読後駄弁
1998読後駄弁7月〜8月


・宮城谷昌光「太公望」(中),文芸春秋社,1998.6
 商王朝に恨みを抱く組織と接触をとり、密かに、少しずつ商打倒をめざす太公望。羌族を糾合する活動の中、彼の軍師としての才能が漸く姿をあらわしはじめる。しかし、商を打倒できたとして、それに代わるべき存在を望はまだ見出せずにいた。
 …ということで太公望の主君となるはずの周文王はこの巻でもまだ登場せず(周公旦はちょっと顔を覗かせるが)。下巻で一気に展開が加速するのだろう。  ところで商の受王(すなわち殷の紂王)は暴虐悪政や酒池肉林の宴で有名だが、その相方あるいは元凶として語られるのが妖婦妲己である。「封神演義」では妖怪変化扱いだったように覚えている。当然、この「太公望」でも登場する。しかしこの物語の彼女は王を籠絡する悪女の代表選手ではなく、商人に身をやつす望に受王の気を引くための珍品を所望する、美人ではあるが影の薄い女性である。受王の行動に良くも悪くも妲己は関わっていない。
 受王の暴虐から妲己を遠ざけて描くというのは優しい見方かもしれないが、しかし反面彼女が王に対してもっていたかも知れない力を否定することでもある。悪女、淫婦と貶められてきた女性へのフォローというより、歴史に積極的に関わった女性を、その果たした役割から体よくまつりあげてしまったようにも、読みようによっては読めるのである。私は、妲己は精彩ある悪女として描くのが一番彼女にふさわしいと思っている。
 もっともそんな濃いキャラは宮城谷作品の淡い雰囲気にそぐわないということも確かなのであるが。

・栗本薫「グインサーガ外伝14・夢魔の四つの扉」,ハヤカワ文庫,1998.6
 外伝、クライマックス近し。でもまだ引くか。
 長い闘いの最後(最後だよな、多分)を飾る舞台は4層構造のダンジョン。各階のボスキャラを倒すかクエストを解けば上階に上がれるという、何かオーソドックスなRPGのような展開になってきた。そういえば最近あとがきがパソ通チャット風になっているし、栗本薫とパソコンとの関係は年々親密になっているような気がする。そのうちグイン・サーガはオンライン提供で…ということには、ならないな多分。
 話は違うが、今回の初登場の名前だが「ク・スルフ」に「ユゴス」とくれば、思い当たるのは一つ。クトゥルー神話を出すのはいいけど、元ネタまる出しなのはちょっと興ざめである。ちょっとはひねってほしい。それで刊行ペースが遅くなるなら、それでもいいから。

・アンドレ・クロー「メフメト二世 〜トルコの征服王〜」,法政大学出版局,1998.6
 ファーティフ・メフメト…征服者メフメトの二つ名で知られるメフメト二世。高校教科書では1453年にコンスタンティノープルを攻略したスルタンとして紹介されている。400年に続いたオスマン・トルコ帝国の基礎を作った人物と言っていい。軍人皇帝としてだけでなく、ルネサンスの初期に入っていたヨーロッパ文化にも造詣の深い人文主義者だった。偶像崇拝の禁止が徹底しているイスラム圏で珍しく洋画の肖像が残っているのもその表れである。かといって17世紀の彼の後継者のようにヨーロッパに耽溺することなく、征服したコンスタンティノープルを新首都イスタンブールとしてイスラムの中心に再建した人物でもある。東西文化の合流点にあったトルコならではの、複雑な性格を持った支配者だったと思う。
 このところトルコも海外旅行先としてかなりメジャーになったようで、よくイスタンブールのツアーも目にする。そのパンフレットに観光地として紹介されている建造物などには、メフメト二世が創建したものがかなりの割合で含まれている。トプカプ宮殿がそうだしグラン・バザールも基礎はメフメト治世にできている。せっかく都市の方がメジャーになったのだからその歴史の方ももっと注目してもよさそうなものなのだが、あまりそんな気配は……。いや、最近ちょこちょことイスラムやオスマン・トルコ関係の本が出版されたり再刊されたりしているところを見ると、少しは注目されだしているのかも知れない。だとしたら、かつてイスラム史をひとかじりした者として嬉しいことである。
 …などと説教たれている自分はまだイスタンブールはおろか、日本国から一歩たりとも出たことがないのである。情けない口舌の徒というわけだ。くそっ、いつか絶対行ってやるぞ(強気)。…金と暇が許せば(弱気)。

・アイザック・アシモフ「夜来たる」,ハヤカワ文庫,1986.11
 「夜来たる」(長編版)が出たので復習がてら再読。しかしアシモフの出世作である表題作より、次に載っている「緑の斑点」の方が私的には好みにあっている。前に読んだのは高校のときぐらいだと思うのだが、それでも話の筋を記憶していた。してみると前回初めて読んだときもこの話が気に入りだったようだ。
 「緑の斑点」は一口で言えば侵略テーマの話。惑星の全有機体が共有意識をもつ生命体が、個々が無秩序に分裂している地球の生命体も同化してあげよう(彼らにしてみれば善意なのである)と、惑星探査にやってきた宇宙船に潜りこむ。結局のところ彼らの企図は挫折し、語り役の科学者は地球に帰ってきて「たしかに、無秩序だ。だが、これはこのままでいいのかもしれない」と呟くのである。
 惑星規模の全体意識をもつ生命体というのはどこかで読んだな…と記憶を探ってみると同じアシモフの「ファウンデーションの彼方へ」「〜と地球」に登場した「ゲイア(ハードカバーの訳。最近出た文庫版ではガイア)」が同様の存在だったことに思いあたった。しかし「ファウンデーション」の主人公の方はこの意識共有体という形を人類の望ましい未来の姿として選択してしまう。
 「緑の斑点」は1950年、アシモフ30歳の作品。「〜彼方へ」は1982年、62歳。30年の間にアシモフにどのような思想の転回があったのか、それとも年をとって次第にそういう考えに変わったのか?私は、と言えばゲイアなどという存在は少なからず気色悪いと感じる。だいたい「全体」とか「統一」とか「連帯」とかいう言葉を聞くと身構えてしまう。無秩序もそれはそれで素晴らしいという「緑の斑点」の科学者に全面的に賛成なのである。

・アシモフ&シルヴァーバーグ「夜来たる(長編版)」,創元SF文庫,1998.6
 過去に大ヒットした短編の長編化。この手の作品はある程度の売り上げは見込めるのだろうが質は原作よりも悪くなってしまう可能性が高い。それほど面白くなくてもがっかりしないように身構えて読む。
 期待は、まずまずいい方向に裏切ってもらえたようだ。危惧していたような話の間延び感はない。  つくりとしては、元の短編を第2部に置き、そこに至るまでの話と、その後の話という風に前後に展開させたもの。科学者たちが、自分たちの星に二千年に一度の夜が訪れるということを突きとめるまでの第1部は上のような先入観をぬぐい去るのに充分な面白さだった。第2部はその名も高き短編版をほとんどそのまま踏襲しているので、悪くなりようがなし。
 難を言うとすれば第3部。「夜」が明けた後既存の文明は崩壊し、かろうじて狂気を免れた人々があるいは惑い、あるいは暴徒化する中、秩序の再建が試みられる…。うまくまとめてくれているが、新味がない。またぞろ「フロンティア再現」の構図か、アメリカ人はこれが好きだねえ、などと思ってしまう。最近読んだ他のSFが「ポストマン」「終末のプロメテウス」と、やはりフロンティア再現の話だったせいもあるのだが。
 短編版から長編版へリライトしたための欠点も、全くないわけではない。原短編で狂信者として登場したカルト教団の幹部が長編版、とくに第3部で重要な役割を果たすことになる。そのための伏線は第1部で張られているのだが、短編をなぞった第2部では狂信者の性質が色濃いままに留め置かれている。結果、第2部と第1、3部とを比べると彼のキャラクターに違和感が残ることになってしまった。
 少しけなしすぎてしまったようだが、以上は短編版、長編版を立て続けに読んだ上でのこと。舞台の説明が行き届いている分、短編版より話が頭に入りやすいことなど、長編ならではの利点も多い。まだどちらの「夜来たる」もよんでいないなら、こちらを読む価値は充分ある。

・紀平英作・亀井俊介「世界の歴史23・アメリカ合衆国の膨張」,中央公論社,1998.6
 独立してから20世紀初頭に至るまでの合衆国の歴史。政治史を中心とした第1部は基礎知識として読み流す。第2部「アメリカ文化の展開」が面白い。
 アメリカが文化的にも独立を達成するには、政治的独立よりさらに長い年月がかかっている。ヨーロッパに対するコンプレックスから脱したのは19世紀も中盤にさしかかってからである。
 この本では大衆エンターテイメントが大きく扱われている。アメリカ人が自己のイメージとして持つ「アメリカ」というのはそういった大衆文化…巡回劇団の演劇とか、新聞や雑誌の小説などに端を発しているものが多いようだ。そういえば私がよく読むSFに出てくる辺境のイメージは、ほとんど全部が19世紀のアメリカ西部をモチーフにしている。マクドナルド「火星夜想曲」しかり、カード「辺境の人々」しかり。この間映画化されたブリン「ポストマン」も同様。アメリカ人はこの時代を最もよき時代として理想化しているのだろう。
 …黒人が酷使され、インディアンが追放され、中国人労働者が迫害を受けたのも同じ時代のことなのだが。

・栗本薫「グイン・サーガ61・赤い激流」,ハヤカワ文庫,1998.7
 前巻で「諸悪の根元」を斬り捨てたイシュトヴァーン。しかし彼の内に蒔かれた野望と妄執の種子は漸く芽吹き、彼と彼を愛する人々、そしていずれは全世界をさいなむのであった……ということで、相変わらずダークで不健康な話が続く。イシュトとナリスの曲がりくねった心理劇にもそろそろ飽いてきたので、主人公グインにはとっとと本編に帰ってきて欲しい。
 ところで今回、イシュトヴァーンはかつて罠にはめて殺した敵将の亡霊を夢に見てうなされるのだが、この敵将が殺されたのは確か第3巻…いや、見直してみたら第4巻のことである。56冊、出版年にして18年前の伏線…なんか、すごいな。グイン・サーガのことだからこれからこの種の伏線は数多く出てくるのだろうが。

・ジュディス・メリル編「年刊SF傑作選2」,創元推理文庫,1967.12
 去年古本屋で見つけて、そのまま放ってあったもの。ここの「名文句・迷文句集」で投稿のあったヤング「たんぽぽ娘」が収録されていることに気づいたので読むことにした。
 1961年に発表されたSFが収録されている。フレデリック・ポールやフリッツ・ライバー、コードウェイナー・スミスといったSFでは馴染みの名前もあるが、「SF作家」以外の作品も数多く収録されている。しかしやはりSF作家として知られる人の作品の方が全般的に面白い。餅は餅屋というところか。
 読み出すきっかけとなったヤング「たんぽぽ娘」はタイムマシンをネタにしたロマンスで、いい話だった。主人公が恋人と別れてこのまま「マディソン郡」的展開かなと思わせておいて、ラストで逆転してみせるあたりは気に入っている。この作品は「オールタイム・ベスト」にもランクインされている。どうもSFファン(とくに男性の)というのはこの手のセンチメンタルな話に弱いようだ。
 「たんぽぽ娘」より気に入った作品が二つ。ライバー「ビート星群」とポール&コーンブルース「クエーカー砲」。「ビート星群」は浮浪者たちが自力で作った宇宙コロニーが当局からの立ち退き命令を受けるが…という話。「クエーカー砲」は捕虜となったとき機密情報を漏らしてしまった経験のある士官が、とある重要作戦の副官を命じられた、その真相は?というもの。どちらもロマンスはなし。アイディアと軽妙さが売りの作品である。
 ロマンスや泣ける話は人気が高いし私も好きだが、そんなSFばかりということにはなって欲しくない。全体がバラエティに富んでいてこそ、個々の作品も引き立つというものである。

・宮城谷昌光「太公望」(下),文芸春秋,1998.7
 受王に捕らわれた西伯昌(周文王)を救うため暗躍をはじめる大公望。彼の率いる反商組織の活動で死地を脱した西伯昌は望を賓師として迎えた。なお強大な商に対抗するため望は南の大国召との同盟を提案し、長い運動の末それに成功する。そして舞台は決戦の地、牧野へ……。
 商周革命は最後の決戦、牧野の戦いでクライマックスを迎えるがこの「太公望」では必ずしもそこに力点を置いていない。祭政一致だった中国で初めての合理主義者・太公望の水面下の長い闘いが物語の主題なので、牧野の戦いはそれの帰結といった扱いになる。むしろ、召との同盟の方が太公望最大の賭として重視されている。この周召同盟については以前に「甘棠の人」(「侠骨記」講談社刊に収録)で作品化されていて、著者好みのエピソードらしい。

・アンダースン&ビースン「星海への跳躍」(上下),ハヤカワ文庫,1996.7
 時は21世紀、偶発的に起こった核戦争のため地球はほぼ壊滅。周回軌道上に残された宇宙ステーションは地球からの補給なしでは遠からず餓死してしまう。孤立したフィリピン、アメリカ、ソ連の各ステーションはそれぞれの方法で生存への道を探りはじめるのだった。
 各ステーションで連絡を取るために登場する様々な宇宙飛行のバリエーションが面白い。光子帆を利用したり、ケーブルをつないだコンテナをヨーヨーさながらに投擲したり。中には宇宙服一つで超長距離ジャンプを敢行するという破天荒なものもある。だがいくら無茶そうでも、それぞれに力学的な裏付けがされているところが本格SFの醍醐味である。
 物語としては、私が一番に注目したのがアメリカコロニーの責任者ブラームスである。彼はコロニーが生き延びるために、仕事の能率の悪い人間を「強制削減」――つまりエアロックから放り出して殺すという暴挙に出る。彼をどう描くか…それでも人間として描くか、それとも怪物的な小ヒトラーで済ませてしまうかで、ドラマの厚みが全く違ってくる。後者だったらSF的アイディアがいくら生きていても物語としては魅力がない。
 嬉しいことにブラームスのキャラクターは非常にうまく描かれていた。独善的な官僚タイプではあるが自分の行為に対して自分なりの誠実さと良心をもった「悪意なき独裁者」という設定。彼が「強制削減」したかつての同僚の個室を訪れ、生前同僚が好んでいたチェッカー・ゲームを一人で指すシーン、これがとても印象的だった。
 以上、今年にこれまで読んだSFの中ではかなり上位に位置する面白さだった。SF的仕掛けといい、登場人物といい本書の後に出た「終末のプロメテウス」より格段に上。

・ロジェ・カイヨワ「戦争論・われわれの内にひそむ女神ベローナ」,法政大学出版局,1974.12
 戦争が民主主義を伸張し、民主主義が戦争を大規模で凄惨なものにした、と聞けばショックだろうか。しかしこの本によればそうなのである。近代以前の戦争は騎士階級の参加する、多分に競技的なものだった。だが兵器の進歩、特に小銃の発達が騎士の付属物だった平民出身の歩兵の力のばす元になった(当然それだけがフランス革命など市民革命の原動力ではないが、大きな要因だったのは正しいだろう)。革命を経て一般市民が徴兵されるようになるとそれまでとは桁違いの大量動員が可能になった。民主主義によって約束された法の上での平等は徴兵された兵士の士気を高め「祖国を守る」積極的な意志を持たせた。戦うための「正義」は戦争を妥協のない激しいものにし、兵器のさらなる発達がそれをエスカレートさせる…ということだ。ちょっと極論な気もするが、多分そのような面はあったのだろう。
 そのようにして大きくなった戦争は忌まれると同時に賛美されもした。著者は戦争が非人間的であること、壮大であることにより「聖なるもの」の色合いを帯びた、という。確かに紹介されている戦争賛美者の論は神を讃えるときのものと酷似している。「戦争=究極の悪」の図式に慣れている私たちからすれば異常だとしか思えない。だが正常か異常かは別としてそのような論が成立しうること自体が、上の図式に安住できない大きな理由である。「戦争はイケないこと、問題外」と思考停止して済ませていては現に戦争があるという事実を何ともしようがない。

・シオドア・スタージョン他「空は船でいっぱい」,ハヤカワ文庫,1980.8
 40年代から50年代はじめの短編6つを収録したアンソロジー。古さを感じさせない、とまではさすがに言えないがそれでも面白味は損なわれていない。例えば冒頭のブラッドベリ「われはロケット」も道具立てはかなり古くさいが、語り口に詩情があって引き込まれる。(まあ、表題作のスタージョン「空は船でいっぱい」なんかは古さの方が目に付いてしまったのだが…。)
 一番気に入ったのはC・L・ムーア「美女ありき」。事故死した大女優がサイボーグ化によって甦る。人間とは異なった優美さを身につけた彼女の舞台復帰は、大成功と見えたのだが…。1944年初出の古典的作品だが、描かれているサイボーグの優美さは今読んでもそう色褪せていない。

・アーシュラ・K・ル・グイン「内海の漁師」,ハヤカワ文庫,1997.4
 ル・グインの、こっちは90年代発表が中心の短編集。前半は単発短めののSF/ファンタジィ、後半は宇宙史シリーズ<ハイニッシュ・ユニバース>ものの中短編。
 収録されている<ハイニッシュ>もの3編は光速を越えた瞬間移動を可能にする「チャーテン理論」がテーマの連作。人間の意識が瞬間移動後の現実に影響を与えるという設定は面白い。
 2話目「踊ってガナムへ」がとくに良かった。目的地での原住民とのトラブルが、文化的ギャップによるものなのか、チャーテン効果による現実認識のズレによるのかで主人公たちが迷う話。
 カードは<エンダー>シリーズで、ハイニッシュ・ユニバースの超高速通信<アンシブル>を流用しているが、同じシリーズ「ゼノサイド」で登場する超光速法もやはり「チャーテン理論」を思わせるものがある。当然細部は違うが、人の意識が光速を越えるときときの鍵になるというあたりは共通している。
 本編の作品も良かったが、それ以上にル・グインがSFについて語る序文も面白く読めた。収録作品の解説も付いているが、これのおかげで巻末の解説者は書くことがなくて苦労したんじゃなかろうか。

・バリントン・J・ベイリー「禅銃<ゼン・ガン>」,ハヤカワ文庫,1984.10
 オモチャ箱をひっくり返したような感のある作品。
 人と動物のキメラや知性化された動物、サムライ風の人間兵器<小姓>と究極の武器「禅銃」、そして宇宙には引力や重力など実は存在せずただ斥力だけがあるとする「後退理論」…エトセトラ、エトセトラ。これら次々登場する奇抜な発想、奇怪な風景を驚き楽しむのがこの小説の(ひいてはこのジャンル「ワイドスクリーン・バロック」の)醍醐味だ。ここでは、物語は発想と発想とをつなぐニカワ程度の役割に後退してしまう。その点を取り上げていい、悪いというのはおそらく見当違いだろう。そういう類のSFなのである。
 私自身の好き嫌いを言えば、ストーリー重視の作品の方が好みである。だが、ここまで潔くストーリーを捨て去ってアイディアの連打に終始されると、もう素直に楽しむしかなくなってしまう。

・井上浩一「ビザンツ皇妃列伝」,筑摩書房,1996.3
 東ローマ――ビザンツ帝国一千年の歴史を彩る8人の皇妃の列伝。古典ギリシアとキリスト教の狭間にゆれたアテナイス=エウドキア(5C)。大帝ユスティニアヌスを支え、時に叱咤した踊り子あがりの賢妃テオドラ(6C)。伯父との結婚で「近親相姦」の烙印を押されたマルティナ(7C)。ビザンツ最初の女帝となったエイレーネー(8C)。二人の皇帝の后となり「妖妃」の名も高いテオファノ(10C)。帝国の激動期に皇室と有力貴族との楔となったエイレーネー・ドゥーカイナ(11〜12C)。帝国が第4回十字軍にいったん滅ぼされた時の皇妃だったフランス王女アニェス=アンナ(12〜13C)。そして最後の皇帝の母だったヘレネ(15C)。彼女らの行動とともに、背景となった時代の解説も丁寧で、あまりなじみのないビザンツ帝国史でもとまどうことなく読める。
 遺されている数少ない史料、それもときには故意に筆を曲げられていたりする史料から、皇妃たちの生き様を再構築していく。その複数の史料を比較、批判するポイントが簡潔に示されていて、話を楽しむと同時に歴史を研究するときの態度や方法を窺い知ることもできる。この点で一番面白いのが3人目、マルティナの伝。伯父ヘラクレイオスに嫁いだため近親相姦とののしられ、夫の死後は舌を切られて追放された皇妃。帝位を巡る息子のライバルを毒殺したなどの悪評も高い彼女だが、本書の史料批判はそれが事実無根で、宗教的な不寛容から必要以上に貶められた悲劇の女性だったことを解き明かす。
 この列伝の元になった講義は93年に大阪市立大学で行われていたらしい。私も大学生だった頃である。こんな講義なら私も受講してみたかった。

・浅田次郎「日輪の遺産」,講談社文庫,1997.7
 ある晩、偶然であった老人が死に際に遺した一冊のノート。そこには大戦中、陸軍がマッカーサーから奪った時価200億円の財宝にまつわる悲劇が記されていた……。
 …というあらすじを見て「何だ、よくあるM資金ネタか」と軽く見た私は浅はかだった。これは痛快だが軽薄な、宝探しの冒険ものでは全くない。だいたい財宝の謎そのものについては、かなり早い段階で明らかになるのである。これは戦後の日本を困窮から救うため財宝を守り抜こうとした男たちと、それに巻き込まれ、お国のためと信じて死んでいかねばならなかった女学生たちを感動的に描いた物語である。
 「日本を救う」「お国のため」などというフレーズを聞くと私たちはまず間違いなく、警戒心を抱く。鼻で笑いさえするかも知れない。国がそれを鼓吹し、国民に強制する時代があったのだからそんな文句に対し距離を置こうとするのは当然だ。しかし、それを信じて戦った個人個人の生き方をまで嗤うのは間違いだろう。スローガンの下に行われた数々の愚行の一方で、純粋な気持ちや行動もなかったわけではなかろうから。「命かけてお前たちを/守ったと言わせてやれ/それを正義と言うつもりはないが/時代と片づけたくもない」私の好きな一曲、さだまさし「戦友会」の一節である。
 もう一つ。この話にの登場人物は、地上げ屋まがいの不動産屋や金の亡者と噂される地元の有力者などにいたるまで、心のどこかに純粋さを残した人ばかりで、その点読んでいて非常にさわやかだった。

・ウォルター・ワンゲリン「小説『聖書』旧約編」,徳間書店,1998.5
 文字通り、聖書を小説風に再構成したもの。アブラハムから始まってモーゼの十戒やダビデ、ソロモン、預言者たちの物語まで全部そろっている。「創世記」がないな、と思っていたら最後の方できっちりフォローがしてあった。構成の巧みさが光っている。
 登場人物も聖書を忠実にたどりながらも現代風の解釈を加えていて、私のような不信心者でも抵抗が少ないようになっている。特に面白いのがイスラエル最初の王であるサウル王の造形。聖書では悪霊にとりつかれ、ダビデの人気に嫉妬して彼の謀殺をたくらむ人物だが、この小説では勇敢な王だが宿敵ペリシテ人との戦いに疲れ果て、精神を病んだあまりダビデに殺意を抱くというふうに描かれている。
 前に阿刀田高「旧約聖書を知っていますか」を読んだときにも思ったことだが、この聖書の神様は何と身勝手で、残酷で、気まぐれなことか。アブラハムの信仰を試すため彼の一人息子を生贄に捧げるよう求めたり、ただいちど偶像を礼拝したイスラエル人たちに対し、40年もの間砂漠をさまよわせたり。先に述べたサウル王が精神を病んだのは神の恩寵を失ったせいだが、それは神に敵対するある都市の人民を根絶やしにしなかったという理由からなのである。穏やかで慈悲深い神、というものを想像できないぐらいに、かれらイスラエル人の境遇が厳しかったということなのだろうか。

・神林長平「狐と踊れ」,ハヤカワ文庫,1981.10
 神林長平の第一短編集。薬を飲み続けないと人間の胃が体外から逃げ出してしまうというヘンな社会を描いた表題作のほか、人気シリーズの第1作「敵は海賊」など。テーマはバラエティに富んでいるが、会話の独特なテンポや語り口は共通している。
 上にあげた2作品もいいが、自分にとって印象が濃いのはトリの「忙殺」。主人公のフリーライターが追いかける新興宗教教祖、氏家数奇の主張に妙に納得してしまった。「忙しさというのはエントロピーと同じで常に増大する。たとえば職場にコンピュータを導入することで得られる省力化の度合いは、導入したことで増える忙しさを上回ることはない」というもの。思わず入信…したくはならなかったが。しかし実際、ウチの職場では上の図式がそっくりそのまま当てはまってしまうのである。

・ロジャー・ゼラズニィ「われら顔を選ぶとき」,ハヤカワ文庫,1985.7
 『11月の寒い土曜の夜、マンハッタンのクラブを一歩出たおれは何者かに狙撃され絶命した。冷凍処置された俺が目覚めたのは未来の地球。暗殺者としての力量を買ってわがファミリーの子孫はおれに”仕事”をもちかけた…』
 未来の人類社会を影で操作し保護してきた多重人格/クローンの<一族(ファミリー)>。彼らの存在は歴史を通して完全に秘密にされてきた。しかし今、彼らの分身が一人、また一人殺されてゆく。何者が、そして何のために…?
 最初のは裏表紙の紹介文(ただし省略あり)、2つ目は自分なりの紹介文。全く別の話になってしまう。裏表紙の紹介は第1部に焦点を当て、私のは分量的に多い第2部以降にした、ということからくる差である。表紙での紹介というのは、限られた字数でうまく興味を引くように、しかも内容のネタばらしをしないように文章をひねり出さないといけない。この本のように第1部と第2部で舞台も登場人物も変わってしまうと結構苦労するのだろう。
 それはさておき、内容はテンポの早いアクションもの。主人公のキャラは同じゼラズニィ「わが名はコンラッド」のコンラッド・ノミコスとちょっと似ているような。ゼラズニィの文章は事物の描写が洗練されているというか、ひじょうに綺麗なのが好きなのだが、ただアクションものでそれをやるとちょっと場違いに感じる。展開もモタついてしまうし。

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