読後駄弁
1998読後駄弁5月〜6月


・ロジャー・ゼラズニイ「伝道の書に捧げる薔薇」,ハヤカワ文庫,1976.11
 以前に借りて読んだ本だが、品切れだったのが復刊されたので改めて買って読む。あるうちに手に入れておかないとまた品切れになってしまう。とくにこのゼラズニイ、名前はよく聞くのに作品が店頭に並んでいるのを滅多にみない。
 失恋したり恋人が死んだりとビターな話が多いように記憶していたのだが、読み返してみると分量的にはそう多いわけではない。いい作品にそういう話が多いので記憶に残っていたのだろう。……ということでお勧めは、表題作「伝道の書に捧げる薔薇」。火星人の歴史と伝承に初めて迫ることのできた天才詩人の、勝利と同時にもたらされた敗北の物語。それともう一つ、ある植民星の大水害を描く「このあらしの瞬間」も良。極限状況の中で露わになる「人間の定義」とは…。
 悲恋もの以外では、冒頭の「その顔はあまたの扉、その口はあまたの灯」も気に入っている(原書の表題作はこちら)。金星が舞台の海洋冒険ものという、ちょっと変わった取り合わせの作品だった。
 「重要美術品」のような結構おバカな小品もある。芽のでない芸術家が自分の肉体そのものを芸術品として陳列すべく、美術館に潜入する…という話。ラストが支離滅裂でしょうもないと言えばしょうもないのだが、シリアス主体の短編集に挿入されているといい息抜きになる。

・アラン・ディーン・フォスター「スペルシンガー・サーガ4・わがままな魔術師」,ハヤカワ文庫,1998.4
 ファンタジーはSFに比べるとそれほど多く読む方ではない。それでも何となく買い続けているシリーズはあって、この「スペルシンガー・サーガ」もそのひとつ。ロックシンガー志望の大学生ジョン・トムが突然連れてこられたのは、言葉をしゃべる動物たちが闊歩する、ディズニーランドのような異世界。気軽に読み流せるユーモアファンタジーである。
 この手の話はキャラクターが命。多少展開が平坦でもありきたりでも、キャラの掛け合いが面白ければ作品は十分楽しめる(もちろん、ストーリーが良ければそれに越したことはないが)。「スペルシンガー・サーガ」ではジョン・トムの他に老獪な魔術師のカメ、陽気な小悪党のカワウソ、マルクスかぶれのドラゴンらがレギュラー。翻訳の限界か作品の性格か、大爆笑とまではいかないにしろ、ニヤリとさせるやりとりを楽しませてくれる。
 主人公のジョン・トムは歌った歌がそのまま魔法になるという魔術師、すなわちスペルシンガーなのだが、彼のレパートリーというのが、ビートルズとかジミ・ヘンドリクスとかヴァン・ヘイレンだったりする。自分が洋楽に疎いぶん、面白さが割り引かれてしまう。ちょっともったいない。

・ジョージ・ウィリアムズ「生物はなぜ進化するのか」,草思社,1998.4
 進化論の入門書。著者はドーキンスにも影響を与えたという進化論の大御所らしい。
 人間を含めた動物の体が合理的に機能する反面、いかにいきあたりばったりな進化をしているか、その進化の途上で、どうして男と女という二つの性ができたのか。また、老化や死は進化にとってどういう意味を持つのか…などなど、かなり広範な話題が提供されている。とりあげられているのがエンドウマメでもショウジョウバエでもなく人間についてのことなので、興味が持続しやすい。
 医学に進化論的な考え方を応用することにも一章がさかれている。伝染病に罹った人や地域を隔離することは、病気の蔓延を防ぐと同時に、病原菌の毒性を弱くする作用がある、という指摘には非常に納得させられた。細菌やウィルスは世代交代が速く進むため短期間で進化が起こる。伝染病流行の時、ふつうの状態だと病原体は毒性が強く伝染能力が高い方が繁殖に有利なため、自然選択によって毒性が強い方に進化する。しかし病原体の宿主(例えば人間)を隔離状態におくと、宿主が病原の毒によって死んでしまった後、病原体自身も増え続けるための行き場を失ってしまう。よって、できるだけ長く宿主を生かしておけるよう毒性の低い病原体が繁殖上有利になり、毒性が低いように進化する。「コンドームや清潔な注射針の使用が広まれば、HIVはより致命的ではなくなるだろうし、網戸や虫よけ剤が広まれば、より毒性の低いマラリア病原体の選択につながるだろう」とこの本では述べられている。進化論といえば何百、何千万年単位の話で、現実現在にはあまり関係がないような印象があるが、上のような考え方など、実際にもかなり有用な理論である。

・大原まり子「一人で歩いていった猫」,ハヤカワ文庫,1982.1
 短編集。表題作は大原まり子のデビュー作。天使のような翼(実は護身用の武器)を持ち二本足で歩く”猫”が主人公。また突飛な姿ではあるが、絵的には不思議と映える。この”猫”が進化の袋小路に陥っている地球に流刑されるという、スペースオペラと幻想小説を足したような話である。
 他の作品も登場人物や場所は異なるが背景に共通の世界観を持つ、いわゆる「宇宙史」もの。物語一つ一つを楽しむと同時に、その話と「宇宙史」との接点を見つけるという楽しみもある。モザイクやジグソーパズルのピースを鑑賞するのに似ているかもしれない。

・浅田次郎「鉄道員(ぽっぽや)」,集英社,1997.4
 直木賞受賞作を含む短編集。どの短編も派手さはないが静かな感動を満喫できた。なかでも表題作で受賞作「鉄道員」は泣ける。廃線間近のローカル線に勤める、退職間近の老駅長の物語。正直「ああ、これはこうなるな」と話の展開は途中で読めてしまったのだが、頭で分かっていることと実際読んで感動することは別物。「ポッポヤはどんなときだって涙のかわりに笛を吹き、げんこのかわりに旗を振り、大声でわめくかわりに、喚呼の裏声を絞らねばならない…」のあたり、本気でまぶたにきた。
 今読んでも充分感動できたが、もっと齢をくった後、もう一度読んでもいいだろう。また違った感慨がわくんじゃないかと思う。

・山田正紀「エイダ」,ハヤカワ文庫,1998.5
 もし創作の世界が実在して、それが現実と交錯しはじめたら…?物語論と量子論をからめた作品。
 複数の平行世界が、自分の「現実」世界の中でお互いを「物語」の世界として描いている。そのうちのどれかが本当の現実で残りがニセモノというわけではない。「現実」というのはどれもひとつの「物語」なのだから。とすれば、私が手に取った本の世界はどこかに何らかの形で実在しているということだろうか。そしてその本を手に取っている私の世界も、誰かの創作から生まれた世界ということになってしまうのだろうか?この想像には終着点がない。
 読んでいて、ふとJ・ゴルデルの「ソフィーの世界」や「カードミステリー」を連想した。あれも物語世界と現実世界(これも本に登場する以上、ひとつの物語世界だが)とが交差する話だった。


・宮城谷昌光「太公望」(上),文芸春秋社,1998.5
 中国史でお馴染み「天才軍師」の草分け、太公望呂尚の物語。たしか産経新聞に連載していたものだ。
 太公望といえば、釣り竿持った仙人風の爺さんというイメージがあるのだが、ここでの彼は殷王朝に復讐を誓う、鋭い風貌の少年である。テーマが復讐であるということは前作「青雲はるかに」の笵雎とも重なる部分がある。復讐といってもその言葉の持つドロドロした雰囲気がなく、一つの目的を追求するときの透徹した印象を与える点がいかにも宮城谷の作品らしい。
 時代的には少し前の長編「王家の風日」と同時期。「王家〜」の主人公だった箕子はこちらでも活躍する。太公望の最大の敵であり越えるべき存在といった役どころである。
 全3巻予定らしいが、この巻ではまだ話はそれほど展開しない。太公望の主君となる西伯昌や武王はまだ登場さえしていない。来月、再来月の続巻が楽しみである。

・ウィリアム・シャトナー「新宇宙大作戦・カーク艦長の帰還」(上下),ハヤカワ文庫,1998.5
 はっきり言ってカーク艦長、あなたは無理に帰還してこなくてもよかったんだが。
 私とて昔なつかしいTOS(The Original Series 元祖「宇宙大作戦」のこと)のファンである。ミスター・スポックが大好きだしカーク艦長だって嫌いではない。しかし今さらTNG(The Next Generation 新宇宙大作戦のこと)に出しゃばって欲しいとは思わない。TNGはもう独自の物語とキャラクターを確立している。旧シリーズのメンバーがファンサービスのためのゲスト出演以上の役割を演じる余地はないはずなのである。それに物語上でも旧シリーズとのタイムラグは80年。寿命が200歳という設定のヴァルカン人スポックならまだしも、地球人のカークをタイムスリップさせてまで出すというのは、どうにも無理が大きい。その設定を使った映画第7作「ジェネレーションズ」がすでにオマケだったと私は思っている。その続編とあってはなおさら……。ついでに書いているのが当のカーク役ウィリアム・シャトナーだということにも、臭みを感じさせるものがある。
 と、コンセプトについては非常に文句があるのだが、話そのものについては意外と読める。さすがにカーク艦長直筆(苦笑)だけあってスタートレック小説としての落としどころはよく心得ている。カークやピカード、スポックらキャラクターの描き方も悪くない。話の伏線を他のエピソードから持ってくるあたりは、普通の小説では反則なのだが、こういうファン小説ではかえって喜ばれるものだ。
 ただ、ラストがなあ。まだ続きを書くつもりだよ、まったく。あとがきによると実際、続きが出てるらしい。私と違ってカーク艦長に時を越えて活躍してほしいと願うファンが数多いのだろうか。

・スティーヴン・シュナイダー「地球温暖化で何が起こるか」,草思社,1998.4
 去年京都で会議やってたし、今最も旬な話題(といったら不謹慎か)である。しかし、言葉ばかりが先行して、どういう理由で地球が温暖化するのか、温暖化したらどうなるのか、そもそもどういう方法でそれを予測しているのか、といういことはなかなか分かりづらい。そういったことに答えているのが本書。地球全体の気候変化のメカニズムや、それを予測するコンピュータモデルの長所と限界が主なテーマになっている。
 最後の章では実際に温暖化対策に取り組むときの問題について、科学者サイドから見た意見が出されている。ただ、この「環境政策のあり方を問う」ではアメリカ合衆国で環境問題に取り組むときの問題点がテーマになっている。他の国や国際間、例えば発展途上国に対し経済発展のスピードを抑制してでも環境問題に取り組むよう求めるときにはこの章での主張とは違った論点が必要になってくるんじゃないだろうか。

・オースン・スコット・カード「帰郷を待つ星・地球の記憶」,ハヤカワ文庫,1994.5
 元ネタといわれる「モルモン経」を最初の方だけだが、ざっと見てみた。確かに話の流れはかなり似ている。「モルモン経」で最初に預言を託されるリーハイは「帰郷を待つ星」のヴォーリャマーク、彼が脱出するエルサレムはバシリカというわけだ。主人公の名前などは「ニーファイ」「ニャーファイ」と、そのまんまである。
 しかし、形は似せてあっても中身は違う。「モルモン経」はなんだかんだいっても聖書である以上、人間よりも彼らを支配し導く神の物語である。人間は絶対的存在に善導される(時には、翻弄される)立場でしかない。
 「帰郷を待つ星」はカード作品が全てそうであるように、人間たちを描いた物語である。彼らは神=オーヴァーソウルに従って行動するかも知れないが、それは彼ら自身のの意志によってである。主人公ニャーファイも繰り返しオーヴァーソウルに訴える。従うのは望むところだ、しかし決して操られはしない、と。
 その意味で私が一番好きなのが、中盤の一シーン。人類が滅亡の道をたどらないよう、大量破壊や最終戦争につながる知識や発見を人々の記憶から消し去るというのが、惑星管理コンピュータ<オーヴァーソウル>の役割である。しかしニャーファイとその兄イスィブはオーヴァーソウルの記憶操作に対抗し何とか記憶を保ち続けようとする。二人が記憶を無くさないよう続ける会話のやりとりが、息の詰まるぐらい緊張感があって印象強い。

・オースン・スコット・カード「帰郷を待つ星・地球の呼び声」,ハヤカワ文庫,1996.1
前巻「地球の記憶」と合わせて「帰郷を待つ星」シリーズの第1部、といったところか。「地球の記憶」では名前だけで人となりの分からなかったセヴェットやキョーコール、<解明者>ヒューシースらのキャラクターに肉付けがされ、役者のでそろった感がある。
 だが今回の登場人物中最も魅力的に仕上がっているのは、おそらくこの巻だけにしか登場しない将軍ムウズー(本名ヴォズムザールノイ・ヴォズモズノ…舌噛むぞ)である。神=オーヴァーソウルの強制力を感じたとき、常に反発して強制とは逆の行動をとり続けてきた人物。オーヴァーソウルの聖地バシリカの征服という彼にとって最大の勝利のあと、しかし彼が知ったのは自分の行動が全てオーヴァーソウルの意図した通りだということだった。オーヴァーソウルはムウズーの反発を見越して、自分の意図とは逆のことを彼に強制することで彼をコントロールしていたのである。最大の勝利と最大の敗北を同時に得るという皮肉。このエピソード単独でもひとつの悲劇として充分鑑賞に堪える。しかし…このオーヴァーソウルのやり口はたとえ善い目的のためだったとしても、姑息で狡猾と思わざるをえない。私はこんな神様を信じるのは願い下げである。
 その悲劇の英雄ムウズーを後に残してニャーファイら一行は砂漠へ、そしてまだ見ぬ地球への旅路につく。ニャーファイと彼に敵意を抱く長男エルイェマークとの関係はどう動くのか、オーヴァーソウルでさえ予測しなかった謎の幻夢はどこから送られたヴィジョンなのか、そしてその意味は?そして地球で何が彼らを待っているのだろうか……。というふうに物語はこれからが本番なのだが、いかんせん続きが出ない。原書はシリーズ完結しているはずだから、まさか翻訳を途中で打ち切りはしないだろう……と切に願っているのである。

・尾形勇・平勢隆郎「世界の歴史2・中華文明の誕生」,中央公論社,1998.5
 著者の「勢」の字が違うがこれしか出ない。
 中国の先史時代から古代(三国・西晋まで)を扱う。中国古代と言えばまず話題にのぼるのは司馬遷「史記」。中国史に少しでも興味があれば誰しも一度は手に取るだろうし、そうでなくても高校漢文で一度は目にすることになる。別に歴史研究のためだけでなく、単なる読み物としても十二分に面白い書物である。だが、この「史記」、注意深く読むと記事によって年代がかなりずれることがある。ある人物の列伝から割り出した年代を、別の列伝に当てはめると矛盾した結果になるのだ。そのズレの原因をつきとめ、補正した上で殷〜戦国時代をとらえなおそうというのが本書の第1部である。暦や称元法(年号の元年を数える方法)について細かな検討が加えられており、正直言って読みすすめるのにかなり努力が要るが、興味をそそられる内容である。
 そのような批判を加える一方で著者が驚いているのは、これら「史記」「春秋」などの史書が暦の誤解や正統史観から年代はずれたり(ずらされたり)するものの、基本的な事実関係については間違いや捏造がほとんど無いということである。史官たちの歴史に対する敬虔さの表れだといえる。
 第2部は中国を初めて統一した秦の発展から秦漢の統一時代、そして後漢末期から再び分裂に向かう時代の流れを概説している。こちらは従来通りの通史の形をとっていて、第1部より読むのが楽な反面、どうしても話の平坦な印象が拭えない。いい、悪いよりも好みの問題だとは思うが。

・田中芳樹「奔流」,祥伝社,1998.6
 中国南北朝時代、北朝・魏と南朝・梁の間で戦われた大会戦「鐘離の戦い」の前後を描く。西暦でいうと6世紀初頭、日本では古墳時代である。日本史に出てくる「倭の五王」より少し後のことだ。
 話の中身については…勇将の奮戦、智将の采配、ぶつかる十万の軍勢、「これぞスペクタクル」と断言してしまおう。田中芳樹節はこのテの話が一番盛り上がる。さらに彼自身が物語を楽しんでいる風が文章から伝わってきて、より精彩を増している。
 あえてあら探しをするとすれば(するなよ)、スペクタクルが印象的な分、もう一つの軸であるヒロイン祝英大の悲恋がいま一つ影の薄いように感じられてしまうことだろうか。それも僅瑕にすぎないが。
 ところで、主人公陳慶之のキャラクターだが、軍略は天才的なのに武芸がまるでダメというところといい、敵の心理を衝く作戦が得意なのに女心には鈍感というところといい、田中芳樹の代表作「銀河英雄伝説」主役、某不敗の魔術師と瓜二つである。両方読んだ人間ならまず私と同じ感想を持つことだろう。

・アンダースン&ビースン「終末のプロメテウス」(上下),ハヤカワ文庫,1998.5
 史上最大の石油流出事故に対し、石油会社は原油を分解する微生物「プロメテウス」の使用に踏み切る。しかし、散布されたプロメテウスは暴走し,原油のみならずあらゆる石油製品を分解し始めたのだった……。
 上のあらすじで分かると思うがパニック小説である。登場人物の視点を次々切り替えて話を進めていくやり方はトム・クランシーの作品を思わせる。登場人物それぞれの話が少しずつ絡み合いながら一つの舞台に収斂していところが、巧くつくられていて楽しい。中だるみもなく,上下巻を一気に読める。
 途中二回ほど、大統領教書のかたちでプロメテウスに分解されてしまう品目のリストが出てくるのがおもしろい。ガソリン、プラスチック製品はもちろん、化繊の衣服や使い捨てのオムツまで、あらためてリストアップされると、いかに多くの物が石油製品に依存しているかに驚かされる。もし日本海のナホトカ号に対しプロメテウスが使われていたら…日本の石油依存度は世界一だというから、小説以上に悲惨な状況になってしまうかもしれない。
 石油が使えない以上、当然火力発電所も壊滅する。石油に頼らずいかに電力を復活させるかが話のネックになるのだが、解説でも触れられているとおり、話では原子力にまつわる話題がついに一度も出てこない。著者が思い至らなかったということはないだろう。まあ、原子力発電所にも石油製品は使われているに違いないし、ひょっとしたら非常に重要な部品として使われているかもしれない。そうしたらプロメテウスに浸食された発電所は世界各地でメルトダウンを起こし、世界は見開き2ページで灰燼に帰す……。これでは小説にならないから、核の力は丁重に無視したのかも知れない。

・デイヴ・バリー「デイヴ・バリーの笑えるコンピュータ」,草思社,1998.6
 雑誌「翻訳の世界」に投稿課題として連載されていたときから邦訳が出るのを待っていた。中身はコンピュータに関するユーモア・コラム。それ以下であってもそれ以上ではない。とにかくバカバカしさなら一級品である。コンピュータ、インターネットに悩まされたことが多い人ほど抱腹絶倒だろう。一度読んでみることをお勧めする。二度読むことまでは勧めないが。
 ことに、冒頭近く「コンピュータの歴史」の章、MS−DOSに関するくだりは傑作だった。実は私がこれを最初に読んだのは仕事の最中だったのだが、笑いをこらえるのに相当苦労した。端で見ていた人がいたらかなり気味悪く感じたに違いない。
 しかしアメリカン・ジョークというのは単行本一冊を一気に読むと非常にくどい。いくら面白くても鼻についてしまう。「翻訳の世界」連載時は一度に一章ずつだったから感じなかったことである。

・オースン・スコット・カード「神の熱い眠り」,ハヤカワ文庫,1995.5
 読むのは確か3度目だが、話の筋を覚えていても、カードの作品充分読んで面白い。
 カード自らが「自分の最高作」と称する作品。確かに最高にいい作品ではないにしても最高に手をかけた作品ではある。最初に原型となるアイディアを思いついたのは「エンダーのゲーム」よりはるか前、彼が19歳のときだという。その後何度かのリライトを経て、この長編に至るまでにおよそ二十年かかっている。
 カードの作品のルーツとも言えるこの物語には他の作品に登場するキャラクターの原型が数多くみられる。語り手となるレアドは「帰郷を待つ星」のニャーファイらカード作品の少年主人公と似ているし、ジェイスン・ワーシングの優しさと残酷さは「死者の代弁者」エンダーを思わせる(しかし他人の不倫を暴きたがるとこまで似てなくてもよさそうなものだが)。
 キャラクターがカード印の典型である一方で、最近作でとみに顕著な宗教臭は薄い。それでも説教臭さは残るがそこはカードの持ち味ということでよしとしよう。つまり抵抗なく物語に入り込めるうえにカードの特色は損なわれていないという、非常に得な作品である。最初に読むカードとしては「エンダー」「ソングマスター」につぐもう一つの選択肢だろう。

・小野不由美「十二国記・月の影 影の海」(上下),講談社ホワイトハート文庫,
 まず、「読みたいなあ」と言ったら即シリーズ丸ごと貸してくれた「ときどき通信」の踊るらいぶらりあんさんに感謝。
 突然中華風の異世界に連れてこられた(というか、拉致された)内気な少女、陽子の彷徨と成長の物語。世界観・設定は「山海経」や「封神演義」あたりから持ってきたらしい。「緻密な構成」とか「オリジナリティあふれる展開」とか言うにはキツいが、主人公の心理描写が丁寧で好感が持てる。人間不信に陥る陽子の葛藤を、夜毎現れる妖猿とのやりとりで語るところなどは面白い。
 ちょっとオタク的な連想ゲームを。陽子のように異世界から漂着した人を「十二国」の世界では「海客」と呼んでいる。東の海から来た異邦人−−つまり「夷(えびす)」。「戎」とも書く。日本で神社にまつられているやつだ。戎神社の祭神と言えば異形ゆえ海に棄てられたイザナギとイザナミの長子、ヒルコである。ヒルコは「蛭子」だがムリヤリ「昼子」と字を当てれば主人公の名前と一脈通ずるような…。

・小野不由美「十二国記・風の海 迷宮の岸」(上下),講談社ホワイトハート文庫,1993.3
 王と麒麟とが軸になる「十二国記」の、今度は麒麟の物語。しかし前作の主人公との違いは「王」と「麒麟」の違いよりも、前作の陽子15歳、今回の泰麒10歳という年齢差からくるものが大きい。比較してみれば陽子の描き方の方が巧みだったような…。10歳の少年の心理などをリアルに書くのは難しいのだろうか。
 もう一つくさしてしまうのだが、ラストの展開がちょっと駆け足すぎる気もする。確信無しに王を選んでしまった泰麒の苦悩が解決するまでにもう1エピソード欲しかった。
 ところで前作の陽子も今度の泰麒も、蓬莱(=日本)にいるときの容貌は仮の姿で、「十二国」に来ると顔かたちが変わるという設定になっている。(挿絵によると)美形になるところからして、これは読者の変身願望に対するサービスなんだろうか。「ワタシだって十二国に行けば美人に生まれ変われるのよ!」とか。

・小野不由美「十二国記・東の海神 西の滄海」,講談社ホワイトハート文庫,1994.6
 前2作でシブいワキ役を演じている延王・尚隆と延麒・六太が主人公。陽子らの時代より400年前という設定で、外伝的な位置づけになる。前の主人公たちが内向的だったのに比べて今度のは積極指向のコンビである(多少六太の方は屈折した部分があるが…)。
 最も記憶に残るキャラクターは、敵方の斡由。彼の心性に対しことさら失望感と不快感を感じるのは、己が中にそれと同様のものを感じているせいでもあろうか。
 しかし気に入っているキャラはと聞かれれば、実は雁国重臣3人組なのである。尚隆・六太の不良君主ぶりに振り回される彼らのやりとりは、重い雰囲気の続く「十二国記」にあって最も笑えるシーンの一つである。

・小野不由美「十二国記・風の万里 黎明の空」(上下),講談社ホワイトハート文庫,1994.9
 「月の影 影の海」の直接の続編にあたる。ボリュームといい、構成といいシリーズ1の力作。景王となった陽子に加えてもう二人の主人公、祥瓊と鈴が登場。この二人、かたや没落した王族、かたや異界からの遭難者(=海客)と境遇は異なるが「自分の悲劇に酔いがち」という点で性格的に双子と言える。
 彼女らはそれぞれ景王に対し愛憎を抱きつつ、慶国への旅路に就く。途中の困難を超えて成長し、陽子を含めた三人が出会うところでクライマックス。一国の治乱を背景とした少女のビルデュング・ストーリーという点は「月の影 影の海」や後の「図南の翼」と同じだが、主人公3人のエピソードを絡めあう分、レイアウトはその2作より凝ったものとなっている。また陽子パートは彼女の王としての成長を描くと同時に「十二国」の世界観を膨らませる役割も果たしている。子供のできかたからして、全く異質な「十二国」の世界。この異質さをもっと掘り下げても面白いだろう。

・小野不由美「十二国記・図南の翼」,講談社ホワイトハート文庫,1996.2
 「十二国記」の王の即位から何となく連想するのが、なぜか芸能界だったりする。王がタレント、麒麟はプロデューサー兼マネージャー。スカウトかオーディションで王が決まるあたりも結構似ていると思うのだが。「主役が欲しいか――視聴率は低く、撮影費もないに等しい。それでもよければ、お前に番組をやる」(by東の海神 西の滄海)などと、同人誌風のパロディができそうだ。
 …馬鹿な話はたいがいにして、本の紹介の方を。シリーズ5作目の今回は、上の伝で言うならオーディションへの道中が舞台である。十二歳の少女珠晶が王を選ぶ麒麟に逢うべく、妖魔の徘徊する地「黄海」を旅する。この珠晶のキャラクターはシリーズ中随一の魅力がある。話そのものは、長さ的にダイエットの必要があるし、シリーズ前作の登場人物を出そうとするあたりで無理をしていると見た。しかし珠晶の牽引力はそういうマイナスポイントを大きく補っている。
 私の印象では「月の影〜」「風の万里〜」の陽子とこの珠晶は性格的にかなり相性が悪そうだ。「十二国記」シリーズはこの巻が最近作のようだが、この先書き継がれる事があれば、二人の共演はなかなか面白いネタになることだろう。

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