読後駄弁
1998読後駄弁3月〜4月


・「SFマガジン)」98年2月号,早川書房
 去年出た雑誌を今頃読んでいたりする。
 前月号が海外SFの特集だったのに対し、この号は国産SF。日本のSFはまだあまり数をこなしていないのでオールタイム・ベストにもなじみのない作品が多い。しかし長編のトップが小松左京に光瀬龍とくるあたり、海外オールタイム・ベストと同じく古い作品が幅をきかせているようだ。
 収録の短編は記念号だけあって豪華。古手の光瀬龍から田中芳樹、椎名誠、梶尾真治、大原まり子、森岡浩之まで多彩。しかしこう見るとハヤカワはえぬきの新人というのが非常に少ないようである。
 中では草上仁「五百光年」が面白い。テレポート能力を持つ主人公が隣国のプロポーズ相手に自分をアピールするのに能力を使おうとするのだが、困ったことに彼は500光年より長くも短くもテレポートする事ができない。そこで彼女の家から500光年距離をとるためのドタバタ道中が始まる…という話。ムチャクチャな展開と登場人物の軽妙な掛け合いが楽しい。
 森岡浩之「夜明けのテロリスト」も良。しかし「星界の紋章」と作者が同じとは思えんぞ。

・井上浩一・栗生沢猛夫「世界の歴史11・ビザンツとスラヴ」,中央公論社,1998.2
 著者がビザンツ帝国に興味を持ったきっかけは「歴史地図をめくってもめくってもビザンツ帝国がある」ことに驚いたことだという。ローマ帝国の東西分割からオスマン帝国のコンスタンチノープル攻略まで1000年以上。単純に長さだけでみれば驚異的な長命国家である。もっとも皇帝の血筋がローマ帝国から連綿と続いているわけではなく、王朝の交代は何度もある。宮廷陰謀はビザンツ名物と言ってもいい程数多い。日本の天皇家よりは中国の各王朝を想像した方が近いように思う。
 私のビザンツ帝国に対するイメージはおおむね「プライドだけは高いやられ脇役」というものであった。大学での専攻上ヨーロッパ史よりイスラム史に触れることが多かったのだが、イスラム史関係で登場するビザンツ帝国は、古代ローマの末裔という大看板の割にはどうも弱々しい。アラブやトルコの進出に領土を奪われ削られ、十字軍時代には西欧諸国に応援を頼んだあげくその応援軍に母屋を乗っ取られる始末(第4回十字軍)。最後期は「帝国」という名前にもかかわらず首都コンスタンチノープルひとつ保持するのがやっとの国だった。軍事的な強弱だけで国を評価するのは当然誤っているのだが、いったん持った印象というのは拭いがたい。
 この本ではじめてビザンツを主とした記述を読み、彼らもまわりに翻弄されていたのみではなく積極的に行動し、軍事的にも大きな成果を上げたこともあったと知った。当然と言えば当然のことなのだが、歴史を一方の側からのみ読んでいると意外に気が付かないものである。
 話は変わるがこの巻では女性の活躍が目立つ。ビザンツ帝国は中世初期には皇后を一般公募のミスコンで選んでいたらしい。国柄のせいか個性的な女性のエピソードが多い。名君ユスティニアヌスの皇后テオドラや、3人の皇帝の妻となったゾエ、超一級の歴史資料「アレクシウス皇帝伝」を書いたアンナ・コムネナなど。同じ著者の本で「ビザンツ皇妃列伝」というのがあるらしい。今度探して読んでみよう。


・妹尾河童「少年H」(上下),講談社,1996.2
 好奇心旺盛、反骨心旺盛な少年”H”の目を通してみた戦中、戦後。「特高」、「赤紙」、英語の禁止、朝鮮人への差別、ウソばかりの大本営発表、食料の配給、空襲、そして敗戦…と、この時代に特徴的なエピソードはすべて盛り込まれている。児童にも読んでもらうため漢字にすべてふりがなをうった、とあるが本当にその価値はある。
 過度に説教臭くなったり湿っぽくなったりせず、全編にユーモアを漂わせている点が性に合った。ただ面白いだけでなく、最初の方の「笑い話」が、話が進み戦争が深刻になるにつれ「笑うに笑えない話」に変わっていく点にはウソ寒い思いさえする。
 戦後の窮乏で”H”を最も追いつめたのが食糧難でも勤労奉仕でもなく、国家主義から民主主義へ手のひらを返したように宗旨がえした大人たちの態度だった、ということにちょっと感動した。共感した、と言いたい所なのだが、自分があの当時生きていたら”H”の軽蔑するような態度をとってしまっただろうから、あまり強いことは言えない。
 物語のラスト、焼け跡から復興をはじめた神戸の町を眺め「フェニックスにならなあかん」というあたり、震災で再び荒れてしまった現代の神戸へのエールが含まれているように感じた。

・田中芳樹「海嘯」,中央公論社,1997.5
 中国南宋の滅亡劇。ちょっと平家物語を連想させるところがある。最後の「崖山の戦い」で幼帝が入水するあたりはそのまま壇ノ浦。どちらかがどちらかの元ネタということは、多分ないと思うが。
 最後まで明快に宋に忠節を貫いて獄死する文天祥も立派だとは思うが、優柔不断な宰相、陳宜中の方に共感を覚えた。田中芳樹は小人物に対して容赦ない書き方をすることが多いが、この陳宜中に対してはかなり同情的なようだ。文天祥のような明快な覚悟ももてず、かといって他の同僚のように敵に寝返るほどの狡さももてない。見つかるはずのない「最善の道」を求めて右往左往したあげく、結局何事もなしえない。史書では「庸才誤国」――国を誤らせた能なし――と一刀両断されている彼だが、この小説に描かれているような苦悶を本当に感じていたかも知れない。

・宮城谷昌光「奇貨居くべし・火雲篇」,中央公論社,1998.3
 前巻が出てから間があったので最初から読み返した。次巻がでたらまた読み返さなければならないだろうか。
 登場するのは趙の藺相如(「完璧」の人)に楚の春申君、著者お気に入りの孟嘗君などなど。「性悪説」の荀子まで出てくる。さながら戦国オールスター競演である。主人公呂不葦がこれらの人物と出会い成長していく、という筋立ては、そういえば前の大長編「孟嘗君」と同じである。「孟嘗君」でも商鞅や孫子、チョイ役だが蘇秦や張儀らが登場していた。
 歴史上の人物である以上、この後呂不葦がどういう運命をたどるのかの大筋は変えようがない。それに対する意味づけ、解釈が重要な点である。前巻のときにも書いたが原典「史記」の呂不葦像はこの小説の主人公とは似ても似つかない。宮城谷昌光は彼を中国最初の民主主義者、立憲君主主義者として描くらしい。その解釈で呂不葦の行動にどんな意味を持たせるのか、楽しみである。
 追加・いま思い出したのだが、孟嘗君も「史記」ではあまりいい評価をされていなかったように思う。司馬遷に貶められた人物の再評価というねらいも「孟嘗君」「奇貨居くべし」にはあるのかも知れない。

・岩井俊二「ウォーレスの人魚」,角川書店,1997.9
 「人魚」のイメージを一変させてしまう作品。人類が進化の途上で水棲だった時期があったという「ホモ・アクアリウス説」は以前にも聞いた覚えがあるが、この作品のような扱われ方は初めてじゃないだろうか。
 作品の山場は何といっても第三章「鱗女」。かなりグロテスクなイメージが展開されるが、目を離すことができない。SF的、科学的にツッコミをいれる余地はあるのだが、そんなことは野暮の骨頂だと思わせる迫力があった。この章の衝撃があまりに大きかったので、続くラストスパートの追跡劇が気抜けした印象になってしまった程である。
 私としては人魚「鱗女」の夫となった海州化の心境について、もっとつっこんで書いて欲しかったと思う。彼の経験はあまりに人間離れしているので、書けば書くほど話がウソっぽくなってしまうかも知れないが。
 読み終わったら、カバー絵と口絵をもう一度見ることを強くお薦めする。読んではじめて、何を描いた絵なのかわかることだろう。

・瀬名秀明「ブレイン・ヴァレー」(上下),角川書店,1997.12
 気に入らない作品は「こんなのSFじゃない」と切り捨て、過去の名作は「これは実はSFとしても読める」と引き入れてしまうのは、ファンの悪い癖である。しかしこの作品についてはそういう偏見を抜きにしてもSFだとしか思えない。「SF」と銘打って宣伝しているのを見たことがないが。
 少なくとも下巻の途中当たりまでは脳についてのハードSF、と言ってさしつかえないだろう。主人公がUFO体験や臨死体験を脳内化学物質の分泌と関連づけて解明する辺りは非常に面白かった。さまざまな化学物質の名前を並べ立てられ幻惑されているのかもしれないが、実際にも主人公の言ったとおりのことが脳で起こっているのかも知れない、とまで思わせてくれる。現役の科学者でもある著者の面目躍如といったところか。
 もっともクライマックスではそれまでのハードな設定を置き捨て、イメージだけが突っ走りすぎているように感じた。(そういえば彼の前作「パラサイト・イヴ」のラストも同様だったような…)

・栗本薫「グイン・サーガ外伝13・鬼面の塔」,ハヤカワ文庫,1998.3
 外伝のこのシリーズ、4冊目。何となく「つなぎ」の感あり。で次巻ぐらいでクライマックスを迎えて欲しいものである。内容は…この巻だけ取り上げて特にどう、とは言いにくい。それほど話が進まないので。
 かといって、読み飛ばせるものでもない。ここ最近の2、3巻では、これから先物語が大筋でどう展開するかをほのめかす部分が多い。展開の遅い巻でも、要所に読める(読む必要のある)ポイントを作っておく辺りがテクニックというものなのだろうか。

・R・A・ラファティ「つぎの岩につづく」,角川書店,1996.10
 SFというよりもホラ話、といったノリの短編集。ブラックユーモア多し。外国のユーモアは感覚が違って時々訳が分からないことがある。とくにブラックユーモアは相手を選ぶ。この短編集でも、私にとって面白かったものが3分の1、趣味に合わないものやどこを面白がっていいのか分からないものが残り半分ずつ、という割合だった。なお、以前に読んだ同著者の短編集「九百人のお婆さん」よりは私的ヒット率は高い。
 この手の作品は内容についてしゃべるとネタばらしなってしまう。自分の好みを挙げるだけにしておこう。冒頭の「レインバード」が私は一番気に入っている。過去の自分にもっと効率的な人生を歩ませようとタイムマシンで会いに行く老人の話。作品中最も素直に笑える。他には「金の斑入りの目をもつ男」「アロイス」あたりが良。「ブリキ缶に乗って」もブラック系では好きな方である。
 表題作「つぎの岩につづく」はユーモアのポイントが分かりづらい。私の理解不足か。「むかしアラネアで」は、ポイントは分かるが悪趣味。あまり自分になぞらえて想像したくない話である。

・リシュアン・ケーレン編「遥かなるサマルカンド」,原書房,1998.2
 15世紀初め、スペインから中央アジアのサマルカンドまで外交使節として赴いたクラヴィーホの旅行記。ときのカスティリア王に提出するためのものなので「旅行記」というよりも「報告書」と言った方がいいかも知れない。
 当時、ヨーロッパとアジアの境界に位置するビザンツ帝国を脅かしていたのが勃興期にあったオスマン・トルコだった。それををアンカラの戦いで一時は滅亡寸前に追い込んだのが、中央アジアの覇者ティムールである。「敵の敵は味方」ということでヨーロッパ諸国とティムールの間でクラヴィーホのような使節の往来がはじまったのだが、ヨーロッパにしてみれば相手は救世主である反面、不気味な存在でもあったろう。クラヴィーホも友好使節の体裁を取る一方でティムール帝国とその軍事力にかんする偵察任務も帯びていたらしく、途中の城塞や治安、ティムールの支配体制などに関する記述も多い。特に駅馬を用いた情報伝達網「ヤムチ」については詳しく述べられている。
 スペインからサマルカンドまで往復3年近くの旅。途中、黒海では嵐に遭い九死に一生を得、砂漠の横断中に疲労と日射病で倒れ、帰路は帰路でティムール死後の後継者争いに巻き込まれてイランで足止めを食らう、と非常に波乱の多い旅行である。文章では個人的な心情や感想はなく、事実関係が淡々と語られているだけだが、実際どんな思いでこの任務を乗り切ったのだろうか。

・梶尾真治「地球はプレインヨーグルト」,ハヤカワ文庫,1979.5
 「ちほう・の・じだい」を読んでからちょっと凝りだした梶尾真治の、第一作品集。デビュー作「美亜へ贈る真珠」から名作との誉れ高い表題作まで、7篇が収録されている。この頃から叙情とユーモアの二本立てで書いていたようだ。
 収録作品のうち、前者では「さびしい奇術師」が最も気に入った。短いながら、老いた超能力者の哀愁が漂っていていい雰囲気である。後者のユーモア、ドタバタもの中では、やはり表題作「地球はプレインヨーグルト」がアイデア、ストーリーともに群を抜いている。オチはややブラックだが、この人の作品らしく嫌みがないので、ブラックユーモアが嫌いな人でも気にならないだろう。

・ゴードン・R・ディクスン「こちら異星人対策局」,ハヤカワ文庫,1998.3
 ディクスンといえば大作シリーズ<ドルセイ>の著者なのだが、私にとっては、彼はコメディSF<ホーカ>シリーズの原作者其の壱(ポール・アンダースンとの共著)である。<ドルセイ>ものはあまり書店に並んでいるのを見たことがないので、ディクスン=<ホーカ>の連想が働くのは別に私だけではないだろう……<ドルセイ>を思いつく人の方が変わっているとさえ言えるかもしれない。
 で、この「こちら異星人対策局」も<ホーカ>ものと似た展開のコメディSFである。宇宙連邦を構成する優れた異星人に対し地球人の能力と価値を認めてもらうため、地球人大使の主人公夫妻が知恵と勇気で(あるいは、ハッタリと舌先三寸で)難題に立ち向かう、というもの。ありきたりな設定だが、それだけに楽しみやすい。
 しかし残念なことに、<ホーカ>に比べると全体にキャラクターの印象が薄い。主人公二人組の性格にもっとクセがあってもよかった。異星人にしても同様。<ホーカ>シリーズのホーカ人を基準にするといまひとつインパクトに欠ける。
 ただ、<ホーカ>ものは地球文化の真似をしたがるホーカ人が引き起こす珍騒動の話なので、ホーカによってパロディ化された元ネタ(西部劇とかフランス外人部隊とか「ジャングル・ブック」とか)を知っていないと今一つ笑いのポイントが分からない。その点「こちら異星人対策局」はそんな予備知識抜きで楽しめる。気軽さから見れば「こちら〜」に分があるようだ。
 それにしても、<ホーカ>にしろ「こちら〜」にしろ、悪玉宇宙人はきまって触手持ちか爬虫類型かムシ型、あるいはサメ型である。たまには愛くるしいヌイグルミ型の凶悪異星人や、気のいいトカゲ型宇宙人が出てきてもいい。…とはいえ、このタイプのSFはあえてステロタイプに徹する方にこそ意味がある、とも思う。

・ロバート・A・ハインライン「宇宙の戦士」,ハヤカワ文庫,1979.9
 右翼だ、ファシズムだといろいろ言われている作品。話のタネに読んでみた。映画化もされることだし。
 確かに問題発言が多く出てくる。「暴力は、歴史上、他の何よりもまして、より多くの事件を解決している。その反対意見は希望的観測にすぎぬ」とか「最も崇高な運命は、愛する祖国と戦争とのあいだに、その身命を投げ出すことなのだ」とか。物語でそれをほのめかすのではなく、登場人物のセリフとして直接出てくるのでどぎつさが増す。しかし、時代錯誤的な発言だ。現在から見てそうなのは当然だが、日本での初出、1966年でも間違いなく、原書の初出1959年でもひょっとしたら、時代遅れだったのではなかろうか。
 もっとも、とるところなし、とポイ捨てするのも早計か。青少年の教育について、幼時から(体罰を含めた)厳格な道徳教育を行えば非行を防げる、人権などの名目で甘やかすな、と言っている部分がある。単純素朴な見解だが、悪質な少年犯罪が頻発し喧伝されるこのごろだから、これに賛成の人も結構多いのではないかと思う。私も、ハインラインが言っていることを100倍程度に薄めた状態でなら賛成である。親にもなっていない私が言うことではないが、最近の親は本当に子供のしつけがなっていない(図書館で子供をキャーキャー遊ばせるんやない!!)。
 巻末に、この作品に対するSFマガジン読者などからの反響が収録されてある。ムチャクチャな意見もあってけっこう面白い。中に「帝国主義の御用文学だろうと何であろうと、良いものは良い、悪いものは悪い。…問題はそれを読んでアピールするものがあるかないかだ」という意見があり、私も同感。で、この「宇宙の戦士」が良いか悪いかというと……、主義主張をとっぱずしてエンターテイメントとして見た場合、すごくいい作品、とは思えなかった。登場人物の性格設定などは平板、物語展開は可も不可もなし。機動歩兵を中心とするメカニックの描写については悪くないが、発表当時ならともかく今読むにはさして斬新でもない。
 今度映画化されたものは題名こそ「Starship Troopers」だが、内容は原作とかなり違うものになっているらしい。それで正解だろう。…それにしても「インデペンデンス・デイ」からこっち、アメリカのSF映画はかなりアブない方向に突っ走っているような気がしてしょうがないのだが。

・五十嵐武士・福井憲彦「世界の歴史21・アメリカとフランスの革命」,中央公論社,1998.3
 西欧が誇りとする二つの革命、アメリカ独立革命とフランス革命がテーマ。
 第一部。アメリカ入植から1812年の米英戦争までの通史。元祖「インデペンデンス・デイ」である(いや、攻めてくるのはタコじゃなくてイギリスなのだが)。独立戦争そのものより、独立後経済的に逼迫する合衆国の悪戦苦闘の方が興味深い。状況如何によっては、南北戦争を待つことなしにアメリカは分裂していたかも知れない。アメリカ人には悪いが、そうなったらそうなったでとても面白い展開になったと思う。
 第二部がフランス革命。1789年夏、アンヴァリッド(廃兵院)にパリ民衆が押し寄せるシーンから始め、1840年、セントヘレナから戻ったナポレオンの遺体がそこに葬られるシーンでしめている。なかなか味な構成だ。
 著者の書き方の違いかも知れないが、アメリカ独立戦争に比べると、フランス革命は混沌とした印象が深い。アメリカの方ではワシントンやジェファーソン、フランクリンなど、とにかくキーマンがはっきりしていて、彼らが事態をある程度は把握し、動かしている…少なくとも、そう見える。フランス革命にはそういった核が見えにくい。民衆のうねりというか、エネルギーというか、とにかく一個人には帰せない巨大な何かが事態を動かしているように感じた。ラファイエットやロベスピエールら、革命に登場する個人はそんなうねりに呑まれるか、せいぜいうまくやってそれを利用するにとどまっている。
 そんな状況がいいことなのか、悪いことなのかは分からない。民主的、と賛美することもできるが、同時に革命のマイナス面――暴動、粛正、内乱――を助長、過激化させた面も多い。一概に礼賛はできない。

・阿刀田高「新トロイア物語」,講談社文庫,1997.12
 「木馬」のエピソードやシュリーマンの発掘で有名なトロイア戦争が題材。トロイアの若き将軍でローマの伝説上の祖、アイネイアスが主人公。したがって主にトロイア側からの視点で物語は展開する。ギリシア側のアガメムノン、オデュッセウスなどはかなりあくどい人物として描かれている。
 有名なホメロスの「イリアス」「オデュッセイア」はトロイア戦争を人間に対する神の怒りとした。登場人物たちは神々の意志に踊らされるのみの存在で、現代の読者にとっては納得しがたい部分も多い(…んだそうだ。私自身は不勉強で原典を読んでいない)。その点この「新トロイア物語」では合理化がされていて、ちゃんと人間の物語になっている。有名な木馬のエピソードも理屈に合わないということでかなり改変されている。さきに原典を読んだ人にとっては文句があるかも知れないが、こちらの方が素直に読めて楽しい。

・栗本薫「グインサーガ60・ガルムの報酬」,ハヤカワ文庫,1998.4
 いやあ、彼もついに死んだか(未読の人、ごめんなさい)。主要登場人物が悲惨な状況に追い込まれる割には、死んでしまう奴が少ないグインサーガだったのだが、とうとう脱落者が出た。ま、絶対そのうち殺されるだろうとは思っていたのだが。古い巻を見てみると彼の初登場は19巻目(ちなみに1984年刊)だった。享巻41冊。出てきた当初は多少の愛嬌もないではないキャラクターだったのだが、話が進むにつれ、性格、容貌ともグロテスクな部分だけが拡大されてしまった。不幸といえば不幸なキャラクターだと思う。
 …知らん人には全く意味不明の文だな。私の文章を見てこの60巻から読もうなどという人はいないから別にいいだろうが。

・清水義範・西原理恵子(え)「おもしろくても理科」,講談社文庫,1998.3
 科学エッセイといえばアシモフのシリーズを読破したことがあるが、これはその清水義範版。彼もアシモフの科学エッセイを読んだことあるに違いない。人口問題とか、似たテーマがちょくちょく出てくる。
 清水自身がSF畑の出身であるせいか、科学に対するスタンスは非常に共感できる。
 西原理恵子のイラストは時々無いようと全然関係ないことがあるが、それでも…いやそうである方が笑える(とくに直木賞ネタ)。

・宮崎市定「科挙〜中国の試験地獄〜」,(「宮崎市定全集」15,岩波書店),1993.1
 隋唐以後の中国史をかじれば必ず登場する「科挙」。高校世界史の教科書か資料集には必ず例の「論語びっしりカンニングシャツ」が登場する。この本では科挙の最終形態である清朝の制度を例にとって、試験の様子を細かく解説している。
 科挙は宋代には「郷試」「会試」「殿試」の三段階だったのが、不正防止や受験者数の制限などの理由で屋上に屋を重ねるように試験が増え、清代には十段階も試験を積み重ねるようになってしまう。なんか自分の高校時代を思い出してしまった。ちょっとした進学校だった私の母校では、大学入試のために数多くの模試を受けさせ、さらに好成績を出すためにプレテストなる模試の過去問題を3年分はさせらせる。緊迫感や人生への影響などはくらぶべくもないが。
 科挙に及第すれば高級官僚への道が開け、自分のみか一族の安泰が保証される。東大法科の入試と卒論と修論、さらに司法試験と国家一種採用試験を足したよりもはるかに報酬は大きく、その分競争も激しい試験である。及第したら言うことなしだが、人生を棒に振ってしまうことも珍しくなかった。この本では科挙にまつわる幽霊話も多く紹介されているが、その数多さが科挙に人生を狂わされた人間の多いことをそのまま示している。

・草上仁「こちらITT」,ハヤカワ文庫,1987.8
 「SFマガジン」500号でいい味だしていた草上仁の短編集。短編SFの基本ともいうべきアイディア重視の話が集められている。泣ける話や魅力的なキャラクターもいいが、SF、とくに短編SFは、「突飛な発想・意外な展開」が古典以来大きな醍醐味である。
 収録作品はどれも軽く楽しめるが、一番良かったのは表題作「こちらITT」。ITT=国際テレフォン・アンド・テレポーテーション九四局の、苦情処理のやりとりだけを描いたごく短い話である。ITTというのがどういう組織でどういう仕事をしているのか説明する文章はいっさい無い。必要ないのである。そういうことは1、2ページ読めば自然に察せられるし、くだくだしい説明はかえって話のリズムを損なう。気軽なようで、実はけっこう技ありの一品だと思うのである。

・アラン・パーマー「オスマン帝国衰亡史」,中央公論社,1998.3
 16世紀までは強盛を誇ったオスマン帝国が、それ以後いかにして衰退していったかを論じる。こういう一般読者も視野に入れたオスマン帝国史は珍しいので、迷わず買った。
 前にも書いたが私自身はオスマン帝国がもっとも栄えた時代と、その理由の一つであるイェニチェリ軍団が学生時代の守備範囲だった。そのせいか、その帝国が衰えていく様をみるのはちょっとさびしい気がする。しかも帝国の近代化に反対したイェニチェリ軍団が衰退の一因となったというのであればなおさらである。しかし、上り調子だったときに長所・利点であったことが、下り坂になるとそのまま短所・欠点に変わるというのは、結構普遍的なことなのかもしれない。
 末期のオスマン帝国は各地方で反乱や独立運動が続出し、財政は破綻状態、ただ西欧列強のパワーバランスを利用するのみでその命脈を保とうとする。こんな国のトップには、たとえ豪勢な生活が許されるとしてもなりたくないものだ。あるスルタン(皇帝)などは即位して3ヶ月もたたないうちにストレスで心神喪失に陥ったそうである。その跡を継いだスルタンは20年以上その地位を保ったものの、絶えずクーデターと暗殺の恐怖に脅えて過ごさねばならなかった。こうなると世襲というのは恩恵ではなく呪いである。君主制というのは被支配者とってもだが、為政者にとっても酷な体制であるようだ。

・大原まり子「銀河ネットワークで歌を歌ったクジラ」,ハヤカワ文庫,1984.4
 青春まっただ中の表題作のほかオカルトや精神分析ものなど短編6つ。どの作品も基本的にセンチメンタルな話である。あまりSF臭くないものが主なので、特にその向きの人でなくても楽しめるだろう。が、SF好きでもなければハヤカワのJAを手に取る可能性は、多分少ない。もったいないことである。
 気に入ったのは表題作の他に「高橋家、翔ぶ」。描かれる登場人物や彼らの家などはかなりとぼけていて(何せアダムスキー型円盤とくる)ドタバタものを思わせるのだが、語られる内容は意外と重い。落差がかえって魅力になっている。

・岸本美緒・宮嶋博史「世界の歴史12・明清と李朝の時代」,中央公論社,1998.4
 扱う時代は…って、まあタイトルの通りである。日本でいうと南北朝時代から幕末の安政の大獄あたりまでになる。一口に明清というとあまり感じないが、あらためて考えるとやたらに長いタイムスパンである。
 それだけ長い期間だと当然平和な時期があれば動乱の時期もあるわけで。王朝という看板が変わっていないので起伏の少ない時代かと錯覚してしまうが、実のところ政治的にも経済的にも動きの多い時代だった。一番興味を引かれるのは15、16世紀。日本では戦国時代、中国では明の末期清の初期にあたる。ちょうど同じ頃が西欧では大航海時代にあたるが、アジアでも海を越えての交流が盛んな時期である。中国史や朝鮮史でも日本や琉球がちょくちょく顔を出す。もっとも倭寇だったり秀吉の朝鮮出兵だったり、日本はあまりいい登場の仕方はしないのだが。
 ちょっと思い出したのだが、司馬遼太郎の「新史太閤記」で羽柴秀吉が信長に「殿が日本を統一したら自分は軍勢を借りて朝鮮、明に攻め込み、朝鮮を領地にもらいたい」と言うシーンがある。月や星に領地が欲しいというようなものだ、と司馬遼太郎は書いているのだが、ひょっとしたらそうでもなかったのでは、と私は思うのである。この「明清と〜」で見る限り、当時の日本−明・朝鮮の交流は結構盛んだ。日中朝だけでなく、琉球や東南アジアまで含めた一大商業圏が形成されている。秀吉の発言は大ボラには違いないにしても、月や星、というほどには非現実的ではなかったかもしれない。
 で、その秀吉の朝鮮出兵だが、朝鮮史では「壬辰・丁酉倭乱」と呼ばれる。日本で加藤清正がもてはやされるように、朝鮮側でもこの戦争の英雄はいるわけである。亀甲船を駆る水軍の李舜臣や「紅衣将軍」郭再祐、僧侶ながら義勇軍を指揮した西山大師などに人気があるらしい。日本の歴史・時代小説で朝鮮出兵のシーンが出ても彼らが登場するのは見たことがない。かろうじて李舜臣ぐらいか。私もこの本で初めて名前を知ったぐらいだから(と言うと口幅ったいが)、日本では知名度ごく低いだろう。隣国の、しかも日本が直接関わった戦争の登場人物なのだから、ちょっとは知っておきたいものだ。朝鮮側からみた彼らの話というのにも興味はあるが、そこで日本がどう書かれているかを想像すると、読みたいような読まない方がいいような、複雑な気分である。

先頭に戻る
98年1月〜2月の駄弁を読む 98年5月〜の駄弁を読む
タイトルインデックスに戻る ALL F&SF 歴史・歴史小説 その他