読後駄弁
1998読後駄弁9月〜10月


・キム・スタンリー・ロビンスン「レッド・マーズ」(上下),ハヤカワ文庫,1998.8
 SFに出てくる火星は探検の対象か、さもなければ開発されきった第二の故郷になっていることが多い。その開発の道程、テラフォーミングの話がメインになっているものは少なかったんじゃないかと思う。この「レッド・マーズ」はそれを描いている。アメリカSFで辺境開拓ネタとなると西部開拓のアナロジーになってしまうことも多いがここではその弊はなく、あくまで火星ならではの展開になっているのが嬉しい。
 前半は美しい火星の景観と美しからぬ人間関係の物語。登場人物のゴタゴタにかなり紙数を割いているうえ、彼らが始終いがみ合っているので、読みすすめるのはちょっと辛い。しかしここを耐え抜くと後半以降、景観も人間関係も文字通り「怒濤」の展開を楽しめる。
 登場人物の性格設定はちょっと一面的な印象があるにしろ巧くできていると思う。特に女性技術者ナディア、「怒れるマキャベリスト」フランク・チャーマーズらがおもしろい。しかしその一方、日本人キャラクターはいただけない。どうも「不可解な東洋人」像から抜け出ていないようだ(ヒロコ・アイなんか無茶苦茶だ)。地球人が火星をリアルに描くことより、西洋人が東洋をリアルに描くことの方が難しいものらしい。
 科学的にも物語的にも全般にハードだが随所にファン向けのお遊びもちりばめてある。火星の地名に「バロゥズ」「ブラッドベリ・ポイント」があるのはまず基本。面白かったのが「火星のタイムスリップ」。火星の1日を地球の1日=24時間に合わせるために生じる37分間の空白時間をこう呼んでいるのである。あと、火星に建設される軌道エレベーターの基地となる小惑星は「クラーク」と名付けられるが、これは軌道エレベーターを題材にしたA・C・クラークの名作「楽園の泉」に敬意を表してのものだろう。もっともこの小惑星クラークはテロで吹っ飛ばされてしまうことになるのだが。

・デイヴ・バリー「デイヴ・バリーのアメリカを笑う」,集英社,1995.3
 おふざけアメリカ史。すでに読んだ2冊「デイヴ・バリーの40代になったら」「笑うコンピュータ」で大いに笑わせてもらったので期待したのだが、残念ながらはずれ。調子は変わらないのだが、アメリカ人でないと分かりにくいジョークや語呂合わせが多すぎる。ちゃんと理解できたら面白いだろうと思えるだけにもどかしい。だからと言って、訳者註でそれを解説してくれてもただ興ざめなだけである。

・油井大三郎・古田元夫「世界の歴史28・第二次世界大戦から米ソ対立へ」,中央公論社,1998.8
 第二次世界大戦の勃発からベトナム戦争の終結までを概説。こういう切り分け方は面白い。普通、昭和初期から始めて太平洋戦争の終結までを一冊とするのが、感覚的に一番なじみのある分け方だろう。しかしそれは日本から見た場合である。欧米からすれば第二次世界大戦から米ソ冷戦、国際連合の発足などは一連の流れの中にあることだろう。東南アジアなどにとっては1941年から45年までの対日戦は、それ以後も続いた独立運動の一局面にすぎない。それに日本にしろ、現在の官僚主導の体制が戦時中に端を発するという「1940年体制論」もあって「戦前」「戦中」「戦後」は完全に断絶しているわけではない。
 この時代の見方についてはまだ「過去」になりきってない分、論争が盛んである。とくに「教科書にのっていない日本史」以来にぎやかな「自由主義史観」は相変わらず目立つ。日本の近現代史について、もっとプラス面を強調するべきではないか、という主張には私も気分的に賛成したくなる点もある。しかしあの扇動的な極論や、恣意的な事例の取り上げ方にはついていけない。例えばこの「世界の歴史」でも紹介されている、インドネシア独立戦争に参加した日本人の話。「教科書に〜」でも当然彼らのことは誇らかに取り上げられている。しかしこの日本人は別に日本を代表していたわけでもその指示を受けていたわけでもない。むしろ、独立戦争に参加するために日本を捨てなければならなかったのである。名誉を受けるのは彼ら自身であって、「日本国」がしゃしゃり出る立場ではない。
 上の挿話のようにこの本では「自由主義史観」的な見方やエピソードを無視はしないが、その論調にクギをさしている部分が各所にある。その向きの本を読んで熱くなっている人は、こちらにも目を通してクールダウンするといい。

・栗本薫「グイン・サーガ外伝15・ホータン最後の戦い」,ハヤカワ文庫,1998.9
 6冊目にしてやっと終わった外伝シリーズ。最後を飾るこの巻は、ちょっと後始末めいた印象があっていまひとつ盛り上がりには欠ける。しかし、無事ひとくぎりついた、ということで良しとしよう。
 シリーズ後半に登場したホータンの少年たち。リー・レン・レンやシャオロンは結構いいキャラだった。本編の再登場が期待される。まあそれより先に本編に再登場して欲しいのは主人公だ。用事は済んだんだから、とっとと帰ってきなさい。

・浅田次郎「蒼穹の昴」(上下),講談社,1996.4
 老占星術師から、西太后の遺産ことごとくを手にすると予言された貧民の少年・春児(チュンル)と皇帝を扶翼する宰相となることを予言された放蕩児・梁文秀、二人の変転する運命を軸に清朝末期の動乱を描く。
 感動シーンの連続。さすが、人を泣かせるツボをよく心得ている。ただ下巻以降、ちょっと話がもたついているような感想も持ったが、これは上巻を読んだ後、下巻に手をつけるまでに間があいてしまったせいかも知れない。
 主人公の春児や文秀らオリジナルの登場人物もいいが、実在の人物も非常に魅力的に描いている。とくにほとんど準主役の西太后と、シブい役どころの李鴻章。二人とも、ちょっといい人に作りすぎのような気もするが、これは小説、問題なし。李鴻章が香港租借条約に全権として臨む場面など、思わず拍手したくなった。  時代考証の材料としては宮崎市定「科挙史」や三田村泰助「宦官」をうまく用いている。とくに梁文秀が科挙を受験するくだりは「科挙史」をかなり丁寧になぞっている。この点に興味のない人にとっては少々説明がうざったく感じられるかも知れないが、読み飛ばすにはもったいない出来である。とくにタネ本「科挙史」を読んだ後だと面白みが増す。 

・ラリィ・ニーヴン&ジェリー・パーネル「神の目の小さな塵」(上下),創元SF文庫,1978.3,4
 西暦3017年。人類帝国は銀河全域に手を拡げ、統一と戦争を繰り返していた。反乱鎮圧の帰途にあったロッド・ブレイン艦長の巡洋艦<マッカーサー>は正体不明の光帆船と遭遇する。その出発点は赤色巨星、通称<神の目>だった。
 というわけでテーマはSFの王道その一、ファースト・コンタクトである。J・P・ホーガンの「ガニメアン3部作」を科学者主導ファースト・コンタクトの理想像とするならば、この「神の目の小さな塵」は軍人主導の典型である。ハインラインが宣伝文で「これまで読んだ最高のサイエンス・フィクション」と持ち上げたそうだが、その理由の一端(あるいは大半?)は軍人の登場人物がみなカッコいいからじゃないかと思う。主人公のロッド・ブレインや切れ者の航海士レナー、冷徹にして沈毅なクトゥーゾフ提督など、軍人サイドに役者がそろっている。一方、科学者代表のホーヴァート博士は、異星人との接触に慎重な軍人たちに対し理想論を声高に主張するが、かえって事態をややこしくするだけ。まあ博士にしてみれば出会った相手が悪すぎた、と言いたいところだろう。
 その「出会った相手」モート人の生態がこのSF一番の読みどころ。アイディアマン・ニーヴンの真骨頂発揮である。読者には下巻の中盤で明らかになる異星人の秘密を、ロッドたちが解き明かしていくラストは目が離せない。
 「最高」とまでは言い過ぎとしても、充分に楽しめる良品だった。続編「神の目の凱歌」もすでに手に入れたので、楽しみにとっておいてある。

・デイヴ・バリー「デイヴ・バリーの日本を笑う」,集英社,1994.2
 このところ私が気に入っているユーモア・コラムニスト(というよりジョーク・コラムニスト)、デイヴ・バリーの日本旅行体験記。念のために言っておくが、日本に対する深い理解とか鋭い洞察などは、一切ない。だいたいにおいてアメリカ人が「日本人は、こうだ」と思ってるイメージを1000倍オオゲサに書きたてたものだと言って間違いない。まあ「向こうの人にはこう見えるんだ」という意味なら参考にならんこともないだろうが、彼の書くことをマジに受け取るのは、野暮の骨頂というもの。
 彼が旅行した時期はバブル崩壊のちょっと前で、今の状況とちょっとずれる部分もあるし、冗談にしてもピントのずれたところもある。かなり無茶苦茶な言いぐさも多々あるが、馬鹿なガイジンが何言ってると笑い飛ばすぐらいは、最低限の度量というものである。…しかし、読み物だからいいようなものの、面と向かって言われたら、腹立つだろうなあ。
 あとがきによると、朝日新聞は社説でこの本を紹介し「著者は、日米両国民は違いがあるからこそ、互いに認め合い、尊敬し合わなければならない、と説いている」と書いたらしい。そんなことだから「日本人はユーモアのセンスがない」とバリー氏に笑いのめされるのだ。そもそも担当記者、本当に現物読んだのかね。

・ウォルター・ワンゲリン「小説聖書・新約篇」,徳間書店,1998.6
 「旧約篇」より続く、ノヴェライズ版聖書。それぞれ内容が重複している各福音書を1本のストーリーに無理なくまとめてくれているのが嬉しい。
 イエスはパレスチナの各地で病人を癒やす奇跡を起こすことで信者を増やしていくが、この「小説聖書」を読む限り、彼自身は癒やしの奇跡を施すことに必ずしも積極的でない。だいたい癒やしの奇跡はイエスにとってジレンマの元なのだ。イエスが奇跡を起こさないと誰も彼の教え聞こうとはしない。奇跡を起こせば熱狂的な支持者は増えるが、その分支配者の誤解と猜疑を誘ってしまう。いっそ奇跡など起こすまい、などとイエスは考えはしなかっただろうか?このあたりの彼の苦悩がこの小説の読みどころの一つだと思う。(ついでながら「イエスが癒やすのを止めてしまったら、また癒せなくなってしまったら、人々は彼をどうしたか」という問題を追ったのがカードのSF「ワーシング年代記」中のエピソード「鋳かけ屋の物語」である。)
 もっとも小説の主人公としてみた場合、言動がア・プリオリに正しいとされるイエスは、あまり入れこめるキャラクターではない。「小説聖書」ではイエス自身よりも彼の周囲の人物、とくにマグダラのマリア、シモン・ペトロ、イスカリオテのユダの3人が面白い。
 まず、マグダラのマリア。イエスの最も身近にいてかいがいしく努める彼女は、女性としてイエスを愛していたに違いない。物語中盤、マリアがなぜ自分を救ってくれたのか、同情からか、それとも愛からか、と尋ねるシーンは印象に残る。
 十二使徒筆頭のシモン・ペトロ。「天国の鍵を預ける」と言われるほどイエスから信頼された彼だが、同時に最もよく叱責を受ける弟子でもあった。イエスのペトロに対する感情は「出来の悪い子ほどかわいい」といったものだったかも知れない。だがそれほどの信頼を受けたにもかかわらず、ペトロはイエスが処刑されるとき連座を恐れて自分はイエスなど知らない、と繰り返してしまう。後にペトロはローマで殉教するまで積極的な布教活動を展開するが、その原動力となったのは、このときの慚愧と後悔だったのではないだろうか。
 そしてイエスを裏切った弟子、イスカリオテのユダ。「小説聖書」では彼の裏切りは金銭や臆病のせいではなく、イエスをユダヤの王に祭り上げるための作戦だったことにしている。ユダはローマ帝国に対する反乱の核となるカリスマ性をイエスに期待したのだった。いま一つ煮え切らない態度のイエスに行動を迫るため、ユダはローマ官憲にイエスのことを密告する。イエスの理想と自分の野心が全く違う方向を目指していたことに最後までユダは気づけなかったのだった。
 というわけで、どうも著者の意図から若干はずれた方向に興味が向いてしまったようだ。ペトロやユダを主人公にした話を読みたくなった。

・マイケル・ムアコック「この人を見よ」,ハヤカワ文庫,1981.8
 2冊続けて聖書関係。話が飲み込みやすいようにと、わざわざ先に「小説聖書」を読んでからとりかかったのだが、別にそこまで気をつかう必要はなかったようだ。
 イエスの処刑に立ち会うべく、タイムマシンで時間を遡った主人公カール・グロガウアー。しかしそこには「聖者」イエスは存在せず、ただ、否応なしにメシアの役割を負わされた自分自身がいるだけだった…。
 あれ、ネタばらしてしまったか?まあ、いいだろう。未来からきた主人公が実は歴史上の誰それだった、という設定自体はそれほど珍しいものじゃないし、それでこの小説を読む価値がなくなることもあるまい。
 マリアとヨセフの息子が実は知恵遅れで、しかも代わりに十字架に架けられる主人公のグロガウアーときたら自己愛が強くてノイローゼ気味という、現代病の見本のような青年である。表面的にはひどく冒涜的な話だ。しかしそこには宗教や信仰心を否定したり、ましてや茶化したりする調子は全くない。むしろ現代人にとって、宗教的な救済や自己犠牲がどんな意味を持っているかを正面から追求した作品である。無自覚に聖書を引き合いに出したりするよりも、その態度はいっそ敬虔といえるのではないだろうか。

・佐藤正哲・中里成章・水島司「世界の歴史14・ムガル帝国から英領インドへ」,中央公論社,1998.9
 11世紀のイスラム勢力侵入から、イギリス植民地時代・19世紀の大反乱までのインド史を駆け足で、または部分をピックアップして概説する。「インドは何でもあり」とまで言われるほど多様な地域を、それも800年以上の長い期間を扱うのだから執筆、編集には苦労しただろう。あまり細部に踏み込まない内容でも600ページ近い(年表・索引含む)になっている。
 内容は3部に分かれる。まず第1部はデリー・サルタナット(11世紀〜)からムガル帝国・アウラングゼーヴ帝(17世紀)までの政治史を概観する。乱暴に一言でまとめてしまえば、イスラーム教王権とヒンドゥー教在地豪族との相克の歴史。自身は一応イスラーム教徒だが他の宗教に寛容だったムガル皇帝・アクバルの下で帝国が栄え、敬虔な信者だったアウラングゼーヴ帝が没落の因となったことは示唆的である。アクバルが名君だったことは言うまでもないとして、対するアウラングゼーヴ自身が暴君だったり無能だったりしたわけではない。能力面からみれば彼も名君で通る人物である。ただ、自分の信じる教義に忠実でありすぎた。やはり宗教問題は政治にとって鬼門であるらしい。アウラングゼーヴは帝国の分裂を招いた自分に絶望しながら世を去ったという。なまじ有能なだけに状況が見えてしまう。ボンクラだった方が気楽に死ねただろうに。
 第2部はイギリスによるインド植民地化の過程とインド社会の変化、そして1857年「インド大反乱」までを扱う。このあたりの社会史研究は現在進行中で、明確な全体像がまだ描けていない。そもそも「全体像」などがあるのかどうかも疑わしいようだ。村落の構造をとっても反植民地運動をとっても、地域ごとに性格がバラバラで「これが典型」というものがない。研究者はさぞ難儀しているのだろう。
 しかし、そのような多様性を持った広大な地域を、強権をもってであれ、まがりなりにであれ、ひとまとめに支配していたイギリスの行政手腕は正直すごい。アジア諸国を植民地支配下において害を与えたのは何も日本だけではない、イギリスやフランスの方がその歴史は長いではないか、とはよく聞く言葉である。だが歴史が長いだけにそのやり方は日本とは比較にならないほど巧みである。(…というか、日本が比較にならないほど稚拙なのかも知れない。)
 そして第3部は南インド史。デリー・サルタナットといい、ムガル帝国といい、基本的には北インドを本拠とする王朝である。南インドはそれらと密接な関係を持ちつつも、独自の歴史を持っている。ここでは南インド史の各時代から5人の進行役を選び、彼らを中心に当時の政治や社会を解説していく。馴染みのない地域であるだけに、こうして演出に凝ってくれるのは非常にありがたい。

・塩野七生「ローマ人の物語7・悪名高き皇帝たち」,新潮社,1998.9
 ローマの長い歴史をつづる大作史伝、今回は初代皇帝アウグストゥスの後を継いだ4代の皇帝を描く。「歴史小説」というには背景の解説が豊富で、「歴史書」というには著者の主観的解釈が豊富なこの作品には「史伝」という言葉がぴったりくる。
 基本的に著者は主人公となるローマ皇帝たちを褒めたくて仕方がないようである。水準以上の業績を残している2代ティベリウスや4代クラウディウスはもちろん、暴君として名高い3代カリグラや5代ネロについてもフォローを惜しまない。むしろこの暴君2人の方が名君2人より、個人としては面白みのある人物だったとさえ思える。
 もっとも、ティベリウスやクラウディウスさえ業績が見直されはじめたのは最近のことで、原史料のタキトゥス「年代記」やスヴェトニウス「皇帝列伝」では評価が低いらしい。何せ2000年近く前のこと、皇帝たちの真意、心情がどんなものであったのか本当のところは知りようもないが、この本の好意的な見方と「年代記」「皇帝列伝」の辛い評価の、中間点あたりが一番真実に近いような気がしてならない。

・栗本薫「グイン・サーガ62・ユラニア最後の日」,ハヤカワ文庫,1998.10
 ここ10冊ばかり本編は「グイン・サーガ」でなく「イシュトヴァーン・サーガ」なのだが、それも一つのヤマを迎えたようである。29巻「闇の司祭」で鮮烈デビュー(?)を飾った三醜女最後の生き残り・ネリィ公女とともに、あわれユラニア大公国は滅亡。やられ役に終始した国だけに、著者があとがきで言っているような感慨はあまり感じない。チェックポイント通過、という程度のものである。
 幕間にケイロニアのシーンが挿入されていて、次のエピソードの予告みたいなことをやっているが、その感じでは外伝の冒険を終えたグイン御大がケイロニアに帰り着くまでにどうも一騒動ありそうである。そして「グイン・サーガ」の場合、一騒動は3冊〜5冊分ぐらいになる。そっちの方も外伝で、ってことにならなければいいんだが。

・ラリィ・ニーヴン「無常の月」,ハヤカワ文庫,1979.1
 巨大フレアの光を浴びて、まばゆいほどに光り輝く月。夜が明け太陽が昇れば、この場所も死に絶える。破局の前夜を描いた表題作。その他、多元平行世界をテーマにした「時は分かれて果てもなく」「霧ふかい夜のために」、臓器移植のブラックユーモア「ジグソー・マン」、テレポートやタイムトラベルを考察したノンフィクションなどを収める。
 上でも挙げたヒューゴー賞受賞作「無常の月」と「ジグソー・マン」がとくに良。後者はシリアスに話を進めておいて最後でズッコケさせるところが気に入っている。こういう小咄的展開は短編ならでは。
 ノンフィクションは「スーパーマンの子孫存続に関する考察」「脳細胞の体操−テレポーテーションの理論と実際−」「タイム・トラベルの理論と実際」の3編。「スーパーマンの〜」は下ネタだが、残り2つは結構まじめな考察がされている。エネルギー保存則ひとつ適用するだけで、テレポートもタイムマシンもかなりイメージの違ったものになってしまう。

・渡辺浩弐「アンドロメディア」,幻冬社文庫,1998.6
 人気歌手・人見舞のダミーとして開発されたAI(アイ)が暴走し、オリジナルの舞を殺そうとする。歌手の幼なじみでAIの唯一の「友人」である少年ハッカーの主人公は舞を守ろうとするが…。サイバーパンク風ライトノベル。読む前はもっとドライな話を予想していたのだが、実際は非常に甘い、ロマンチックな話である。
 第4章まではかなり楽しく読めた。主人公が海を見たことがないというAIを海に連れていく4章ラストは、多少甘ったるいとは思うが、印象に残るシーンである。しかしその後、クライマックスの第5章でSF的設定を置き捨てて安手のホラーシーンに走ってしまったのが惜しい。そう言えば、瀬名秀明の作品でもラストでもそんな所があったから、これはモダン・ホラーのひとつの傾向なのかも知れない。

・矢作俊彦「あ・じゃぱ・ん!」(上下),新潮社,1997.11
 第二次世界大戦後、アメリカとソ連に占領され、そのまま社会主義国家の東日本(中曽根書記長)と大阪を首都とする資本主義国家の西日本(吉本首相)に分裂した日本。主人公の黒人CNNリポーターは日本通であることを買われ、新潟で反政府活動を続ける田中角栄からインタビューをとるべく東日本に潜入する…。
 こう書くとなんだかバカみたいな話のように見えるが、実際には…実際にも、やはりドタバタ基調のコメディである。物語そのものにはそれほどひかれるものを感じなかったが、各場面のディティールが楽しい。とくに東日本の描写。たとえ社会主義体制になったとしてもそこはやっぱり「日本」、日本の習慣や悪癖をそのまま引き継いでいるのだった。
 物語では日本人の富士山に対する感情が重要なキーポイントになっている。私自身はあの山には大して思い入れもないのだが、他の人、特に東日本の人間はもっと富士に親近感や一体感を持っているのだろうか?

・陳舜臣「旋風に告げよ」(上下),講談社,1982.9
 17世紀、滅亡した明朝の復興のため戦う”国姓爺”鄭成功の物語。彼の北伐とその失敗、そして台湾攻略までを描く。
 日本人を母にもつ鄭成功は純粋な中国人でない故に誰よりも中国人のイデオロギーに忠実にふるまわねばならなかった、という設定。実際のところ、エリート官僚コース”国子監”出身だった彼がどこまで日本人の血を意識していたかは疑問だと思うのだが、こういう設定にすることで成功の人間的側面を描くことができている。
 物語は日本に住む鄭成功の幼なじみ統雲が、自分の父の死に鄭成功の父、芝龍が関わっているのではないかという疑惑を持って中国の成功に接近するところから始まる。この統雲の視点を主に話が進むのだが、統雲の父の死の真相については最後まで語られることなく終わってしまう。この点が少し残念。

・ソムトウ・チャリトクル「スターシップと俳句」,ハヤカワ文庫,1984.10
 核戦争後の地球。ハワイでは放射能の影響で奇形の人々があふれ、かろうじて文明を保つ日本では前途に絶望した人々の自殺が流行していた。そんな折り、絶滅したと思われていたクジラが大臣の一人娘、イシダ・リョーコにコンタクトをとり、衝撃の事実を告げた。人類は太古の昔、ある一頭のクジラによって知性を与えられた、というのである。日本人は自分たちの父祖ともいうべき動物を長い間殺戮し、食料としてきたのだ!後悔と恥辱の念からますます自殺へと駆り立てられる日本人たち。イシダ大臣とリョーコは先の希望のない地球から人類とクジラの子孫を脱出させるべく、宇宙への植民計画を立てるのだった…。
 シリアス路線のようでいて、実は随所にブラック・ユーモアをちりばめた作品だったりする。やたらとハラキリをしたがるヘンな日本人たち、独特な(というかズレている?)俳句の解釈、自殺のテーマパークと化した富士ハイランドなどなど、複数の意味で笑える点が多い。著者はタイ人だが日本に住んでいたこともあるというから、誤解して書いてのではなく、どうやら確信犯らしい。

・神林長平「時間蝕」,ハヤカワ文庫,1987.9
   「渇眠」「酸性雨」「兎の夢」「ここにいるよ」の4中編を収録。比較的気軽に読み流せる作品がそろっている。
 4つの中ではひとりひとりのパソコンが人格の一部になっている未来を描いた「兎の夢」が一番気に入った。次点はなんとなくファンタジー調の「ここにいるよ」。かなり前に短編集で読んだ「ベティアンよ帰れ」(作者忘れた)を連想させる。
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