読後駄弁
1997読後駄弁9月(承前)〜10月


・陳舜臣「チンギス・ハーンの一族 3・滄海への道 4・斜陽万里」,朝日新聞社,1997.9
 長い話で、これがまた淡々と続くが不思議とダレない。題材の元々のおもしろさが理由の一つ、著者の力が一つ、私が中国史好きなことがもう一つ。この3、4巻はフビライの治世が舞台となる。日本ではとくに世界史に興味がないと、元寇の元凶であること以外にあまり知られていないが、実はこの人、名君である。
 思えば、フビライとか元寇について初めて本で読んだのは児童用の伝記「北条時宗」であった。いわゆる「えらいひとのおはなし」だ。それではフビライは猛々しい挿し絵の暴君であった。一方、北条時宗は武者人形ばりの名君。モンゴル人から見ればすごく言いたいことがあるだろう。2度の防戦の出費で困窮しても御家人達は褒美をほしがらなかった、時宗と一緒に日本を守ったことを誇りに思っていたからである、などというようなことも書いてあったと思う。…史実と正反対だぞ。「蒙古襲来絵詞」は一体なんだ?こんな本を子どもに読ませるのは問題だと思うが。
 閑話休題(一回使ってみたかった)。読んでいて目を瞠るのはモンゴル政権下の人材の、民族的、宗教的な多彩さである。チンギスやフビライは当然モンゴル人である。しかしチンギスのブレーンとなった耶律阿海や耶律素材は契丹人の仏教徒、元朝の創業を助けた劉秉忠や姚枢、史天沢は漢人である。代々のハーンの后はネストリウス派のキリスト教徒が多い。またチンギスにもフビライにも色目人のイスラム教徒が経済官僚として仕えている。南宋征服の総司令官バヤンはモンゴル人だがもとイル・ハーン国の家臣だからイランから来ている。フビライが帰依したパスパはチベット人のラマ僧だ。その他高麗人、西夏人、ウイグル人などなど。そういえば、マルコ・ポーロもフビライに仕えていたのだった。彼はヴェネツィア人である。これほどバラエティに富んだ政権は歴史上そうなかったのではないかと思う。人種の坩堝だかサラダボウルだか名のっているアメリカでさえ結局は白人政権である。もちろん600年も700年も前のこと、人種間の平等という思想はなかっただろう。モンゴル人を頂点とするピラミッド構造の支配体制で、多くの漢人南人が抑圧下にあっただろう。それでも民族とか宗教とかで争いの多い現在、このモンゴル政権を見て考えるところはある。なんか優等生ぶった言いようで自分でも面はゆいが、そう思う。

・清水義範「偽史・日本伝」,集英社,19974.4
 毎度のことながら、この人はどうやってこういうネタを考え付けるのかと感心する。幕末で「ターミネーター」のパロディをやるというバカバカしいものから、元寇テーマのややレトロ風SF、報道特別番組「大化改新」など。そうかと思うと「日本一の頑固親父」「人殺し将軍」のように皮肉な見方ながら短編歴史小説で十分通じるものもある。最初の「おそるべき邪馬台国」の「邪馬台国=何とか銀座」説など思わず納得してしまった。
 私が気に入ったのはその「おそるべき邪馬台国」と北畠親房を扱った「日本一の頑固親父」、秀吉vs家康の「転がらぬ男」、そして長州藩主毛利敬親を軸に幕末を描いた「どうにでもせい」である。
 ところで最後の「開化ツアーご一行様」のそのまた最後でミスがあることに気付くだろうか。話の筋には関係ない、言うなれば重箱の隅をほじくるというヤツなのだが、他にそう言う間違いが見あたらなかっただけに目に付いた。

・雨の会編「やっぱりミステリーが好き」,講談社文庫,1995.3
 新人作家の、とは言っても7年も前の新人だから今では中堅どころになってしまっているミステリー作家達のアンソロジーである。ホラーあり、ハードボイルドあり。
 一番面白かったのは東野圭吾の「名探偵退場」。もっともミステリーとして面白いのとはちょっと違うが。ミステリーとしてなら最初の井上夢人「書かれなかった手紙」だろうか。折原一「殺人計画」は期待はずれ。「倒錯のロンド」ばりのもっと凝った叙述ミステリーを期待したのだが。高橋克彦「ゆきどまり」は直木賞受賞作の「緋い記憶」を思い出させるホラー。だんだんと時間線が曖昧になっていくのはこの人の得意パターンなのだろう。

・杉本苑子「隠々洞ききがき抄」,集英社文庫,1983.3
 有名な「お七火事」で焼き出された人々の模様を描いた時代小説。基本的に辛気くさい話なのだが、進行役の山伏、隠々洞覚乗の明るいキャラクターでかなり救われる。
 火事の元凶となったお七を礼賛する大衆の軽佻さに隠々洞が歯がみするシーンが一番印象に残った。庶民感情の代表者を自認する彼がその庶民達に裏切られるという皮肉、この辺りはただの時代劇とはひと味違った趣がある。(関係ないが私は「大衆」とか「庶民」とかいう言葉を使うのは嫌いだ。何か「やつらとは違って自分はカシコいんだ」とでも言ってるような気がする。)
 そういえば、杉本苑子を読むのはこれが初めてだった。今度気が向いたら「姫の戦国」でも読んでみようか。(「姫の戦国」は永井路子だ、ドアホ)

・阿刀田高「ギリシア神話を知っていますか」,新潮文庫,1984.6
 知っていますか、と聞かれれば旧約聖書とか新約聖書よりは知っています、という程度には答えられるだろう。「唯一絶対の神」よりは「神々」の方が親近感もある。しかし一神教でも多神教でも、神話のカミサマが身勝手なのは同じらしい。高校のときアシモフが書いたギリシア神話の本を読んだ(題は忘れた)。神々どうしの関係がややこしかったので試みに系図を書いてみたのだが、女性ないし女神(ときには男)から引いた線が全部ゼウスの方へとつながってしまうのであきれた覚えがある。
 この本では、特に系統だった序列ではなく、トロイ戦争やアルゴー号、オリンポス十二神の話についてエッセイ風に書かれている。演劇がらみの話が多い。
 ところで阿刀田高は中学から高校のときにギリシア神話に触れたそうだ。「私の現在の仕事にさまざまな形で影響を残している」らしい。この私が中学時代で読んだものというと…「三国志」「スタートレック」「銀河英雄伝説」etc.etc.……。こういうのに影響されると、私のような人間ができあがってしまう。吉川英治やロッデンベリィや田中芳樹に対して失礼な言いぐさではあるが。

・佐藤次高「世界の歴史8・イスラーム世界の興隆」,中央公論社,1997.9
 今回はかなり概説的な内容。ムハンマドからはじまってエジプトのマムルーク朝まで。イスラム教は「商人の宗教」=「都市の宗教」ということで、各章の副題にその時代の中心となる都市の名前が冠せられている。メッカ、メディナ、ダマスクス、バグダード、カイロ、コルドバ…。どれでもいいから、一度行ってみたいものだ。「商人の宗教」といえば、イスラム教は神アッラーのことを「いと高き債権者」ということがある。面白い表現だと思う。しかし取り立ては厳しそうだ。
 この巻で興味を持った人物は対十字軍のサラディンもだが、それ以上にマムルーク朝のバイバルスである。サラディン(正確にはサラーフ・ウッディーン。こちらの響きのほうが好き)はイギリスのリチャード1世と戦ったこともあって有名だが、バイバルスの方はあまり知られていない。彼だってアイン・ジャールート戦でモンゴル帝国軍を退けるという大殊勲があるのだが。そう、モンゴルに勝利したのは何も日本だけではない。しかもこちらは神風ぬきである。さて、バイバルスについて、日本語の本はあっただろうか…サラディンの方は数は少ないがあるのだが。東大出版から「マムルーク」が出ていたと思うが、あれは研究書でバイバルスの伝記ではないようだ。そういえば、「マムルーク」も「サラディン」も著者はこの本と同じ佐藤次高だ。この分野、人が少なかったからなあ。
 バイバルスはマムルーク朝5人目のスルタンだが、最初のスルタン、つまりマムルーク朝の創始者は実は女性である。シャジャル・アッドゥッル(発音しにくい…)という、女奴隷出身だが相当やり手の政治家だったようだ。在位が80日程度しかないので通史に名前が出ることは少ないが、とかく女性差別は厳しいイスラム圏でもそういう女性の活躍があったとは、覚えておいていいと思う。
 「世界の歴史」シリーズには毎回月報がついていて、ここの著者対談が結構面白い。いつもは研究者とか外交官とかなのだが今回はじめて女優が参加。檀ふみだった。この人もすごい教養人である。

・宮城谷昌光「楽毅」上・2,海越出版・新潮社,1996.2,1997.9
 2巻は97年2月出版と予告があったのに一向に出ないし、海越出版の「海燕」は休刊になるしでちゃんと続きが出るかどうか心配だったのだが、とりあえず出たのでよし。しかし「海燕」の休刊は惜しい。
 戦国時代(中国の、です)屈指の名将、楽毅が主人公。「人が見事に生きるとはどういうことなのか」がテーマ。主君に疎んじられあきたりなく思いつつも、小国中山の民を侵略から守るため奮闘する若き楽毅はオーソドックスながら確かに「見事に」生きている。彼の人生の山場であるはずの斉国攻略はまだ先の話なので続刊が期待できる。
 宮城谷の長編によく出る「父親的キャラクター」として楽毅を後援するのは、前の長編「孟嘗君」の主人公、薛公こと孟嘗君田文。ということで前作「孟嘗君」の続編、ないし外伝としても読める。
 ところで、1巻、2巻で語られる楽毅の活躍は史記「楽毅列伝」「趙世家」にも戦国策にも記述はない。創作なのだが、しかしひょっとしたらそういう逸話があったのかとこれらの史料を見直してしまったぐらい、よくできている。

・マリオン・ジマー・ブラッドリー「ダーコーヴァ年代記・惑星救出計画」,創元SF文庫,1986.10
 素直に楽しめるサイエンス・ファンタジー。戦士あり、魔法使いありのパーティがクエストを解きに冒険する、オーソドックスなパターン。ベンフォードなんかは「ファンタジー汚染論」でこのような類の作品を批判しているが、私にとっては面白ければすべてマル。
 主人公が人工的な多重人格である、というところがユニークなところ。もっともその点をもっと深く突っ込んで欲しかった。元々のあった人間嫌いの偏執的な人格と、クエスト解決のために引き出された正反対の人格があって、最後には二者が統合されるのだが、どうも後者の快活な人格が優勢な結果になったようである。その統合の経過もわりと安直だ。私としては、前者の人格をもっと丁寧に描いてほしかった。「彼は気が狂っていた」で済ましてはあんまりだという気がする。

・ロジャー・ゼラズニィ「わが名はコンラッド」,ハヤカワ文庫,1975.12
 読んでから少し経っているし、さて、どうやって書けばいいものか、ギリシア神話を下敷きにしたSFなのだが、合わないと言うのか、いまひとつ作品に入り込めなかった。面白くないというのとも少し違うのだが。とりあえず、核戦争の放射能で生まれたらしい奇妙でグロテスクな動物群の描写はよかった。…なんか浅薄だな。
 ピラミッドの取り壊し作業のシーンで交わされるベガ人とコンラッドの会話が、先進国の観光客と第3世界の技術者とのそれを彷彿とさせて面白かった。しかしこれも話の本筋じゃないな。物語全体を楽しむのではなく、断片断片のイメージを楽しみつつ読み流すというのも、これはこれで悪くないだろう。(ということにしておこう)


・ディーン・R・クーンツ「ウォッチャーズ」(上下),文春文庫,1993.6
 クーンツというとホラー作家のイメージがあるのだが、この作品はあまりホラーという感じがしない。あえて分類すれば、それでもホラーということになるかもしれないが、読んでいてあまり不安にならないのである。だから怖いという点ではいまひとつ。が、べつにホラーが読みたくてこの本を手に入れたのではないから、それはいい。私の動機は何かの雑誌(多分ダ・ヴィンチ)、この本の主人公である犬の評判がすこぶるよかったからである。人語を解し、タイルを並べて文字を綴ることさえできるという天才犬、アインシュタイン。彼と飼い主トラヴィス、ノーラらの出会いと交流、彼を追う怪物<アウトサイダー>との対決がこの話のメインである。全般的にキャラクターが前向きで読んでいて気分がいい(ホラーとしてはその点もマイナス要素か)。ちょっと説教クサい嫌いはあるが。
 <アウトサイダー>とは別にアインシュタインを追うナスコという殺し屋が登場するが、彼のエピソードがなぜ挿入されるのか分からない。他のキャラクターとほとんどアクセスすることなく、クライマックスの直前に現れて退治されてしまう。殺人淫楽症の異常者で<アウトサイダー>より彼のほうがよほどコワいのだが、キャラクターが無駄に使われているような気がする。ラスト対決で<アウトサイダー>と鉢合わせするというのなら少しは面白かったのだが。
 その<アウトサイダー>が死ぬシーンは良かった。著者のねらいにのせられすぎな気がしないでもないが、ここは素直にホロリとさせられておこう。ただ、セリフはないほうがより効果的だったと思う。

・栗本薫「グインサーガ外伝11・フェラーラの魔女」,ハヤカワ文庫,1997.10
 前巻に引き続き、本編とは趣向の違うヒロイックファンタジー調で話が進む。ただ、それならそれで主人公グインの冒険シーンをもっと増やせばいいと思うのだが、魔都フェラーラの描写や本編用の伏線などが多く、冒険そのものは1冊の3分の1もない。もっとも、この巻しか読まない、という人などいないのだから一向さしつかえないのだろうが。
 この巻のように主人公がグインだと、彼のキャラクターが寡黙という設定なので(それでも最近の巻ではかなり口数が多くなったが)、かならずスポークスマン役がつけられる。外伝2、4あたりなら吟遊詩人マリウス、本編なら副官アトキアのトールあたり。今回のシリーズでは黄昏の国の女王ザザがその役目を仰せつかっている。そういえば、グインのパートナーに女性がつくのは今回が最初じゃないか…正体はカラスだが。
 今年中にあと2冊グインがでるようだ。相変わらずペースが早い。早けりゃいいってものでもないが、見習ってほしい作家はたくさんいる。

・オースン・スコット・カード「消えた少年たち」,新潮90年9月号
 話だけみればただの幽霊話なのだが、問題はカードが自分自身の家庭を舞台にしたということである。長男スコッティはもちろん架空の人物だが、「わたし」やその妻クリスティーン、スコッティの弟妹たちは実在するカードの家族である。このため「現実に子供を失った親の気持ちがわかっているようなフリをして」不快だと、かなり論議を呼んだ。私個人としては、子供もいないことだし(将来の可能性も低いし)その点気にはならないのだが、よりによって問題になりそうな方向に話を持っていかなくても、とは思う。
 カード自身はこの作品を通して、スコッティよりも末の息子、障害を持つチャーリィ・ベンを語りたかったのだという。この短編ではそこのところは、ほとんど強調されていないようだが、この話は長編版があるらしい。そちらではどうなっているのか、興味はある。

・ブライアン・オールディス「十億年の宴」,東京創元社,1980.10
 長い間探していた本である。注文しなければ手に入らないだろうと思っていたが、大阪千日前のジュンク堂においてあった。さすが。
 欧米、とくにアメリカSFの通史である。この本を読むには私はまだ読書不足だったかもしれない。戦前の古典SFが主になっているせいもあるのだが、扱われている作品で読んでないものが非常に多かった。さすがにウェルズ「宇宙戦争」ヴェルヌ「海底二万里」チャペック「山椒魚戦争」ぐらいはよんでいたのだが、バローズ、ステープルドンあたりは1冊も読んでいない。正直言って今さらバローズのターザンやペルシダーを読もうとは思わないのだが、この本で評価の高いオラフ・ステープルドンのは読んでみる価値があるように思う。また、読もうにも邦訳がでていなさそうなものも多かった。
覚え書きに各章の主題をあげておく。
・第1章・SFの定義と、その定義の下で最初のSFと判断されるメアリ・シェリー「フランケンシュタイン」について。ここでのSFの定義は「人間と、宇宙におけるそのありかたにたいする定義−−現代の進歩した、だが混乱した知識の状態(科学)のなかでも変質しない定義−−を追求するもの」というものである。また大上段に振りかぶった定義だと思う。これだとふつうSFとは見なされない文学作品が含まれる一方で、エンターテイメントやジュヴナイルでかなり振り落とされるものが出てくるのではないか。この本が書かれた当時で、ということだから今ではまた違った定義ができるかもしれない。
・第2章・直接SFを書いてはいないが、その作品にSF的な特質が多く見られ、またSFに大きく影響を与えたエドガー・アラン・ポオについて。
・第3章・「フランケンシュタイン」以前の、SFではないが時にSFファンが元祖と見なしたがる諸作品について。ガリバー旅行記やロビンソン・クルーソーなど。著者はこれらがSFでないことを明確に主張している。
・第4章・ヴィクトリア朝時代ののSFとその作家について。次章の主役ウェルズ作品はこの時代の成果の上に立ち、それをまとめ上げたものある。
・第5章・H・G・ウェルズとその作品について。やっとよく知っている作品が出てきてくれた。
・第6章・ウェルズと同時代のSF作家と作品について。ライダー・ハガードやジャック・ロンドンらが含まれる。
・第7章・もっとも商業的に成功したサイエンス・ファンタジーシリーズの作者、エドガー・ライス・バローズについて。そのエンターテイメント性はここでも高く評価されているが、シリーズが続くほどに作品の質が悪くなっていくことが惜しまれている。シリーズものが陥りやすい悪弊は洋の東西、時代の古今を問わないようだ。
・第8章・30年代のSFについて。チャペックやハックスリー、ステープルドン、そしてヒューゴー・ガーンズバックが紹介されている。ステープルドンについては多分この本で一番と言っていいほど高い評価。一方、ガーンズバックについてはかなり批判的である。著者はメカニック重視の作品は嫌いらしい。
・第9章・ともすれば軽薄、俗悪になりがちなパルプマガジンの質を一気に引き上げた「アスタウンディング」誌について。編集長キャンベルと「アスタウンディング」からでた作家たちに焦点が当てられる。ビッグ3の本格デビューはこのころ。
第10章・50年代SFについて。ビッグ3の代表的な長編はこのころにでている。クラーク、ハインラインに比べるとちょっとアシモフの扱いが小さいように思うのだが…。ほかベスター、シェクリィなどアスタウンディング外出身の作家たちについても紹介。
第11章・60年代SFについて。時代が近いせいか、今一つ焦点が定まらない。最後の方は作家名の羅列になりがちである。
 全般的に戦後SFを扱うスペースが小さい。原著は1973年だからこんなものかもしれないが。その点は続編の「一兆年の宴」に期待。

・ラリィ・ニーヴン「インテグラル・ツリー」,ハヤカワ文庫,1986.11
 結構評判の高い作品なのだが、今まで読んだことがなかった。いずれは読もうと思っているうちに過ごしてしまっていたようだ。
 ニーヴン作品は舞台設定が非常に凝っている。「リングワールド」しかり、この「インテグラル・ツリー」しかり。中性子星の軌道上にできた大気の円環「スモークリング」とそこに浮遊する長S字形植物で、そこに村をつくって住めるほど巨大なインテグラル樹。背景、大道具として効果は抜群である。科学的裏付けもしっかりしている…らしい。この辺は文系人間にはつらいところで人が言っているのを鵜呑みにするしかない。「竜の卵」のフォワードが発案したのなら確かじゃないか、とか。
 そういった舞台のハードさとは対照的に登場する生物はかなり奇抜である。昔ながらのベムやモンスターの雰囲気が濃い。そのあたりの落差もニーヴンの売りと言えば言えるかもしれない。
 人物の書き方は残念ながら少々薄っぺらな感がある。楽天的で独立不羈の、いかにもアメリカ人好みの登場人物ばかりである。それが悪いとばかりは言わないが、もうちょっと陰影がほしかった。…贅沢かもしれない。
 続編「スモークリング」は探しているのだが見つからない。どうしても読みたいとまではいかないが、あれば欲しいものである。

・三好徹「興亡三国志」1〜3,集英社,1997
 いまさら三国志などという気もするが、読んでみるとやはり面白い。ほかの著者のと比べてみるという楽しみもある。
 これは特に奇をてらったところのないスタンダードな三国志である。吉川版三国志の古くさいところをちょっと手直しして今風にしたといったところだろうか。最初に読む三国志としても悪くないように思う。曹操中心ということで、彼と彼の周囲の人物がよく書かれている。曹操自身については多少ほめすぎ、呂伯奢のエピソードではちょっとフォローのしすぎの感はあるが。陳宮、賈ク(字がない)、オリジナルキャラで陳宮の義弟、鄭欽などは好感が持てる。劉備関係の書き方は可も不可もなし、という程度。黄巾の乱時代の幽州で劉備と張松の出会いの場をつくって伏線にするあたりは細かい点だが行き届いている。関羽と貂蝉のロマンスを書いているが、これは蛇足。ない方がよかった。
 3冊で荊州戦まで。従来の三国志だとこの先あたりから話の展開が曹操主導から孔明中心へと変わっていくのだが、「曹操主役」を標榜する本書がどういう書き方をしていくのか興味がある。

・ジョン・ヴァーリィ「残像」,ハヤカワ文庫,1980.2
 短編集。どれも基本的にハッピーエンドで、読んでいて気分がいい。前に読んだ短編「ブルーシャンペン」とはだいぶ雰囲気が違う(いや、「ブルーシャンペン」もすきなんだが)。「ブラックホール通過」と「火星の王たちの館にて」がよかった。「火星の王〜」は長編にしても面白いかもしれない。「汝、コンピューターの夢」はSF版「邯鄲一炊の夢」。そういえば題名の訳はそれを意識してつけたのかもしれない。
 表題作「残像」は目と耳の聞こえない人間だけで作り上げたコミュニティの話。美しい話である。ただ、障害を持たないものが障害者の話を書くと、やたら障害者を聖人扱いしてしまうような傾向があるようなで、ちょっと納得いかない。その点では障害者をあつかった話でもこの「残像」より「ブルーシャンペン」の方が好感が持てた。同じ障害を持った人が読んでどう感じるか、ぜひ聞いてみたいものだが。

・オースン・スコット・カード「目には目を」,SFマガジン88年11月号
 あまり知られていないようだが、「エンダーのゲーム」「死者の代弁者」につづく、カード3つ目のヒューゴー賞受賞作品である。確かに、前2者に比べてそれほどインパクトの強い作品ではない。カードらしいいい雰囲気ではあるが。
 主人公は生体電気で人を癌にして殺すことのできる少年。生体電気というより、このごろ騒がれている電磁波を想像するほうがぴったりくる。しかし女性が生体電気で男性を籠絡するというあたり、女性からしたらすごく文句があるように思うのだが。やっぱり電波出してるヤツにはアブないから近寄らない方がいい。…ちょっと意味が違うかもしれない。
 下らない冗談はさておき。カード作品の例にもれず、この少年ミックも非常にいい子である。育った環境から考えると奇跡的と言っていいぐらいだ。夜周りを警戒しながら眠ろうとするシーンがあるのだが、靴を履いたままベッドにはいるのに気がさす、というほど行儀がいい(こういう子にしつけるために、孤児院では何人が非業の死を遂げたのだろう…)。
 そんなほほえましい性格の子供に相手を殺さずにいられない能力を持たせてしまうのだ。カードは登場人物を不幸にするのが好きなのだ、と勘ぐられるのも故なきことではない。もっとも最後では彼らはちゃんと救済されるのだから、この批判は当たっていない。その点は見落として欲しくないものである。
 ラストにちょっとしたタネ明かしあり。ミックはちょっとがっかりしたようである。わたしも同感。

・杉山正明「耶律楚材とその時代」,白帝社,1996.7
 名宰相で知られるモンゴルの耶律楚材が実は「宰相」と呼べるほど高い地位にあった訳ではなく、性格も狷介で権柄づくの自意識過剰、家族に対しては酷薄かつ身勝手、しかも偉大だった父に対するコンプレックスに一生つきまとわれていた…という主張の伝記。この杉山正明という人の本は歴史書にしては表現が華々しいので読んでいて非常に面白い。「まず、科挙の状元であったように(これが、じつは、うさんくさいことは後述する)、大変な教養を持つ才子であったこと。その才をもって、チンギスとオゴデイの二代の異族の帝王に仕え、「頭脳」となったこと(じつは、ブレインなどにはほど遠かった)。さらに、二代目のオゴデイの擁立に動きまわり(後述のように、まったくの虚構)、その「宰相」となって(これも、じつは、大ウソ)、多種族混合のモンゴル帝国を「盤石」にしたこと(もちろん、そんな力はなかった)。」とまあ、こんな調子だ。カッコ書きのところは私が入れたのではなく、本文そのままである。
 耶律楚材の「虚像」を打ち破るのに熱中するあまり全体の紙数配分を誤ったそうで、彼が実際にも(多少は)活躍するオゴデイ治世の記述がついでのようになってしまっている。このあたりはまた書き直すらしい。
 それにしても、多少抜け目がないとか清いばかりの人物ではなかった、という程度のことならむしろ当然だと思うのだが、こうも偉大さからほど遠いとなると別である。鵜呑みにして「そうか楚材ってそんな小人物だったのか」と納得してしまうのは業腹だし、それでは楚材を無批判に礼賛する姿勢とベクトルが違うだけの同類になってしまう。「やはり楚材は傑物だった」という反論があれば読みたいものだ。井上靖「蒼き狼」や陳舜臣「耶律楚材」からこの時代の話に親しんだ私としては、少しショックが大きいのである。。
 その陳舜臣「耶律楚材」だが、あとがきで触れられていた。あれは「歴史ファンタジー」なのだそうだ。他の日本語の関連著作とにているところが「ほほえましい」と書かれているが、この人の「ほほえましい」は「苦笑」プラス「憫笑」「嘲笑」だからなあ……。

・オースン・スコット・カード「辺境の人々」,ハヤカワ文庫,1993.7
 舞台が細菌戦争後のアメリカである、ということ以外にSF的なところはなし。細菌戦争にしてもその様子とかその後の影響についての描写はほとんどなく、単にアメリカに「辺境」を再出現させるための理由付けにとどまる。SFだと思って読まない方がいいだろう。ギミックがないだけにカードの「読ませる」テクニックが引き立つ。
 第1話「西部」がもっとも印象に残る話である。ジェイミー・ティーグの語る児童虐待のエピソードは読んでいて息苦しくなったほどだ。こんな経験が信仰によって癒やされるのだとしたら、それは非常にすばらしいことであると同時に、非常に恐ろしいことであると思う。洗礼を受ける前のことだったんだからという理由で許されるのだとしたら。
 第3話「辺境」。主人公カーペンターの動機は公憤だったのか私怨だったのか。彼は死に直面しながら考えるが、しかしそのどちらか一方でなくてはならない、ということもないだろう。善人がいついかなる時も正しい意図のみで正しい行いだけをし、悪人が常にその逆をするということなら、世の中簡単でいいのだが。しかしだからと言って、人の行動すべてをそういうふうに容認してしまっては、社会とか共同体とかいうものは成り立たない。この場合、カーペンターの行動は善で、横領者やその息子の不良少年たちは悪でなくてはならないのである。それとは別に、人は自分のとった行動を重荷として背負っていかなくてはならない。カーペンターが少年たちの父親を奪ったこと、少年たちが身動きできない障害者を置き去りにしたこと、これは彼ら各々に一生ついて回る。たとえそれが社会的善であっても、たとえ当事者以外に漏らされることがないとしても。ところで、作品ラストの一節はとってつけたようで何となく浮いている。うまい終わり方が思いつけなかったので適当に誤魔化した、という感じもする。
 4話目「巡回劇団」は「西部」のラストで拾われた孤児ディーバー・ティーグと、彼が出会った旅芸人一家の物語。町々を渡り歩く旅芸人一座、座長の頑固な父親、世話焼きの母親、何となく影の薄い長男、放蕩者の次男、美人の長女。娘、息子や娘たちは一座を離れて自由に生きたいと思う反面、その一座、すなわち家族の中での自分の役割を失うことを恐れている。…あれ、何だかちょっと古くさいホームドラマそのままの設定じゃないか。そんな類の話を好きだったことは一度もないのだが。それでも引き込まれてしまうのがカードの巧みさなのだろうか。(それともカードの作品だというだけで、いいと思いこんでしまっているのだろうか。そこまで自分の目が節穴だとは思いたくないが)
 最終話「アメリカ」はカードにしては珍しく、少年の性をテーマにとりいれた作品。むろんそれだけ扱ってるわけでもないのだが、他ではあまり見られないので目に付く。もっとも倫理的な…言ってしまえばおカタい…スタンスに変わりはない。潔癖でいられるのは少年の特権。しかし私が彼の年代だった頃(げ、もうひと昔近く前なのか)はあんなに潔癖だったろうか。…だった、とは思えない。この作品の語り手は「辺境」で登場した車椅子の教師カーペンターである。この話を知ったカーペンターが、ケツァルコアトルが白人の血を引いていることをネタに彼を脅迫し、デザレット州の利権を増やす…という展開は、カードだからないだろうな。「ケツァルコアトル」はアステカの「白き神」だから、彼が白人であることはほのめかされているのだが。
 「O・S・カード駄弁」の3文章をつなぎ合わせただけので長々とした変な文章になってしまった。ご容赦。

・三好徹「興亡三国志」4巻,集英社,1997.9
 赤壁戦から周瑜の死あたりまで。曹操主体の三国志が、曹操がやられ役の赤壁戦をどう描くのか興味があったのだが、残念ながらたいして新味はなかった。だいたい赤壁戦は、物語としてはいままで大活躍の曹操が一転して諸葛亮や周瑜の策にはめられ、踊らされることで新登場の彼らを引き立たせる役割があるので、曹操も立派、諸葛亮も偉い、では話がいまひとつ盛り上がらない。
 その他、徐庶の母を拉致したり、馬超戦あたりで馬騰を謀殺するくだりなど「演義」で曹操の悪役ぶりをアピールするエピソードは話を変えてある。確かに両方とも正史の記述ではないのだが、かといって正史準拠にしてあるわけでもない。ちょっとひいきのひき倒しになっているような感がある。この先、伏皇后の廃立や荀イク(また字がない)の自殺など曹操にマイナスイメージの多い話が増えるが、このあたりをどうするのだろうか。
 何かかなり点が辛くなっているようだ。畏友「踊るらいぶらりあん」の書評が辛かったので、それに影響されているせいもある。しかし「三国志」としての基本線は押さえてあることだし、吉川三国志の引き写しがあるとしても、最初に読む三国志として悪くないとは思うのだが。それに細かい点での伏線には面白いものがある。たとえばこの4巻では出仕したばかりの馬謖がしゃしゃりでるエピソードがあり、後の街亭戦の伏線になっている。

・マリオン・ジマー・ブラッドリー「ダーコーヴァ年代記・はるかなる地球帝国」,創元SF文庫,1986.10
 前に読んだ「惑星救出作戦」同様、肩の凝らないファンタジーである。今度はジュヴナイルの冒険もの。主人公とその相方の性格設定がわかりやすく、気分よく読める。意外な展開、などは期待できないが。
 ちょっとネタバレの話になる(読みたくない人、目を閉じて「戻る」をクリックしてください)。ラストで主人公が実はダーコーヴァ生まれで母がダーコーヴァ人の貴族だったということになるのだが、これはいただけない。全くダーコーヴァに関わりのない地球人で、それでもダーコーヴァ人と心を許しあい、ダーコーヴァ人の友と危機を乗り越えた、という方がよほど好感が持てる。主人公にダーコーヴァ人に対抗できるようなESP能力を持たせるために必要だったのかも知れないが、ダーコーヴァ人と地球人が遠祖を同じくするという設定でそこはフォローできると思う。人の成し遂げたことがその人の血統だの血縁だのに帰せられるのは、私は嫌なのである。

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