読後駄弁
1997読後駄弁7月〜


・栗本薫「グインサーガ外伝10・幽霊島の戦士」,ハヤカワ文庫,1997.6
 久しぶりに主人公(なのだろう、多分)の登場である。ただし外伝。外伝というだけ合って雰囲気も本編とは全く違っている。シリーズ最初期、ノスフェラス編のヒロイックファンタジー路線が復活している。
 これはこれで非常に面白いのだが、私はやはり本編の大河歴史巨編、言うところの「群像ファンタジー」の方が好みである。しかしこの「群像」達、どうもアヤしいのやらアブないのやら不健康なのやらが多すぎるので健全かつマジメなグインに早く戻ってきてもらいたいのだ。この外伝も3冊ぐらいでキリをつけてくれればと思う。しかし他人が1冊かけるところを2,3冊かけてしまうのが栗本薫である。少なくともその点では「日本のアレクサンドル・デュマ」「現代の滝沢馬琴」と言っても過言ではない。筆のおもむくまま、外伝のこのシリーズだけで全10巻、などということがなければいいのだが。


・浅井信雄「民族世界地図」+井上純一「宗教世界地図」,新潮文庫,1997.6
 2冊をまとめてしまったのは別に面倒くさかったからではない。いや、本当に。どちらも雑誌「Foresight」に掲載されたコラムを集め、訂正加筆したものである。  民族問題も宗教問題もこれほど世界を賑わせていながら、身近には今一つ実感のしにくい話題である。だいたい「日本民族」とかいうのを聞くととっさに右翼か、と身構えてしまう。これは多分私だけのことではないだろう。偏見だとは思うのだが、直らないものである。
 「宗教」と言えばどうしてもオウムのことを連想してしまうが、あれは「オウム真理教」ないし「カルト宗教」が問題なのであって、短絡的に同列に扱っては他の宗教も迷惑するだろう。大きな範疇でとらえるならいざ知らず、これも「宗教問題」とは意味合いが異なる気がする。とはいえ「シューキョー関係」で身構えてしまう偏見もあるのであって、これも私一人のことではないだろう。「神様を信じている」と公言するだけで何となく変な目で見られてしまうことそのものが、目下日本最大の宗教問題だと私などは考えるのだが。


・塩野七美「ローマ人の物語6・パクス・ロマーナ」,新潮社,1997.7
 待望の続刊である。一年の楽しみのひとつであるといってもいい。年1回刊行だが前の「ルビコン以後」がでたのは去年のはじめだったので実質は1年半近く待っている。いや長かった。
 本巻はアウグストゥスがテーマ。世界史では必ず出てくる名前だが、ローマ帝国の初代皇帝であるという事の他にはほとんど触れられずに通り過ぎてしまう。せいぜいがアクチウム海戦でクレオパトラとアントニウスを破ったこと、トイトブルクの戦いでゲルマン人に敗れたことぐらいだろうか。実際にも逸話が少なく、面白味に欠ける人物ではあったようだ。養父のカエサルが面白すぎるせいでよけい目立たないということもあるかも知れない。
 私はトップよりもその補佐役とかナンバーツーに興味を持つことが多い。この本でいけばアウグストゥスの「両腕」、アグリッパとマエケナスがそれにあたる。それもどちらかというと「表」のナンバーツーであるアグリッパより、裏方に徹したマエケナスの方がひいきである。公職に就くことがなかったため銅像ひとつ残っていない彼だが、その名前は「メセナ」の語源として二千年たった今でも伝わっている。…どうもこの手の話に私は弱い。それにアウグストゥスの言いなりになって妻を取っ替えてしまうアグリッパはちょっと卑屈にすぎるという気がするし。
 さてローマも帝国時代に入ったことだし、次巻はそろそろ暴君ネロあたりが登場するんじゃないだろうか。「クオ・ヴァディス」の時代である。来年が楽しみだ。


・石原藤夫「惑星シリーズ・ハイウェイ惑星」,ハヤカワ文庫,1975
 SFといえば海外ものばかりで日本の作品は何となく読まず嫌いを通していた私だが、どうしてどうして、国産SFも捨てたものではないという事が最近分かってきた。紹介してくれたY女史に感謝。
 二話目「安定惑星」四話目「バイナリー惑星」が良い。しかし「安定惑星」の”保護機構”、なにも壊してしまうことはなかったんじゃないか?もったいないことである。それと、話のテーマには全く関係のないところだが、ヒノ調査員が「つきあう女性に関するデータ」について話す部分がある。このうち「脳神経の反応パターン」、「外観の解析幾何学的形状」はいいとして(つまり「性格と容姿」ってことだろう)、「力学的強度」というのはいったい何なのだろうか。……バットか何かでぶったたくのか?


・トム・ゴドウィン他「冷たい方程式」,ハヤカワ文庫,1980
 ベスターあり、シェクリィあり、アシモフありのなかなか豪華なアンソロジーだが、この本の価値は何よりも表題作「冷たい方程式」にある。「一つのシチュエーションを曖昧さをいっさい排して吟味し尽くした、非常に稀な作品」というのが解説に載っている評だが、両手をあげて賛成したい。ただ、最後に少女が兄に向かっていう言葉はちょっと芝居がかりすぎているという気がする。もっと普通らしい、それでいて感動的な言葉はなかったものだろうか。…しかし、そういう難癖をつけてみるまでに私は3、4回もこの作品を読んでいて、読む度に自分はSFを好きでいてよかったと思ってしまうのである。


・陳舜臣「チンギス・ハーンの一族2・中原を征く」,朝日新聞社,1997.7
 冒頭でチンギスが死んで、ここからが物語の本番である。息子オゴタイや孫フビライが中心で話が進むのかと思ったが、違っていた。1巻から登場するナイマンのマリアやトゥルイ妃ソルカグタニ、オゴタイ妃トゥラキナを軸に話は展開していく。陳舜臣の作品らしい、年をとっても美しく、知性にもかげりを見せない女性達である。そういえばナイマンのマリアあたりは「秘本三国志」の少容と雰囲気がにていたような…。


・稲見一良「ダック・コール」,ハヤカワ文庫,1994.2
 普段はあまり読まない類のハードボイルド作品。第三話「密猟志願」のヒロ少年が何ともカッコいい。ただラストが急転直下なのが不満。まあ、物語のクライマックスは「男爵の森」の密猟作戦なのだからその後にもうひとつヤマを作るのは蛇足なのかも知れない。
 しかし、実は「密猟志願」よりその前の第二話「パッセンジャー」の方が好みである。この短編の主人公はあるいは時を遡ってかの「パッセンジャー」の大群にめぐり会ったのかも知れない。これを読んでいたときハヤカワの「80年代SF傑作選」に掲載されていた「みっともないニワトリ」を連想した。こちらはドードーの話である。

・礪波護「馮道」,中公文庫,1988.3
 長いこと探していた作品である。図書館にリクエストしたこともあったが「品切れ絶版」とのこと。半ば諦めていただけにふと見つけたときのよろこびは大きい。古本や巡り最大の醍醐味はこれである。
 馮道は司馬光ら朱子学系の儒学者からは「節操なしの破廉恥漢」と酷評されている。一方過激派儒学者の李卓吾からは「民が戦火から免れたのは彼のおかげ」とベタほめにほめられている。私が…司馬温公や李卓吾に続けて自見を述べるとはまたおそれ多いことだが…この本を読んだ限りでは、確かに彼は単なる保身家ではない。彼の行動は、そのときそのときで可能な限り文官としての本分を尽くす、という点で一貫している。彼のおかげで五代十国時代の流血と混乱が多少でも抑えられたことは間違いがない。また馮道もそれを自覚してこその保身であり韜晦であった。
 しかしだからといって馮道が人民を守ることのみを考えていたとまでは思わない。彼だって自分が可愛かったろうし、地位や富もあればあったで邪魔には思わなかっただろう。載せられているエピソードからも政治家らしい老獪さが見て取れる。だいたい、彼が君子か保身家かどちらかでなければいけない、などという法はない。そのどちらも彼の一面だったのだろう。またそのどちらも彼の一面でしかない。
 彼は時勢を変えることはできなかったし、多分そうしようとも思っていなかっただろう。だが、自分も含めてそこに生きる人々がなるべくうまく時勢に流されるよう努めたとは言えるのではないだろうか。


・小川秀雄・山本由美子「世界の歴史4・オリエント世界の発展」,中央公論社,1997.7
 カナン、ヒッタイトに始まってリディアやイスラエル王国の盛衰、アケメネス朝からヘレニズム諸王朝、パルティアと続いてササン朝ペルシアの滅亡までをカバー。そういえばバビロニアとかアッシリアについての記述が少なかったがこれは多分第1巻の守備範囲なのだろう。
 ヒッタイトのところであの(神懸かりのスーパーマン)ラムセス2世とのカデシュの戦いについて少し触れられていた。それによるとあの戦いはラムセスの勝ちではなく引き分けだったらしい。戦闘そのものよりもその後結ばれた平和条約の方が歴史的には重要で、これは原文の残っている限り世界最初の国際条約なのだそうだ。実際のところシリア情勢はヒッタイトに有利だったらしく、神の助けなどなかっただろう本物のラムセス2世はさぞ苦労したのだろうと思う。
 高校で世界史をやっていて疑問に思ったことがあった。「アケメネス朝ペルシア」があって「ササン朝ペルシア」がある。しかしその中間にあるアルサケス朝だけはなぜ「パルティア」と呼ばれるのだろうか、と。この巻で多少ともその疑問は解けた。


・岡嶋二人「焦茶色のパステル」,講談社,1982
 競馬関係のミステリーは初めて読んだと思う。私は元々あまり競馬はやらないし、それでいい思いをしたこともない(くそお、金返せ)。このごろ競走馬を育てるシミュレーションゲームが結構あるが、それもやったことがない。しかし、この作品は面白かった。主人公が競馬オンチという設定で、そっち関係については全部説明が付いてくるため、予備知識がいらないのは助かる。何よりも作品自体に作者の馬好きが窺えていい。殺された馬の墓を作ってやっていた浩司少年は、実は作者の分身ではなかろうか。また、他の登場キャラクターではお人好しのサ店マスター「良ちゃん」が好みである。
 作品には関係ないが、巻末の江戸川乱歩賞選考経過で雪吹学「ミスターXを探しましょう」という候補作がかなり厳しく評されていた。曰く「小説技法がいかにも幼稚」、「小説というものを根本から考え直す必要がある」、「これが大学生の書く文章かね」。最終選考にまで残しておいてそこまで言うこともないと思うのだが、こうまで酷評されるとかえって読んでみたいものである。しかし…読んでみて自分の文章より巧かったら、癪だな。


・幸田露伴「運命」(筑摩現代文学大系・幸田露伴・樋口一葉集より)
 文語体は読むのが疲れる。しかし内容を追うだけでなく音読のつもりで文章を鑑賞しながら読むと非常に調子が良く、「言葉に酔う」ということの感触が少し分かるような気がする。「豈図らんや造物の脚色は、綺語奇より奇にして、狂言の妙より妙に、才子の才も敵する能はざるの巧緻あり、妄人の妄も及ぶべ可らざるの警抜あらんとは。吾が言をば信ぜざる者は試みに看よ建文永楽の事を」うーん、名調子。
 内容が古くさいのはいたしかたなし。判官びいきを地でいっている。道衍などは有能さは評価されているとはいえ怪僧よばわりである。ま、彼にしろ彼の主君にしろ、悪く言われて動じる人物でもないとは思うが。  実は生きていた建文帝の乱後の行状と、征戦を繰り返す永楽帝とが並べて語られている後半ラストは派手ではないが、淡々としている分味がある。帝位についた永楽帝と僧に身をやつした建文帝と、果たしてどちらが安楽で幸福な生涯であったのか。「数なるかな、数なるかな」


・栗本薫「グインサーガ57・ヤーンの星の下に」,ハヤカワ文庫,1997.8
 今年は割とハイピッチで出版されているようである。結構、結構。先は長いことだし、頑張ってほしい。もっとも、ストーリーの方は今回少し展開が遅くなったようである。戦争は一時お休み、イシュトヴァーンにつきあってクム及びパロ国境の観光を楽しむ内容になってしまっている。次巻はまた急展開がありそうなので期待しているが。


・アーサー・C・クラーク「天の向こう側」,ハヤカワ文庫,1984.6
 クラークは長編をよく読むが短編はそれほど。1947〜57年の作品とあって、今となってはやや古ぼけた感は否めない。オチが読めてしまうものも結構あって、ちょっと残念。それでも表題作「天の向こう側」や「星」はよかった。「星」はたしかハヤカワの世界SF全集に収録されていて一度読んだことがあるが、オチを知っていても面白い。非キリスト教徒(私もそうだが)にはそれほどショックでもない話なのだが。
 「遙かなる地球の歌」は長編版を前に読んだことがあった。クラークの作品は情景を想像するといい、というのが私の持論だがこの作品もその一つである。反重力で宇宙船の「傘」となる海水を宇宙まで持ち上げるのだが、短編では液体のまま持ち上げるところを、長編では巨大な氷の塊にしていた。長編の方がイメージ的には壮大だと思うのだが、どうだろうか?

・檀上寛「明の太祖朱元璋」,新人物往来社,1994.7
 「運命」では聖人のようにほめられているが、実際のところ彼はそんな人物ではない。いや、違うか。それだけの人物ではない、という方が当たっている。「聖賢と豪傑と盗人の性格を兼ね備える」とは言い得て妙。しかし、彼に限らず帝王というのは多かれ少なかれその三者の性格を併せ持っているのだろう。
 この本では朱元璋についての著者自身の評価はなるべく抑え、読者の判断に任せるということになっている。かなり眉唾ものの生誕伝説もそのまま載せてあるのはそういう配慮からであろう。とはいえ、完全に客観的に、というのはやはり無理があるようで、そこかしこに朱元璋の行動をフォローしたい著者の意見があらわれる。

・阿刀田高「旧約聖書を知っていますか」,新潮文庫,1994.12
 欧米の翻訳物を読むと、しょっちゅう聖書の引用が出てくる。一度聖書には目を通しておきたいと思うのだが、信じてもいない宗教の教典を(しかもあんなぶ厚いものを)全部読む気にもなれない。そこで手にとったのがこの本。「創世記はスルメの頭、アブラハムからソロモンまでは胴、その他預言者たちの話などが足」という例えは笑いながらも納得。著者は胴の部分がお気に入りのようで、読んだ私も影響されてか、胴の部分に一番興味を持った。このあたりは歴史ものと比較的似た感覚で読める。
 しかし、たとえ信仰を試すためとはいえ、子供を生贄に差し出せと命じたり、難の罪科もないヨブを不条理にも不幸のどん底に突き落としたりする神によく帰依したりできるものだ。私はごめんである。(このヨブの話、カードの作品のモチーフになっているような気がするのだが)

・阿刀田高「新約聖書を知っていますか」,新潮文庫,1994.12
 前の続き。宗教の解説を信者が書いていたりすると、神の存在とか、教祖の神性とか奇跡とかはア・プリオリに受け入れてしまっていることが多いので、信仰を持たない人間としてはどうしても眉につばを付けたくなる。その点、この本は著者自身が自分は信仰を持たない人間だからと何度も繰り返し、信者以外の人間が受け入れやすい解釈を付け加えてくれるので、抵抗なく読める。かといって、奇跡とか予言を否定しているわけでもない。
 非信者の私としては著者と同様「人間」としてのイエスやペテロに惹かれる。イエスが十字架にかけられる直前で一時とはいえ自分の生きた道について疑い迷った(という著者の解釈なのだが)り、ペテロが自分の弱さから処刑されるキリストを「知らない」と繰り返し、後で後悔に泣きくれる、というシーンが好きである。著者自身が好きなシーンだと言って紹介しているのだから、私は完全に感化されてしまっているわけだ。
 「旧約〜」の方でも感じたのだが、弱者がその所属する世界を救済し、しかしそのことによって救済者自身は一層の苦痛をこうむる、というパターン(イエスの場合も当てはまると思う)はカードの諸作品の基本的パターンでもある。熱心なモルモン教徒のカードだから聖書はモルモン経に次いで身近で魅力的なテーマなのだろう。

・眉村卓「司政官」,ハヤカワ文庫,1975.9
 本当はもっと前に読んでいるのだが、順番が狂ってしまった。読むのは2回目。一番好きなのはやはり4話目「臨界のヤヌス」である。司政官制度がもはや時代遅れになりつつあるなかで、それでも司政官の権威と理想のために戦おうとする主人公セイ。「あなたには馬鹿げているかも知れませんが、それが司政官というものなのです」というセリフは雄々しくも哀しい。
 この「司政官」についてはHP「眉村卓・ワンダーティールーム」で非常に詳しく解説しているのでそちらを是非見てほしい(リンクあり)。そこでは登場する各司政官のキャッチフレーズなんかが作ってあるのだが…店長さん、3話目「遙かなる真昼」オキのキャッチ「カエルぴょこぴょこ三ぴょこぴょこ」って…。どっちかというと原住民ネネギアのキャッチじゃなかろうか?私の案「やせガエル負けるな司政官ここにあり」(字余り…)

・船引真吾・早瀬薫「銀河英雄伝説外伝1」,姐間倶楽部,1992
 10年来の友人が中身よりも装丁が面白いからと持ってきた同人アンソロジー。徳間の本家「銀河英雄伝説外伝」とそっくりにしてある。背表紙だけでは一見見間違うほど。裏表紙に著者写真を載せているところまでご丁寧に似せていた。
 内容は面白かったというよりむしろ懐かしかった。「銀英伝」を最後に読んだのは多分大学生時代だったと思う。買ったのは中学生の頃だからおそらく4、5回は繰り返し読んだだろう。
 短編6編のうち第1話「果てしなき回廊よ我を誘え」(題はファーマー「リバーワールド」のパロディ?)が一番面白かった。主人公はラインハルト・フォン・ミューゼル大尉。第3話「黄昏どきに」も、いかにもファンが書いたものらしくて良かった。

・グレゴリイ・ベンフォード「時空と大河のほとり」,ハヤカワ文庫,1990.1
 ベンフォードは科学的にもハードSFだが、思索的にもなかなかハード。短編集とはいえゆっくり読まないと頭に入らない。収録作のうち「時の破片」「ドゥーイング・レノン」は比較的軽く読めるのだが。
 一番のお勧めは「嵐のメキシコ湾へ」核戦争後のアメリカ、という時事的には時代遅れの観もあるテーマだが、次々と視点を変えながら物語が展開するあたりが面白い。この作品でベンフォードは南部作家としての自分をアピールしたらしいが、文学をほとんど解さない私ではそのあたりを読みとることができず、残念。「相対論効果」はベンフォード版「タウ・ゼロ」。衝突する銀河の間を超高速ですり抜けて衝突までの時間を遅らせようというスケールの大きさと、自己の出世に汲々とする登場人物の小ささとの落差が面白い。

・嵐山光三郎「兼好凶状秘帖〜徒然草殺しの硯〜」,角川文庫,1993.11
 最初の印象は良くなかった。「血染めの序段」で兼好が使う武器、手裏剣文鎮は我慢するとして、ブーメラン硯はいくら何でもいただけない。この調子が続けばかなり読む気をそがれたところなのだが、次の章からは面白くなってきた。兼好の必殺技は「五七の碁石投げ」に変更。大して差はないと見る向きもあるかも知れないが、私はこちらが気に入った。
 吉田兼好が忍者風のアクションをするという基本的には無茶な趣向なのだが、全体に古典の蘊蓄が散りばめられており、また歴史背景もしっかり踏まえているので、馬鹿馬鹿しいという気がしない。ただ中盤から後半にかけてあまり話が盛り上がらないのが残念。宿敵畜生法師との直接対決も期待していたのだが。
 最終章で「その後の兼好の活躍」を箇条書きに挙げているが、これはボツネタか未完成ネタの一覧なのだろうか?書き込めば面白くなりそうな話もあるのだが、もったいない。

・眉村卓「思い上がりの夏」,角川文庫,1977.6
 短編集。ただし「司政官」シリーズに非ず。
 第1話「島から来た男」はスーパー「指示待ち族」の話。社会がこういう類型の人間を生み出すと20年も前に予想していたのかと思いきや、実は当時も若い人はそうだ、と言われ続けていたようである。文句を言われていた人たちが今や言う側に立っている。してみると、今「指示待ち族」と言われている私たちだとて、20年も立てば今の中堅クラスがやっている程度のことはできるようになっているのだろう。そうなった時、私たちも若い人を指して「指示待ち」だの「主体性がない」だのと説教たれているだろうか。…多分、言っているのだろう、やれやれ。
 第2話「名残の雪」が今回一番気に入った話。読み始めで「ああタイムスリップものか」と少々ナメてかかった私は、浅はかだった。
 第5話「子供ばんざい」を読んで、かなり前に読んだ永井豪のマンガ(…題名は忘れた)を思い出した。こちらは急に大人がおかしくなって子供達を惨殺し始める話である。当時子供だった私はこの話がとても怖かった。今大人(…まあ、少なくとも外見は)である私は子供が徒党を組んで大人に圧力をかける「子供ばんざい」が怖い。私自身も子供にあまり優しい方ではない、ということもある。


・岡嶋二人「そして扉が閉ざされた」,講談社文庫,1990.12
 「本格推理」小説は話が論理的に進みやすいように、実際には起こりそうにない設定になることが多い。この話も他人には知られていない核シェルターに登場人物4人が閉じこめられる、というちょっと有りそうにないものである。本格推理が嫌いという人の中にはこういう現実離れした設定がダメ、という意見もあるようだが、私はその点全く気にならない。普段からSFで現実離れした世界に慣れてしまっているせいだろうか。
 登場人物の4人が時折パニックに首をひっつかまえられながらも、結構理性的に推理を進めていくところも本格推理ならではのことだろう。そうでもなければ凶器のアイスピックが4人の前に転がり出た時点で、殺し合いでも始めるか、誰かが自殺するか、という展開もありえたと思う。そんな陰惨な話、たとえありそうでも読みたくないものだが。
 それにしても正志君(登場人物の一人)、あわれよのう。甲斐性なしの秀才君はしょせんいい目をみられないのか …。

・杉山正明・北川誠一「世界の歴史9・大モンゴルの時代」,中央公論社,1997.8
 今までのシリーズ中で一番面白かった。歴史書としていいのか悪いのかは私では判断しかねるが、読み物としては間違いなく面白い。第1章は中国名産、染付から始まる。南宋末から元代に始まる染付はモンゴルの存在があったからこそ生まれ、発展したというもの。そして2章、3章でそのモンゴルについてチンギス・カンからクビライ・カーンまでの歴史が語られる。ここでも今まで私が高校世界史や小説その他などで知った通説を覆す見解、解釈が示されていた。チンギスの後、三男オゴデイが即位したのは末子トルイの向こうを張った次男チャガタイの画策ではないか、という説、そのオゴデイの死に従来忠臣とされる耶律楚材が絡んでいるという疑い(そもそも耶律楚材は誇大視されがちなのだそうだ)、など。また、ふつう教科書で言われる「四ハン国の分裂」も実は正確なものではなく、もともとモンゴル帝国は多重国家で、ことさら分裂したわけではない、しかも四ハン国は「モンゴル・ウルス」として一体性を保っていたという。
この第1部では全体的にモンゴル帝国が非常に高く評価されているが、とくにクビライ・カーンについては絶賛している。そのスケール、計画性、周到さは秦始皇帝ふぜいとは比べものにならず、かろうじて比較できるのはアケメネス朝のダレイオスぐらいというから相当なものである。多少極端な気もするが、著者の情熱が伝わってくるようで読んでいて快い。そのモンゴル・元朝が今まであまり評価されてこなかったのは、研究者がモンゴルの侵略を受けた側の西欧の資料か、あるいは漢文資料しか使っておらず、彼らの偏見に影響されてきたからだという。この点については確かにその通りだと思う。
 しかし勢い余ってか南宋や明にたいする評価は辛すぎるほど辛い。とくに朱元璋に関してはボロクソである。いくらなんでも、彼が「運が良かっただけの殺人鬼」にすぎないということはないだろう。朱元璋の伝記を読んだ直後なだけに、ちょっと文句を言いたい気分である。

・オースン・スコット・カード「アビス」,角川文庫,1989
 第1章、2章、3章を読んで「ああ、カードだ」と思った。話の筋には直接関係しない、主人公3人の幼時体験が語られている。これがあるとないとでは、話の見方が全く違ってくるだろう。離婚していた主人公の男女が危機を経て互いの絆を再確認していくあたりは、それだけみれば「お約束」パターンなのだが、カードにかかると上等の心理劇になる。潜水基地<ディープ・コア>の危機より彼らの葛藤の方が読みごたえがあるぐらいだ。(まあ、「二本のろうそく」あたりのエピソードはちょっと陳腐だが…)また、主人公と対立することになるSEALのコフィーも、第3章がなければただの石頭である。その他の脇役もカードはできる限り丁寧に描こうとしている。ただ、おおもとのストーリーで彼らの活躍があまり与えられてない以上、カードの得意のディティールづくりもやや不発気味である。
 異星人<建設者>たちの真理、行動の説明は文章ならではのことだろう。映画の方は見ていないのだが、この部分が映画に反映されているならたいしたものである。傍観を決め込もうとした<建設者>たちが、一人(と言っていいのかどうか知らないが)の同胞の説得で、人類に対して行動に出るあたりの展開はカード風味の感動を味わえる。これがなければ<建設者>はただの神秘的でお人好しなエイリアンにすぎなくなってしまう。

・アーサー・C・クラーク「渇きの海」,ハヤカワ文庫,1977.4
 「一難去ってまた一難」式の傑作。多分実際には月に「固体と液体の悪いところばかり具えている」塵の海は存在しないだろう。だがそんなことはこの作品の価値を毫も損なうものではない。ひとつの危機が解決されて、ちょっと気を抜いたところでまた新しい困難が待ち受けている、そのタイミングが絶妙で最後までダレさせない。科学的な裏付けも、これは理系で物理とか天文とかやっている人なら文句が出てくるかも知れないが、私にとっては全く隙がないように思えた。
 クラークの作品はたいがいそうだが、登場人物は感心するぐらい理性的である。「やつらの仕業だ…」と言い出すモルダー捜査官の子孫みたいなのも出てくるし、パニックになりかけて殴り倒される人物もいるのだが、基本的にはみな冷静である。実際こんな事故が起こったらもっとみんな取り乱すと思うのだが…。この作品で一番現実離れしているのはその点かもしれない。

・イアン・マクドナルド「火星夜想曲」,ハヤカワ文庫,1997.8
 ひとくちにSFといってもその範囲はかなり広い。この「火星夜想曲」と直前に読んだ「渇きの海」とは同じジャンルに入れていていいのか、と疑問に思うぐらい雰囲気もテーマも異なる。「渇きの海」は未来の話とは言っても、登場する科学は現在の水準で実現可能、少なくとも説明可能なものである。一方「火星夜想曲」は科学的整合性は追求せず、幻想的でイマジネーション重視。どちらがいいかは好み次第。ただし読み易さをとるなら前者である。
 題名に「火星〜」とあるが、内容的には別に火星を意識しているわけではない。原作名は作品の舞台でもある「Desolation Road(荒涼街道)」。「火星夜想曲」の名はマーズ・パスファインダーの着陸を当て込んだ戦略的命名だろう。有名なブラッドベリ「火星年代記」を念頭に置いているということもあるだろうが、ブラッドベリにあまり思い入れのない私にはそれほど関係を感じられなかった。ただ、その名の通り荒野だった「荒涼街道」に集落ができて、発展して、いろいろ事件が起こって、最後には元の荒野に戻る、という構図は確かに同じである。
 それにしてもこの「「荒涼街道」の住人は人並みはずれた才能の持ち主ばかりである(中には本当に「人」からはずれてしまったのもいる)。タイムマシンを発明して無限の平行世界へ旅だった学者、脳のチップから先祖の知識を利用できる元暗黒街の帝王、宇宙史上最高のハスラー、触れた機械を全て従わせる聖者、一労働者から巨大企業の重役となるもの、なりゆきのままに労働組合のカリスマ的存在となってしまうもの、核爆弾で50万人以上を殺害するテロリスト、大衆を思いのままに操る天才的アジテーター、エトセトラ、エトセトラ。なお、こういうふうに長々と例を並べ立てるのはこの作品の文章のマネである。  

・デイヴ・バリー「デイヴ・バリーの40歳になったら」,綜合出版,1992.7
 いや、私はまだ40代ではない。こう言うと同期には、特に女性には嫌がられるのだが、私はまだ四捨五入すればハタチである(これを書いている時点で、ということだが)。時には20代後半の先輩に年上に間違えられたり、ひとまわり年上の先輩と同年齢と思われたりするが、そんなことは全く気にしていない。断じて気にしていない。決して気にしていない。
 失礼。とにかくこの本を手に取ったのはデイヴ・バリーの邦訳が図書館にこれしかなかったからである。「翻訳の世界」に連載されている「サイバースペースのデイヴ・バリー」があまりに面白かったので探してみたのだ。内容は、40代に始まる肉体的老化(ハゲとか)、精神的老化(ボケとか)などについてアメリカンジョークで徹底的にからかうというものである。…読んでいる分には面白いが、目の前にいる人がこのノリだと、さぞ腹が立つことだろう。実際に40歳になったとき、この本を読んで笑えるなら、まずこの先大丈夫でやっていけるんじゃないかと思う。
 ほとんど全編悪ふざけで占められているこの本も、ただ一点、著者の両親が老いてボケだしたくだりだけはしんみりとしている。そのあたりが節度というものだろうか。
 ちなみに「サイバースペースのデイヴ・バリー」は11月に単行本が出るらしい。期待している。 

・安能務「隋唐演義」(上中下),講談社,1996-97
 田中芳樹監訳のものと、この安能版とどちらを読むか迷っていたが、中国史サイト「Water Dragon」掲示板の意見では安能版に好意的な意見が多かったのでこちらにした。インターネットが読書に影響を与えたのはこれが初めてである。吉と出るか、凶と出るか。
 どうしても「三国志演義」と比較しながら読んでしまうが、両者の視点はかなり異なる。「三国志」は国家ないし政権の指導者と、それに従う臣下たちの物語である。一方「隋唐演義」では豪傑秦叔宝とその仲間たち、いうなれば私党の面々が主人公となる。彼らは一応隋なり唐なりの国家に所属するが、それに絶対的な忠誠を誓わず、義兄弟のためには主命に反抗したり誤魔化したりすることを辞さない。「忠義」よりも「侠気」なのである。そういう秦叔宝や単雄信、程知節らの豪快な活躍がピックアップされる一方で、唐とそのライバルである李密や、竇建徳、劉武周との争乱はあっけなく片づけられてしまう。また唐建国の功臣であるはずの房玄齢、杜如海は活躍どころかほとんど登場さえしない。その点、三国志ばりの展開を期待していた私としては、不満と言えば不満である。しかし「水滸伝」のような、好漢たちの話としてみれば結構面白いし名場面も多い。とくに単雄信、義兄弟の中でひとり唐朝に従うことを肯んぜなかった男が刑死するシーンは泣かせる。
 全編の3分の2が上記のような唐建国時代の話で、残り3分の1が則天武后、玄宗と楊貴妃らの話である。これはこれで面白いのだが、蛇足の感なきにしもあらず。外廷での政治に失敗したが内廷では結構巧くやっていた隋の煬帝を冒頭にもってきて、外廷では名君だが内廷から乱れを発した唐の玄宗でしめる、という構図なのかとも考えた。しかし、ちょっとうがちすぎた見方かも知れない。
 三国志と異なる点といえばもうひとつ、この「隋唐演義」にはシモネタや艶笑譚が非常に多い。多すぎるぐらいである。それは確かに歴史は夜、女によって作られるとはいうが、そうしょっちゅう痴話喧嘩やセックスがらみのコンプレックスで作られてはたまらない。もっとも田中芳樹版の方を散見すると、こちらは同じシーンでもその手の話は目立たない。田中版が削ったのか、それとも安能版が加えたのか。

・オースン・スコット・カード「ハットラック川の奇跡」,SFマガジン88年11月号
 実のところ、これだけ読んでもしょうがない。この短編はアルヴィン・メイカー・シリーズ、すなわちまだ邦訳されていないシリーズのプロローグ部分なのである。「アビス」の解説にアルヴィン・メイカーシリーズが近刊と書いてあったが、どうもお流れになったようである。残念だ。超能力を持つ少女、ペギーが見たアルヴィンの未来がどんなものだったのか、知るには原書を読むしかない。そして私にはそんな英語力も根気もない。
 冒頭でそのペギーが、毎日卵を取りにくる人間を憎悪するニワトリの心を読みとって、怖くて日課である卵とりができないというエピソードがある。これはほほえましい話で素直に受け入れられると思う。しかしラストでそのニワトリはめでたくチキン・スープとなってしまい、それを知ったペギーはおじいちゃんに抱きついて大喜びするのである。日本の童話作家だったらこのラストのエピソードはいれないか、それともスープになったニワトリをペギーがかわいそうに思う、ということにするだろう。家畜に対する日米の考え方の相違というものだろうか。 

・オースン・スコット・カード「ドッグウォーカー」,SFマガジン90年10月号
 カードが書くとサイバーパンクはこうなります、という実例。舞台といい、回想風一人称の語りといい、サイバーパンクの代表選手ギブスンを意識した作りになっている。もっとも、物語はしっかりカード印だが。
 主人公のグー・ボーイは悪ぶってはいるが結構いいヤツ。彼は相棒ドッグウォーカーとの友情のため、最後は命と引き替えにドッグウォーカーを廃人にした組織に復讐しようとする。そのあたりをナマヌルイと感じる人もいるだろう。しかしナマヌルさを温かさととれば、これあってこそのカードであるとも言える。

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