じがするのだが、どうだろうか。
 主人公が図書館長で、殺人の舞台が図書館である、と言う以外にはとくに図書館は関係してこない。被害者が狂信的な禁書マニアだという点では図書館に関わっているが、それが殺人の動機というわけでもない。このあたりは期待はずれである。
 というわけで解説や裏表紙の紹介文で書かれているほど面白かった、とは言えない。シリーズものなので、続編に期待することはできるが、かえってコケる可能性もある。誰かに紹介してハマってもらうことにしようか(コラコラ)、それとも職権を濫用して、図書館で買うことにしようか(コラコラコラ)。


・清水義範「魔獣学園」,ソノラマ文庫,1984
 懐かしのソノラマ文庫である。小、中学生の頃は「クラッシャージョウ」シリーズや「銀河鉄道999」「地球へ…」のノヴェライズなどをよく読んだものである。思えば、初めて自分で買った文庫がソノラマ文庫だった。でっかい児童書ではなく「文庫本」だというだけで、何となく自分も大人の本を読むようになった気がして得意だった記憶がある。今思えばお笑いだが。
 あの清水義範が若かりし頃のジュヴナイル作品とは、果たしてどんなものなのか、しょうもないアクションものなんじゃないか、とか思って読み始めた。…確かにしょうもないと言ってしまえばしょうもない。しかし、いかにも清水義範らしい話である。この頃すでに彼のスタンスはできていたらしい。
 題名が作品に不釣り合いなバイオレンス調だが、これはよもや清水義範が好んで付けた題ではないだろう。たぶん編集サイドが読者層にあわせてハデにしたてたのだろうが、これは作品を全く損なうもので、失敗しているとしか思えない。この話のうようなドタバタが好きな人は「魔獣学園」という題の本は手に取らないだろうし、「魔獣学園」に惹かれた人はふざけた内容だと感じるだろう。


・菊池良生「戦うハプスブルク家」,講談社現代新書,1995.12
 西洋の列国史は登場する国が多い上に、血縁とかが交錯して、複雑である。カトリックとプロテスタントで対立関係がはっきりしているかと思えば、プロテスタントでも皇帝側を支持したりするし、フランスに至ってはカトリック国のくせに対皇帝側の黒幕なのである。こんな状況を切り抜けてきたのだから、ヨーロッパ諸国が軍事と外交に長けてくるのも当然だと思う。
 フェルディナンド2世の絶対主義的政策は結局三十年戦争が泥沼の戦いになる一因となってしまった。しかし、成功していたら彼は史実より200年以上も早い、しかもオーストリアまで含めた統一ドイツの祖となれたかも知れない。そうなっていたら、彼はフランスのルイ14世と同等か、それ以上の評価を受けていたにちがいない。


・リヴァシーズ「中国が海を支配したとき」,新書館,1996.5
 鄭和の大航海の概説である。一時的、名目的であるとはいえ中国がインド洋を支配下においていたという事実には胸が躍る。日本でももっと紹介されていいはずなのだが、どうも知名度が低い。鄭和の名はコロンブスか、少なくともヴァスコ・ダ・ガマと並ぶべきである。むしろ彼らのような山師と同列では鄭和に失礼とさえ言えるかも知れない。
 また、サンタ・マリア号の3倍以上もある巨艦を何隻も作っていた中国の技術力と経済力にも注目したい。中国にその意図があれば、ヨーロッパ勢力の到来以前に大植民地帝国を築いていただろう。それをしなかったということ一つで中国がヨーロッパより優れていた、ということにはならないだろうが、ヨーロッパより少ない流血で一定の秩序を築いていたとは言えるだろう。


・クリスチャン・ジャック「太陽の王ラムセス3・カデシュの戦い」,青山出版社,1997.4
 2巻はまだ脇役の活躍ぶりを楽しめた。しかし、この3巻ではそれもできなくなってしまった。脇役が目立たなくなってしまったのではない。彼らは相変わらず奮闘している。しかし、彼らが苦労して築き上げた筋立てを主役の英雄ラムセスがみなぶちこわしていくのである。
 まず、簒奪をたくらむシェナルとアーシャ。シェナルはおくとして、その知恵袋かと思われたアーシャが実はラムセスの味方だったなど、興醒めもいいところである。せっかくラムセスに知恵で対抗できる「魅力的な敵役」と期待していたのに。
 次にオフィール。アテン一神教の復活をたくらむ魔道師のはずが、実はアテンのことなど毫も信じていない、ヒッタイトのスパイだった、というのもいただけない。たとえ悪役でも自分の信じているもののために戦うのならば、(歪んでいようと間違っていようと)魅力的なキャラクターになりうる。しかし、それが嘘だった、ということでオフィールはただの三流悪役になり下がってしまった。ラムセスに敵対するものはすべて薄汚い嘘つきだというのでは、話があまりにも薄っぺらになりすぎるではないか。
 最後に最大の敵となっていたはずのヒッタイト帝国。彼らがラムセスに仕掛けた罠は全部成功する。しかし、ラムセスときたらその罠全てに見事はまっておきながら、力技と神がかりで粉砕してしまうのである。カデシュの戦いのクライマックスなど無茶苦茶としか言いようがない。文字通りの「デウス・エクス・マキナ」であった。敵の奸智と狡知に立ち向かうならば、やはり明智と叡知でもってしてほしいものだ。いや、そうすべきなのである。主人公が勝てば何でもいい、というものではない
 以上のようなわけで、腹立ちさえ覚える展開だったのだが、来月に出る続きを買ったものかどうか。本来なら全4巻のうち3冊まで買ったのだから残りも当然買うところである。しかし最後までこの調子で話が続くのなら1600円はいくら何でももったいない。それとも3巻であまり登場しなかったモーゼに最後の望みを託して、シリーズ全部そろえた方がいいだろうか?


・石井美樹子「王妃エレアノール 二つの国の王妃となった女」,平凡社,1988.4
 エレアノール・ド・アキテーヌ、12世紀当時フランス王を越える勢力を誇ったアキテーヌ公爵領の女当主であり、後には獅子心王リチャード1世の母となる女性の評伝である。ついでながら「宇宙のランデブー」の主人公ニコル・デジャルダンが尊敬している(という設定の)女性でもある。加えてどうやらニコル自身のモデルとなっているようだ。とすると、敬虔なマイケル・オトゥールがルイ7世で、リチャード・ウェイクフィールドがヘンリー2世というところだろうか。関係する順番が逆だが。
 エレアノールは中国でいうなら武則天、日本ではちょっと例えようがないがあえて言えば持統天皇というところだろうか。彼女の伝記は図書館に2冊あったのだが、女性の伝記なら女性の書いたものがいいだろうと思ってこちらを選んだ。


・陳舜臣「チンギス・ハーンの一族1・草原の覇者」,朝日新聞社,1997.4
 待望の単行本化である。もっとも、チンギス・ハーンについては同じ陳舜臣の「耶律楚材」や井上靖「蒼き狼」で大体の話は知っている。彼の死後、オゴタイやフビライの時代についての話が楽しみである。
 この第1巻では最後近くの耶律楚材と耶律留哥の会話が印象深い。「民族」というものについて考えさせられる。契丹人といい、漢人という。それは決して不変のものではない。契丹人が自らそう名のるようになったのは、この二人の会話から100年をさかのぼることにすぎないし、耶律楚材自身は自分は明日からでも漢人になれると言いきっている。しかも彼らの陣営で「モンゴル人」という新しい民族が作られている最中なのだ。誰が何人であるか、ということは結局その人たち自身の自覚次第である(「おれたちが部族だと信じているのがとにかく部族なのだ。おれたちが…部族だと言えば、そのときそれが部族なのだ」…カード「死者の代弁者」、ヒューマンの言葉)。それは確かに国語とか、風俗習慣の違いも大きな問題だろうが、ひとつの民族がただ一つの言葉や習慣を共有しているとは限らないだろうし、違う言葉をしゃべるから異民族だ、とも言えない。それを考えると民族が違うという理由で、何百、何千年も前からの敵であるかのように争うなどばかばかしいことだ。


・陳舜臣「小説マルコ・ポーロ〜中国冒険譚〜」,文春文庫,1983.4
 前の「チンギス・ハーンの一族1」よりも2世代後の時代の話である。「チンギス〜」もいずれはこの時代にまで話が進むだろうが。
 歴史物とはいえ史料に拘束されていない話なので、その分著者の持ち味がはっきり現れるのだろう。陳舜臣はもともとが推理作家なせいか、「最後のどんでん返し」がよく出てくる。女性がみんな結構くせ者、というのも同じ理由からだろうか。
 短編10話で全体が構成されているが、私は最後にもう一話あった方がまとまりがいいんじゃないかと思う。中国を旅立つポーロ一行に対し、復讐の念に燃えるラマ僧揚連真加(連の字が違うがこれしか出ん。まあいいか、どうせ当て字だし)が最後の攻撃に出る、という筋はどうだろうか。


・永井路子「永井路子歴史小説全集11・山霧」,中央公論社,1995.7
 大河ドラマ原作。我が家で人気のある元就の義母、杉が出ていないのがやや残念だが、割と面白かった。とくに元就とおかたとの関係はドラマよりも緊張感があって良い。だいたい、大河ドラマの元就は愚痴が多いだけで戦国武将らしい凄みがない。その方が面白いというのだろうが、演出過剰のようにも思われる。一方、おかたは原作の性格設定がだいぶ生きている。「天と地がひっくり返るわけじゃなし」という原作での口癖はドラマででもやってほしいものである。ドラマの「〜勝ったようなものです」は原作にはないが…。
 ところで「山霧」はおかたが主人公なので彼女の死で話は終わりだが、ドラマは「毛利元就」である。彼の死まで話を続けるのか、榊山潤の「毛利元就」のように厳島の戦いまでにするのか、それとも原作と同じ時点で止めるのか、それにも少し興味がある。


・堀川哲男「林則徐〜清末の官僚とアヘン戦争〜」,中公文庫,1997.4
 7月で香港が返還されるせいで中国近代史の本が良く出版される。(そういえば「世界の歴史」の次巻もこの時代だ)。
 著者は林則徐を研究して彼に対するイメージが変わったと書いているが、私はこの本を読んでもそうたいして林に対するイメージは変わらなかった。私の林則徐像は主に、というか全く陳舜臣の「阿片戦争」からのものだが、そこで持ったイメージとこの本で描かれている林則徐にはあまり違和感がない。それだけ陳舜臣の作品が良くできていると言うことだろうか。
 林則徐に対する私のイメージというのは、まず自分の立場に誠実な人というものである。清朝の高級官僚として彼は忠実に職務を果たした。私利私欲がなかったとまでは言い切れないにしろ、その私欲が公務と対立する場合には必ず公務をとったことだろうと思う。そのかわり、彼は革命家ではなかった。押し寄せる近代化の中で清朝がすでに時代遅れになっていたということに林が気付いていたかは疑問である。もし気付いたとしても、彼は清朝の人間として、あくまでその存続に努力しただろう。これは彼の限界なのかもしれないが、この限界があるからこそ林則徐は讃えられる人物になりえたのだとも思う。


・並木頼寿・井上裕正「世界の歴史19・中華帝国の危機」,中央公論社1997.4
 2冊連続で中国近代史。こちらは辛亥革命までの概説である。このシリーズは巻によって概説的な構成になるか、一定の予備知識をふまえた上での論述になるか、かなり差があると感じられる。どちらがいいのかは当然、自分がその地域、時代についてどの程度予備知識があるかによるのだが。
 思うに、幕末から明治にかけての日本は恵まれていたと思う。中国が阿片戦争に負けたおかげで「西洋化の波」にたいする準備が多少はできた。また中国という巨大なパイがあったからこそ、西欧列強はそちらに力を集中して日本を植民地化するのに全力を尽くさなかったという面もあるように思う。ついでに朝鮮、中国のパイぶんどり競争に参加することで日本も「列強クラブ」に末席ながら入ることができた。中国側からしてみればとことん隣人に恵まれていなかった、ということになるだろうが。
 もっとも、隣国の危機を見て素早く対応できたのは幕末、維新期の人物達の賢明さによるものだし、自国の窮状を打開するどころか助長したのは清朝の為政者自身の不明である。自由主義史観ではないが、このことについてことさら中国を被害者としてのみ扱ったり、日本について卑下したりするつもりはない。ただ、明治日本の成功は中国、朝鮮の状況が有利に働いた、ということは確実だと思う。
 本書では今まで批判的に論ぜられてきた西太后や袁世凱についても一定に評価をすべきではないか、という記述があった。当然のことだと思う。彼らにも彼らなりの思惑や立場があったのだろう。それを後世の私たちが善玉だ、悪玉だとのみ一刀両断するのは一方的であり、結果論というものである。しかし…袁世凱はともかく、西太后に関してはどうしても辛い評価をせざるを得ない。
 彼女の陵には清朝の対外借款を完済できるほどの宝物が納められていたという。話半分、いや十分の一としても彼女が為政者としても責務よりも自分の欲に重きをおいていたことは察せられる。この挿話一つで彼女の全体像を判断し、断罪することはそれこそ一方的にすぎるかも知れない。また彼女の存在一つで清朝の歴史が変わるということもなかっただろう。それでもなお、当時の中国の惨状は西太后にも責任があったことは確かだと思う。彼女が戊戌変法運動を弾圧したこと、また北洋艦隊の軍事費を頤和園の増改修に流用していたという事実もある。半世紀も政権の座についていたのだから確かに政治的手腕はあったのかも知れない。だが、その手腕と、それによってもたらされた権力を彼女が有効に使っていたとは、とても言えないのではないか。


・オリヴァー・サックス「レナードの朝」,晶文社,1997.3
 映画化もされたサックスの代表作。この映画はまだ見たことがない。この原作でのサックスの主張、病気には患者の人生そのものが反映される、というのが映画でも生きていればたいしたものである。
 気付いた点が3つ。まず、患者の家族が重要な役割を占めているということ。生き別れていた家族とであることで症状が良くなったり、家族と一緒にいるときだけは症状が出なかったりする。逆に、家族、特に母親と正常な関係を結べていないパーキンソン病患者はL・ドーパに適応することができず、悲劇的な結末に終わる。月並みな言いようだが、良くも悪くも家族関係は重要なもののようである。
 次に、病院というもののマイナス面について。家で過ごしているときに比べて、病院にいる方が症状が悪い現れ方をすることがよくあるようだ。大病院だと、どうしても患者一人一人に人間的に接している余裕がなくなり、「患者」というもの、あるいはデータとしてしか扱えなくなってしまう。組織としてはやむを得ない面があるのも確かだが、患者としては耐え難いこともあるに違いない。「…マーガレットがこの<気狂い病院>にいるとおかしくなってしまうのは、人生から切り離されてしまうからではないでしょうか」ある患者の妹の意見は重い。
 そして、仕事ができるということの意味について。「靴職人マイロン」で特にはっきりしているが、病気によって仕事ができなくなると急に症状が悪化し、それでも何とか仕事を続けていると少しずつ症状が安定する。「火星の人類学者」でもトゥレット症の外科医が手術の時は決してチックを発しないという例が紹介されていた。結局人は自分が必要とされていると感じなくてはいられないということだ。しかし……、実際に自分が仕事しているときは絶対にそんな感想が浮かんだりしない。難しいものである。


・眉村卓「消滅の光輪」早川書房,1979.4
 ワンダーティールーム店長さんが「司政官」シリーズ中もっともひいきにしている作品。心して読まなければならない。
 「引き潮の時」「不定期エスパー」よりラストで盛り上がる点が良かった。結局、マセ司政官は連邦経営機構のコマの一つでしかなかったわけだ。組織としてはそれで当然なのかも知れないが、このような策を弄するやり方では構成員の忠誠心が保たないだろう。司政官制度もだけでなく、連邦経営機構も落日が近いのではないかと思われる。
 先住民ラグザーハの絡みではちょっとクラーク「幼年期の終わり」が入っている。もっとも「幼年期〜」では「消滅の光輪」とは逆に人類の方が「チュンデ型」になっている。しかし、「消滅〜」の「ハムデ型」人類はいつか「幼年期〜」のオーバーロードのように「チュンデ型」異星人を宇宙意志へと誘うようになるだろうか。いや、そうした交流が不可能だからこそ「チュンデ型」であり、「ハムデ型」であるのかもしれない。


・オリヴァー・サックス「妻を帽子と間違えた男」晶文社,1992.1
 読むのは2回目。「レナードの朝」や「火星の人類学者」よりも「世にも奇妙な(患者の)物語」風が全面に出ている。読みやすいが、その分話の奇妙さを楽しむ覗き趣味だけで満足ししまいかねない。まあ、肩ひじ張って無理に教訓を見いだそうとしなくてもいいのだが、「変わった話」というだけで終わらせてしまっては描かれている患者達に失礼だと思うのだ。
 表題作「妻を帽子と間違えた男」や直観的に数字を「見る」ことのできる「双子の兄弟」などもインパクトが強いが、私にとって一番印象深いのは「アイデンティティの問題」の重度記憶喪失の男である。彼は記憶が数分も続かないという状態で「自分」を保ち続けるため、「物語」を創り続けずにはいられない。それをやめれば彼を含めた全世界は無意味な混沌へと陥ってしまう。この本の中でもっとも恐ろしい状態が描かれていた話だと思う。


・アーシュラ・K・ル・グィン「闇の左手」,ハヤカワ文庫,1978.9
 これも2回目。新しく読む本がなかったためのつなぎだが、それでも面白かった。「時間をあけたなら3回は読めるのが良い本である」というのが私の持論。その点この本は合格である。…まあ、このような広く認められている作家の代表作に対し、「合格」などとはおこがましい発言ではある。
 カードの作品に出てくる超高速通信機「アンシブル」はル・グィンの宇宙史シリーズ「ハイニッシュ・ユニバース」(「闇の左手」もそのひとつ)が元ネタなのだが、そのような小道具以外にもカードとル・グィンの作品には通じるものがあるような気がする。どこが、と言われるとうまく表現できないのだが、冒頭で「物語」について語っているところでそう感じた。
 両性具有人の社会がリアルに描けているという点で文句なし。挿入されるゲセンの説話が秀逸。しかし、登場するゲセン人は両性具有であるにもかかわらず、どうしても男か女どちらかでイメージしてしまう。アルガーベン王やエストラーベンは男性のイメージが拭えないし、一場面だけ出てきた「嶋の主人」はどうしても「宿の世話好きな女将」である。宦官をイメージするのもちょっとずれているような気がするし…。書いている今、思いついたのだが、その「嶋の主人」以外登場人物は全員男だったようなイメージがあるのだ。両性具有人だということは重々承知だが、キャラクターの姿を想像すると男性のシルエットしか思い浮かばないのである。私の想像力が貧困なのだろうか。女性が読めば違ったイメージになるのだろうか。これは試してみる必要がある。(とりあえず実験台は決まっている、というか選択の余地がないのだが)


・マイクル・クライトン「ロスト・ワールド(上下)」,ハヤカワ文庫,1997.5
 言わずと知れた「ジュラシック・パーク」の続編。前編を文庫で買ったのだからこちらもそれに合わせようとハードカバーで読むのを見合わせていた。どうせ映画化の前に文庫化されるだろうと思っていたが、案の定。
 前の話はカオス理論を登場させたから今度は複雑系、ということなのだろうが、やや狙いすぎの感がなきにしもあらず。少々とってつけたような雰囲気がある。もっともカオス理論も複雑系も本当のところを全く知らないのでうまく取り入れられているのかどうかも分からないのだが。
 前話から引き続いて登場するキャラクターはマルカム博士だけ(映画ではハモンド社長も登場するようだが)。しかし、この人は前回も今回も一番死にそうな目に遭いながら結局しぶとく生き残り、瀕死の重傷でうわごとまじりに「だからいったじゃないか」式の講義をやっている。…運がいいんだか悪いんだかわからない人である。講義内容「種の絶滅は外的要因ではなくその行動によるものである」は何となく納得したくなるものだった。しかし、この話のように恐竜の生き残り(か再生)でもいなければ確かめようのないことである。  登場する恐竜は前作と同じくT・レックスにラプトルがメインキャスト。となると前作とあまり変わりばえしないんじゃないかと思うが、さて。最後の方に出てきたカメレオン恐竜カルノタウルスが登場してくれないかと期待している。


・アーシュラ・K・ル・グイン「所有せざる人々」,ハヤカワ文庫,1986.7
 一種のユートピア小説か。…あまり住みたくないユートピアではあるが。話に登場するオドー主義がアナレスで実践されている理由は、やはりそうせざるを得ないからに他ならない。所有権を否定し全てのものを共有し続けることができるのは、そうしなければ全く得ることができなくなるのである。半分でも十分の一でも、全くないよりははるかにましに違いない。アナレスが肥沃な居住に適した星だったら、オドー主義は長続きしなかっただろう。…ソ連が崩壊するまでとどっちが長かっただろうか。
 それに対する主人公シェヴェックの回答を本文中で探すとするならたぶんこれである。「…あなたがたは変化を、可能性を、進化を信じませんね。あなたがたはわれわれの実在を信じるぐらいなら、希望が存在することを認めるぐらいなら、いっそわれわれを滅ぼしてしまうでしょう…)」彼の言うとおりだろうか。だったらいいのだが…。今のところ私は私的所有を気に入っている。


・佐藤彰一・池上俊一「世界の歴史10・西ヨーロッパ世界の形成」,中央公論社,1997.5
 やはり世界史全部となると、興味のある時代、地域もあれば、そうでもないところもある。今回の中世ヨーロッパは正直言ってあまり関心のない部分である。特にこの本のように社会史中心だと、読み進めるのがしんどい。それでも10章の「都市の革新」の中世自由都市の様子と12章「国民国家の懐胎」のジャンヌ・ダルクのくだりは面白かった。人物伝とか戦争関係の本を読んでみて再トライするのもいいだろう。
 ひとくちに中世と言っても3世紀の西ローマ帝国滅亡からルネサンスのはしりまで、千年以上が含まれている。これをひとつの時代として概説するのは実際強引なような気もする。


・栗本薫「グイン・サーガ56 野望の序曲」,ハヤカワ文庫,1997.5
 中盤に入って急展開が続く。このままだと60巻ぐらいでイシュトヴァーンは王位についてしまうのではないだろうか。そのイシュトヴァーンが元気な一方で、アリはこのところ今一つ迫力がない。スタッフが登場する分パワーダウンしているようだ。まあ、彼は元気でない方が話が健康的でいいのだが。ところで「グイン」サーガなのに主人公の活躍はとうとう外伝扱いになってしまうようだ。


・ロバート・J・ソウヤー「ターミナル・エクスペリメント」,ハヤカワ文庫,1997.5
 面白かった。ネビュラ賞だから多少は難解なのかと思ったがそんなこともなかった。といって、決して底の浅い話ではない。現時点でソウヤーの邦訳ははずれがなしである。脳死問題に臨死体験、ヴァーチャルリアリティ、AIなどなどてんこ盛り。相変わらずコネタも満載。全体の構成よりもアイディアの断片断片が楽しかった。あえて難を言えばスピリット、アンブロシスと普通の人間との認識の違いをもっと突っ込んで描いてほしかった。
 妻に浮気された主人公の「スピリット」がネットスペースで、一夫一婦制を守ることが進化につながる世界を創ってしまうあたり、スケールが大きいような小さいような…(苦笑)。


・アーシュラ・K・ル・グイン「風の十二方位」,ハヤカワ文庫,1980.7
 SF、と銘打ってはいるが、収録されている短編は半分がファンタジイである。SFも科学技術が前面に押し出されているものはなく、星を舞台にした、やはりファンタジイであった。小説、というよりも物語、とか伝承といった雰囲気の作品が多い。基本的にロマンチックで最初の方の作品はそれがストレートに表れているが、読み進めて行くにつれて(この短編集は年代順に収録されている)だんだんと複雑になっていく。
 気に入ったのは「四月は巴里」「マスターズ」「革命前夜」の三作。「革命前夜」は「所有せざる人々」の背景となる話だが、革命の象徴に祭り上げられてしまったオドーの孤独は、なかなか胸に迫るものがあった。「所有せざる人々」のアナレス人がことある事にオドーの言行を引用するのをみたら、彼女はため息をつくか肩をすくめるかだろう。


・ディケンズ「二都物語」,新潮文庫,1967
 「文学作品」など久しぶりである。といっても手に取った動機はスタートレックやターミナル・エクスペリメントで引用されていたからなのだが。
 言ってしまえば古くさい話だし、ラストもかなり前から予測できるものではあった。しかし、そこへたどり着くまでの展開や伏線、また細部のの表現などは、さすが名作という程のことはある、と思う。解説では物語構成のまずさが指摘されていたが、名作をあまり読みつけていないせいかあまり感じなかった。確かにラストのミス・プロス対マダム・ドファルジュの対決は蛇足だが(「二大怪獣大決戦」などとくだらん連想までしてしまった)。


・レベッカ・ニーズン「新宇宙大作戦・テレパスの絆」,ハヤカワ文庫,1997.6
 残念ながら、いままでの「新宇宙大作戦」ものの中では一番つまらなかった。特に意外な展開も息詰まる場面もなく、全体的に印象が薄いと感じた。メインになっているのがあまり思い入れのないトロイだから、ということもある。データが宗教についてあちこち聞き回る場面は悪くないのだが、これは作品ではなくデータというキャラクターの功績だろう。TOSならスポック、TNGならデータ、彼らを出せばとりあえずST小説として格好は付いてしまう。一番良かったのは復活した訳者ボケネコ先生のあとがきだった、とまでいうのは酷評にすぎるが。


・宮城谷昌光「奇貨居くべし・春風編」,中央公論社,1997.6
 秦始皇帝の(ひょっとしたら)父親、呂不韋の話である。少々意外な人物が主人公だ。この呂不韋という人物、史記などではあまりいいエピソードが紹介されていない。秦の公子に近づくために自分の愛妾を譲ったり、権力掌握後は秦の母后と密通し、もてあますと別の男をあてがったり。孟嘗君に対抗して食客を集め、「呂氏春秋」を編纂したという業績もあるが、これも「外面だけをつくろった行い」と評価されている。宮城谷作品の清廉で毅然とした主人公達とはかなり違ったイメージなのだが、これからどのように展開していくのだろうか。意地悪く言えば、どう見てもクリーンとは言い難い行いをどうフォローしていくのか。
 宮城谷の長編では表題になっている主人公とは別に主人公の父親的な役割を果たす(本当の父親である場合もある)もうひとりの主人公格が登場する。「重耳」の狐突、「晏子」の晏弱(これは実の父親だし彼自身も先代「晏子」なのだが)、「孟嘗君」の白圭らである。白圭に至っては全編にわたって登場し、こちらが「孟嘗君」の真の主人公であるとさえ言える。この「奇貨居くべし」でも趙の藺相如がこれにあたりそうな雰囲気である。狐突、白圭のような主人公格までいかなくとも「孟嘗君」の孫子のような、主人公の師としての役割となることだろう。
 主人公呂不韋はまだ一介の商人の息子、それも庶子である。将来、人質となっている秦の公子を「奇貨」…成長株とみて支援する呂不韋だが、未だ幼い彼に嘱望する人たちにとっては、彼自身も居くべき「奇貨」だったわけである。(このあたりの設定はさすがに巧い)


・パット・マガー「探偵を探せ!」,創元推理文庫,1961.3
 曝書中の疲れで体調が悪かったせいもあり、読むのに1週間もかかった。ふつうこの手の小説に3日以上かけることはないのだが。
 もっとも疲れのせいだけではない。一気に読み進められるほどの魅力を感じなかったせいもある。貸してもらった本をあまり悪く言いたくはないのだが、そういうことだ。夫を殺した妻が死ぬ前夫が呼んだ探偵を探す…確かに普通のミステリーと逆転した、奇抜な話である。だが……それだけなのでは?登場人物もありがちでどこか薄っぺらな気がしてならなかった。ひょっとしたら体調が悪かったせいで見る目もネガティブになってしまっていたのかも知れない。


・堀晃「遺跡の声」,アスペクトノベルズ,1996.12
 地味だが良品。A・C・クラークをややセンチメンタルにしたような雰囲気だった。国産SFとしては珍しいハードSF。特に最初の「太陽風交点」と3つ目の「救助隊U」が気に入った。
 主人公は名もない(本当に名前が出てこない…)遺跡調査員だが、彼はいわゆる狂言回しで結晶生命体トリニティの方がメインというべきだろう。茶化して言えば「名無し」さんは単なるトリニティの運搬係である。しかしこの主人公、「太陽風交点」では婚約者(のコピー)に死なれ、最後の「遺跡の声」では実質的に息子であるトリニティを喪ってしまう。前途の仕事に明るい展望もない。よくよく不幸なお人である。


・伊原弘・梅村坦「世界の歴史7・宋と中央ユーラシア」,中央公論社,1997.6
 宋・元は今私にとって中国史で一番ホットな時代である。きっかけは田中芳樹「中国武将列伝」、同「紅塵」、陳舜臣「チンギス・ハーンの一族」など。宋を舞台にした物語といえば水滸伝なのだが、せっかくだがあれは今一つ。登場人物が多すぎる上に話の展開が豪快すぎる…というか無理がありすぎる。
 宋代の文明について高い評価を与えながら、同時にその限界も指摘している点に興味を持った。中国の文明の先進性を語るときにはしばしば「西欧がまだ原始的だったとき、中国ではすでに〜」という言い方がなされる。ヨーロッパやアメリカばかりデカい顔するんじゃねえ、というわけである。近代以前の中国は他の地域より格段に進んだ文明を持っていたのは確かだし、じっさい近代の欧米が他の世界に対してするよりもよっぽどデカい顔をしていた(なにせ中華帝国である)。だが、近代に入って西欧が進歩したほどには、中国が進歩できなかったのもまた確かである。西欧が中国を追い越した理由、中国が西欧に追い越された理由を公正に評価する必要がある。当時の中国文明の先進性をいたずらに礼賛するのは西欧至上主義の裏返しにすぎない。
 話は変わるが、この巻では宋代の絵画から当時の社会の様子を推測したり、銅銭を投じ用いられたように輪にして首にかけてみたりという、文献探査とはひと味違った史料が所々で使われている点も面白かった。銅銭の輪を首にかけてみると非常に重いばかりか、一枚一枚の銭が肉を挟んで痛い、というところなど想像してみると笑ってしまう。文字ばかり追っていては分からないこともあるものだ。
 また泉州での架橋など、インフラストラクチャー整備が都市の繁栄だけではなく衰亡の原因にもなった、という話も興味深い。ハコものばかり作りたがる某自治体にも聞かせてやりたいものである。…こういう事例を参考にするのが「歴史に学ぶ」というものである。ビジネス本などにままある、歴史上の人物の言行などから現代に通じる処世訓を見いだすといったこと、それはその本の著者が取り上げた人物に仮託して自分の言いたいことを言っているにすぎない。それはそれで有用なのだが、「歴史に学ぶ」と言うのとは全く別の話である。


先頭に戻る
1〜3月の駄弁を読む  7月〜の駄弁を読む
タイトルインデックスに戻る ALL F&SF 歴史・歴史小説 その他