読後駄弁
1997読後駄弁11月〜12月


・眉村卓「長い暁」,ハヤカワ文庫,1982.11
 「司政官」シリーズ、読破。最後になってしまったがこの「長い暁」は作中の年代では初期の部類にはいるようだ。SQ1は動いているし、連邦軍はハバきかしているし。(意味の分からない方、リンクしてある「眉村卓ワンダーティールーム」へ行くといいです)
 1話目「照り返しの丘」。原住民(じゃない、原住ロボット)が自分たちを受け入れるまで12年かかるときいて、ソウマ司政官は落胆するのだが、しかし彼よりも彼の次に来る司政官があわれじゃないか。司政官の任期が5年なのだから、次の司政官は仕事途中で来て結果を見ずに任期が終わってしまうことになる。三世代ローンの二代目みたいなものだ。
 2話目「扉のひらくとき」が今回一番気に入った。珍しく前途が明るい終わり方だった。主人公のシゲイ司政官、どんなことでも(たとえ恋愛関係の忠告でも)仕事に関係させて考えてしまうようだ。損な性分である、私は好きだが。ところで「ワンダーティールーム」にでているこの作品のキャッチ「恋は遠い日の花火ではない」、うますぎる。司政官の紹介も含めて大笑いした。
 「長い暁」は展開が予想通り。原住民が「退去するときは書類にサインしていけ」というあたりは笑った。お役所のパロディだな、これは。

・桜井万里子・本村凌二「世界の歴史5・ギリシアとローマ」,中央公論社,1997.10
 ヨーロッパ文明の原点の一つ、古代ギリシア、ローマの概説。ヨーロッパの人々は、私たちが三国志や史記を読むような感覚でこの時代の歴史を読むのだろうか。
 第1部のギリシアより第2部のローマの方が興味深く読めたのは、きっと塩野七生「ローマ人の物語」を読んでいるせいだろう。それがなくとも、ローマの共和国、ローマ帝国は印象深い個性がたて続けに登場するので飽きない。スキピオ、ハンニバルから始まって、グラックス兄弟、マリウスとスッラ、ポンペイウス、そしてカエサルやアウグストゥスなど…。これだけスターがそろうと歴史書でもいきおい物語風になってしまうものらしい。
 しかし、英雄、賢人たちの列伝と同様、いやそれ以上に重要なのは大多数の民衆の姿を知ること。この本で紹介されているのは、あの火山灰に埋もれた町ポンペイの、壁に残された落書きの数々である。選挙ポスターから剣闘士興業の宣伝、女性をめぐる男どもの言い争いまであるらしい。ラテン語が読めるものならぜひ行って見てみたいものだ。

・ラリー・ニーヴン&ジェリー・パーネル&マイクル・フリン「天使墜落」(上下),創元SF文庫,1997.6
 狂信的、全体主義的な環境保護団体が牛耳る未来のアメリカが舞台。科学は「環境破壊の元凶」と忌み嫌われている。そこへ軌道ステーションの宇宙船が墜落する。もし環境団体に捕まれば乗員の宇宙飛行士は無事ではすまない。迫害を受けつつも地下でファン活動を続けるSFファンたちは宇宙飛行士を救うため敢然と(半ばゲーム感覚で)行動に出るのだった。……という話。
 主役級は別として、脇役で登場するSFファンたちはほとんどが実在のSFファンをモデルにしているらしい。彼らの間で交わされる会話はファンダム内の隠語だったり、有名なSFを下敷きにしていたりと、なじみの薄い人間にはちょっと分かりづらい。話の筋に影響はないので適当に読み流してもかまわないのだが、意味が分かった方が当然楽しいし、どれだけ分かるかで自分のSF度を測れるかも知れない。
 それにしても、ファンとそれ以外の人間との違いを意識したがるのは、SFファンに特有の性癖なのだろうか。この「天使墜落」でも「一般人」と「ファン」とは相容れない…つまり「一般人」であれば「ファン」ではない …ものとして扱われている。これは作品でSFが迫害されている設定からそうなったというものではなく、現実のファンに自分たちが一般人とは異なる、という意識があるからだろう。そんな閉鎖的な、ちょっとひねくれたプライドが「SF」というジャンルを取っつきにくいものにしている原因の一つだと思うのだが。

・ロイス・マクマスター・ビジョルド「名誉のかけら」,創元SF文庫,1997.10
 「ヴォルコシガン・サーガ」主人公マイルズの父アラールと母コーデリアの出会いを描くエピソード。外伝的な位置づけになるのだが、作品が書かれたのは第1作「戦士志願」より前。だからこの作品だけ読んでも戸惑うことはないだろう。しかし最初からシリーズ全部を読むつもりならやはり「戦士志願」を読んでからの方が面白い。
 敵味方に別れた男女が愛し合うという黄金パターンなのだが、登場人物の性格描写が巧い(キャラがたってる、というのか)ので、陳腐な感じはしない。敵を愛してしまったコーデリアが洗脳されたと誤解され、精神科医の尋問を受けるあたりはなかなか緊迫感があっていい。
 アラールの属するバラヤー人は日本の武士階級を彷彿とさせるところが多いが、古代ローマの貴族階級のイメージも入っているのではないかと思う。著者ビジョルドの中では両者のイメージが似通っているのだろうか。

・アン・マキャフリー「竜の夜明け」(上下),ハヤカワ文庫,1990.3
 マキャフリーの人気ファンタジー「パーンの竜騎士」の外伝。そういえば2つ続けて外伝だな。本編を読んだのは高校の時だから、もう、…ええと…だいぶ前になる。本編の内容を詳しくは覚えていなかったので外伝を読んで面白いかどうかが問題だったが、その点は大丈夫だった。惑星パーンに人類が入植した直後のエピソードが描かれており、シリーズの中ではSFのS色が濃い内容になっている。
 最初、登場人物が次々と出てくるので「主な登場人物」表の助けを借りて頭を整理しなければならなかったが、読みすすめていくとキャラクターの書き分けがうまいせいで、表は必要なくなった。…褒め言葉が上の「名誉のかけら」と同じようなものだが、どちらもキャラクターで読ませる小説である。評価も似た視点になってくる。
 最後に「竜」について。人間とテレパシー・リンクできる彼らは動物のパートナー(「ペット」という言葉は当てはまらない)としては究極の存在である。アニマルセラピーに使ったら効果は犬やイルカの比ではないだろう。話の中でパーンの宝石を盗んで惑星を脱出しようとする人物が出てきたが、それよりこの竜をひとつがい盗んだ方がずっと儲かりそうだ。売ってたら宝石なみの値段でも買うぞ、私なら。

・栗本薫「グイン・サーガ58・運命のマルガ」,ハヤカワ文庫,1997.11
 先に買った本から読もうと思っていたのだが、まあいいだろう。これなら2、3時間で読めることだし。
 このところ、怒濤の刊行ペース。しかも来月は外伝の続きが出るらしい。からだ大丈夫だろうな、作者。内容の方は前巻のような観光ガイドでなく、きっちり話が進んでいる。それどころか非常に重要な展開点である。もっともそこにいたる登場人物(ナリスとかヴァレリウスとか)の動機というのがちょっと理解しがたいのだが。

・ダニエル・デネット「心はどこにあるのか」,草思社,1997.11
 人間の心と動物の心はどう違うのか、動物には自意識があるのか、意識は科学的にどう説明できるのか、というテーマ。もちろん、このような大きい問いに本1冊で答えきれるはずもなく、問題点の整理、といったところでまとめられている。
 科学書と言うより哲学書の趣が強い。この類の本は読み流すと言うことができないので苦労する。1章と2章、とくに2章がかなり難解。この本で取る叙述の方法、つまり機械や動物が意識を持っているかのように(=志向性を持っているかのように)書くという手法について、哲学的な意義付けすることと反論に対する予防線を張ることの2つをやっているのだが、少し油断すると話の脈絡を見失ってしまう。あとがきを見ると「3章から6章までを読んだ後、1、2章を読むことをお奨めする」とあった。そんなことは先に言ってくれ。
 では3章からが読みやすいかというと、残念ながらそうでもない。断片断片は何とかなるのだが、が、やはり全体的な脈絡を見失いがちだ。…仕事帰りに読むにはつらい。動物をその学習のレベルで「ダーウィン型」から「グレゴリー型」まで分けたりするあたりは面白かった。
 この本のように動物の意識について考えていくと、どうしても自分の飼っているペットに至らざるを得ない。動物は飼い主に愛情を感じているのか、それとも刺激に対して反応しているだけで、飼い主が幻想を抱いているにすぎないのか。本でも最終的な判断は保留している。

・宮城谷昌光「青雲はるかに」(上下),集英社,1997.11
 読む前に「史記」の范雎列伝に目を通した。彼は魏の宰相に辱めをうけた後、秦に亡命してその宰相となり仇を死に追いやる。宰相になってから「一飯を恵まれた恩も必ずつぐない、にらまれた恨みにも必ず報いた」というからかなりアクの強い人物である。「三国志」でいえば法正あたりが思い浮かぶ。
 この「青雲はるかに」の范雎も、他の宮城谷作品の主人公たちより圭角の多い人格である。もちろんそれも程度問題であって、范雎も「運命の女性」原声と出会ってからは哲人的な風貌を帯びてくるのだが、それでも悟りきったような楽毅や、立派すぎるほどの孟嘗君に比べればよほど生身の人間らしい。宮城谷の長編はやや教訓的にすぎると感じる人が多いようだが、この作品ぐらいならちょうどいいのではないだろうか。
 美女ばかり出てくるのも宮城谷作品の常だが、この作品もその例に漏れない。むしろ他より顕著だと言える。その美女たちがそろいもそろって范雎に傾倒してしまうあたりは不自然なほどだ(やっかんでるんじゃないぞ、念のため)。そのなりゆきとして艶っぽいシーンが多くなってしまうのだが、宮城谷の書くそのシーンは生々しさがほとんど感じられない。形而上的ですらある。幻想がすぎると見る向きもあるかも知れないが、私はいいんじゃないかと思っている。

・本村凌二「ポンペイ・グラフィティ」,中公新書,1996.9
 先に読んだ「世界の歴史5・ギリシアとローマ」に触発されて。ローマの部で紹介されていたポンペイに残る壁の落書きについての本である。
 落書きの種類は様々で選挙ポスターや剣闘士興業の宣伝、ケンカやのろけ、字の練習など。回文なんかもある。当然、意味の分からないものや当時の状況を知っていないと理解できない類のものもあるが、一方では住む場所も時代も異なる私でも予備知識なしに読みとり、笑えるものもある。悪口や恋愛関係などは特にそういうものが多い。ストレートな表現もあるが、次のような「ざぶとん一枚」ものもある。
「リウィアからアレクサンデルに、ご機嫌よろしく。もしお元気なら、あまり心配しません。死んでいるなら、嬉しいことです」
…かわいそうなアレクサンデル。
 もちろん面白い落書きを紹介するだけではなく、落書きから分かる当時の都市民の読み書き能力などについて考察されていて、こちらも一読の価値あり。

・オースン・スコット・カード「消えた少年たち」,早川書房,1997.11
 帯にでっかく「ダニエル・キイス氏推薦!」。解説はモルモン教徒のよしみで斉藤由貴。うーん、「売り」にいっているなあ。しかし、最初に読むカードとしてはちょっと歯ごたえがありすぎる感も。主人公一家の生活についての描写が内容の多くを占めているので、サスペンスやホラーを期待するとちょっとじれったいかも知れない。また、描かれる親子関係や夫婦関係が、日本のそれとはかなりスタンスが異なるので、戸惑う部分もある。カード作品の主要テーマが「家族」であることを念頭に置いて、ページを繰るのをいそがずに感情移入していくといい。その点では退屈になりがちなテーマでここまで「読ませる」作品を書けるカードの筆力に、毎度のことながら感心する。とくに登場人物の造形や人間関係の描写の巧みさが目を引く。舞台にSF・ファンタジーのきらびやかさがないぶん余計に引き立っている。いい人はいい人として、イヤなヤツはイヤなヤツとして、(異常者は異常者として)、とにかくリアルなのである。いい加減に書かれた人物が見あたらない。
 ホラー的なシーンとしては主人公の家がコオロギやコガネムシの大群であふれかえる、というのがある。しかし他のシーンでの登場人物のやりとりがそれ以上にスリリングだった。もっとも結果として昆虫のシーンが今一つ印象に残りにくいという難もある。
 先に短編を読んで結末を知っていたせいかも知れないが、全体の長さに比べてクライマックスへの入り方がやや唐突な気がする。ちょっと話が長すぎたんじゃないだろうか。

・杉山正明「遊牧民から見た世界史」,日本経済新聞社,1997.10
 遊牧国家の草分けスキタイから匈奴とその末裔である北漢の劉淵、柔然、突厥、そしてそれらの集大成たるイェケ・モンゴル・ウルス=大モンゴル帝国までを概説している。とっつきにくく感じられるかも知れないが、それほど予備知識もいらないし、叙述が明確でとても読みやすい。
 「民族主義」「国民国家」という概念は、あくまで近代ヨーロッパからの見方、考え方であって、それ以外の地域、時代に当てはめようとするとどうしても無理が生じる。現在は歴史像の転換、再評価が必要なのではないか、という主張。多分異論のないところではないかと思う。
 紹介されているのが漢文資料に登場する遊牧民中心なのはちょっと残念。イスラム圏のマムルークや、「謎の遊牧帝国」ハザールなどについても解説して欲しかったと思う。しかし、遊牧国家のどれか一つを研究するだけでも漢文、ペルシア語、諸々のトルコ系言語の史料を読みこなさなければならないのである。ユーラシア全体をまんべんなく概説するなど無理な話だろう。

・本の雑誌編集部「特集・本の雑誌1」,角川文庫,1995.11
 「なんぼんのもんやねん!文学賞」や「活字界の不要なものベスト1」など「本の雑誌」特集記事の総集編。マジに話しているようでいつの間にか冗談、冗談のようで結構本気という独特のノリがいい。
 商売柄、「理想の図書館」の章は注意して読んだ。しかし「何か勝手なこと言っているなあ」という感想がまず最初に出てしまう。もはや「内部の人間」として批判を虚心に聞けなくなってしまったのだろうか。
 「出版界改造計画」の章で「書店員の日」を作ってほしい、という意見が出ていた。その日は書店員は客に本音を言ってよく、客はそれに何も言ってはいけないのである。……「図書館員の日」も作ってほしい。本音から出てってほしい利用者なんかは全体のごく一部なのだが(ちょっと苦しいフォロー)。

・「SFマガジン」98年1月号,早川書房
 実は、SFマガジンを買うのはこれが初めてなのである。今までは新刊紹介や書評、コラムを立ち読みしてすましていた。長編のSFが好みなので短編を読むためにわざわざ買おうとは思わなかったし、連載は最初から読まないと意味がない、というのが理由である。しかし、今回は500号記念ということで、オールタイム・ベストの発表もあるし面白そうな短編も多いので、ついに手を出した。値段が高いのが痛かったが、それは我慢する。買うのを我慢するよりはよほど楽だ。
 まずオールタイム・ベストについて。まあ、順当な結果だろう。順当すぎる結果で、ちょっと興を殺がれたぐらいである。オールタイム・ベストを選ぶ場合、古くから読み継がれてすでにオールタイム・ベストである作品に投票するか、これからオールタイム・ベストになるだろう作品に投票するか、2つの傾向がある。今回は「である」作品に投票が集中したのだろう。長編1位が「夏への扉」、2位が「火星年代記」。短編1位が「たったひとつの冴えたやり方」、2位が「冷たい方程式」。私も好きな作品ではあるが、ちょっとセンチメンタルに偏りすぎ。「だろう」側の作品には「ハイペリオン」や「さよならダイノサウルス」が入っている。この2作品はまず文句のないところだろうが、他にもいいものはありそうな気がする。カード「エンダーのゲーム」は20位。わたしの独断と偏見ではもっと上位であるべきなのだが……。
 収録されている短編は記念号だけあって面白いものが多かった。「オールスター作家競作」ではマーティン「モーゼ合戦」が一番気に入った。宇宙一アコギな商人、ハヴィランド・タフが主人公のスペースオペラである。このシリーズの邦訳は出ないのだろうか。
 「名作SF再録」ではライバー「バケツ一杯の空気」ディレイニー「ドリフトグラス」が良かった。「バケツ〜」は内容よりももタイトルのイメージが好き。ディレイニーは「アインシュタイン交点」以来苦手意識があるのだが、この「ドリフトグラス」はさして難解でもなく(読み方が浅いだけかも知れないが)、いい雰囲気だった。オールタイム・ベストにも入っている「フェッセンデンの宇宙」はSFを読み始めた頃だったら熱中したかもしれない。しかし数をこなしてスレてしまうとちょっと古くささが目に付いてしまう。この号の最初で同じネタのディック「世界をわが手に」を読んでしまっているので余計にそう感じる。
 「90年代SF傑作選」ではバクスター&ブラウン「時空の穴の奥底へ」がイチ押し。スケールが壮大、というよりはムチャクチャな展開という方が当たっていると思うが。

・トム・クランシー「合衆国崩壊」(1・2),新潮文庫,1997.12
 日本人パイロットの操縦するジャンボジェットのカミカゼアタック(爆笑)で大統領を初めとする合衆国首脳部は壊滅。副大統領に就任したばかりのジャック・ライアンは否応なく大統領に就かざるを得なくなった。
 一時大統領専用機「エアフォース・ワン」に避難したライアンたちだったが「エアフォース・ワン」はテロリストグループに占拠され、ライアンの妻子は人質となってしまう。ライアン新大統領はひとりテロリストに立ち向かうのだった。正月映画の原作。
 などと書いたら信じてしまう人がいるんじゃないだろうか。どっちもハリソン・フォードなんで、ついこういうふざけ方をしたくなる。新潮さん、絶対ねらってるな…。
 「レッド・オクトーバーを追え!」にはじまる人気シリーズ、ジャック・ライアンものの最新作である。ライアンが大統領になるまでは本当。合衆国の混乱をあてこんでイランが、インドが、中国が不穏な動きを始める。内外の危機にライアン大統領はどう立ち向かうのか、という話。いまはやりの「戦う大統領」リアルバージョンといったところだ。
 内容については来月予定の3、4巻を読んでから。しかし、この人の作品はシリーズが進むにつれて長くなるなあ…。

・高橋均・網野徹哉「世界の歴史18・ラテンアメリカ文明の興亡」,中央公論社,1997.11
 ヨーロッパ人進出前後から現代までのラテンアメリカ史を概説。この方面の歴史を読むのは初めてなので、こういう予備知識なしで読める通史はちょうど良かった。
 政治・経済の変遷史が中心で、文化、社会の分野がちょっと手薄に感じた。2章、4章で主題となるペルーについてはインカ王国時代や植民地時代初期の社会についても触れられているのだが、その他の地域についてはあまり記述がない。私自身は制度史とか政体史とかが好きなので別にいいと言えばいいのだが、インディオとラテン、それに奴隷として連れてこられたアフリカ人の文化が混ざったラテンアメリカの文化も結構興味深いものがある。
 登場する人物で一番興味を持ったのは南米独立の立役者、シモン・ボリーバルやホセ・サンマルティンたち。…やはり派手な時代に目がいってしまうなあ。ミーハーなのかも知れない。ボリーバルあたりは邦文でも伝記がある。

・ウィリアム・カルヴィン「知性はいつ生まれたか」,草思社,1997.11
 人間の知性は進化の途上、どのような過程で現れたのか、またその知性はどのようにして働くのかを考察している。知性がひとつの判断を下すまでの手順を説明するのに、自然選択を元にしたダーウィン進化論を用いているのが面白い。この場合、互換から与えられた情報と、今までの記憶や経験が進化における「自然環境」と同じような役割を果たし、候補となる複数の選択肢のうち適合するものだけが行動に表れる、というわけである。
 またそのような働きをする知性が発達した原因として、複雑な構造(=シンタックス)をもつ言語が挙げられている。正直、述べられていることをちゃんと把握したとは自信を持てないが、面白いとは思った。
 …やはりこのテの本を通勤電車で読むのには少し無理があるかもしれない。帰りの電車で読んだ分については特に頭に入っていない。

・ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア「故郷から10000光年」,ハヤカワ文庫,1991.4
 「たったひとつの冴えたやり方」で有名なティプトリーの第1短編集。しかし「たった〜」とは雰囲気の違う作品が多い。先輩によると「たった〜」はティプトリーの作品でも異色な方だとのこと。
 ティプトリーというと暗めの作品が目立つが、この短編集には結構ドタバタも収録されている。ユーモアはちょっとブラック。シニカルな笑いが似合う。ただ、どこが面白いのかちょっと考えてしまうような部分も少々あった。外国人の書いた喜劇というのは悲劇よりもわかりにくい場合が多い。悲しみより笑いの方が、それぞれの文化に左右される度合いが大きいのかも知れない。
 この短編集でのおススメはドタバタながら哀愁の漂う「われらなりに、テラよ、奉じるは君だけ」と、5万年をかけて時間を逆にさかのぼる男の話「故郷へ歩いた男」の二つ。かなり感じの違う作品である。

・宮城谷昌光「春の潮」,講談社文庫,1995.1
 宮城谷昌光の最初期の作品を収めた短編集。ただし、中国ものにあらず。舞台は現代だがやはり宮城谷作品らしく、ちょっと幻影的な美しさに変わりはない。耽美的、というのだろうか。…このごろ「耽美」というのはアヤしい方面の作品群を指すことが多いが、こちらは言葉本来の意味での「耽美的」である。
 最初の2篇「春の潮」「天の華園」はところどころで一文がやけに長く読みづらさを感じたが、3篇目「黄金の小箱」ではそれが感じられなかった。解説によると最初の2編は著者が20代前半に書いたもので3編目はそれから20年ぐらいあとになって書いたものらしい。それだけ小説の技術が向上したと言うことなのだろうか。…私が言うのはおこがましいが。

・谷甲州「星は、昴」,ハヤカワ文庫,1997.9
 谷甲州というと「航空宇宙軍史」シリーズ。読んだことはないのだがメカ中心のハードSFかミリタリーSF、という先入観を持っている。この「星は、昴」もそような作品集だろうと思って読み始めた。違った。ハードSFには違いないが、メカものでは全くない。それにやたらスケールのでかい話ばかりである。話題が世紀単位、光年単位である。収録作中もっとも軽く読める「敗軍の将、宇宙を語らず」中の登場人物の言葉を使えば、「小脇にかかえたブラックホールをちぎっては投げちぎっては投げ――」というレベルなのである。
 おススメは上に挙げた全宇宙スケールのホラ男爵話の「敗軍の将、宇宙を語らず」と表題作「星は、昴」。「星は、昴」は作品の雰囲気は楽しめたが、ベースになっている科学理論の部分が今一つよくのみこめないのが残念だ。

・オースン・スコット・カード「運命の物語」,SFマガジン89年5月号
 「エンダー」(長編版)以前の作品の中では後期に位置する短編。天才少年と家族、特に父親との関係がメインテーマになるなど、カード作品としては典型的。しかしラストに「感動の奇跡」はない。ちょっとやりきれなさが残る作品である。
 モチーフは知らぬ人とてない(ですよね?)ギリシア悲劇「オイディプス王」。これで父子関係テーマならエディプス・コンプレックスがらみを予想してしまうが、さにあらず。私はアダルト・チルドレンとその父親の物語として読んだ。
 少年ジョーは父アルヴィンが言葉で自分を思い通りに支配しようとすることに反発し、ついに最悪の事態を招いてしまう。しかしアルヴィンの行動はそれほど非道なものだったのか?人は誰しも自分が主人公の物語を創作しながら人生をたどり、他人が自分の物語にそった行動をすることを期待してしまう。それを支配と言えば言えるかもしれない。だがたいていはその他人も自分の物語を生き、支配しかえす、あるいは支配を無視する。ジョーが父親の「剣」=言葉=物語に対し、同じく物語で対抗できなかったのは、他人の物語に同化してしまうほど感受性が鋭すぎたせいだろうか。かれが自分を擬した「オイディプス」も他人の作った物語なのである。その「運命」=物語を変えるべく、自分の物語を作ることもできたはずなのだ。
 …いや、違うか。ジョーの父アルヴィンはラストで「運命」を変えて見せようとしたが、その行動そのものもまた彼の物語の一部だった。自分の物語は自分で創ることができるが、その創る行為もまた物語の一部…これではパラドックスである。どうしても悲劇は避けられない物語だったのか。思いは堂々巡りを繰り返し、やりきれなさがつもるのみである。
 (…なにスカしたこと言ってんだか。) 

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