読後駄弁
1998読後駄弁1月〜2月


・トム・クランシー「合衆国崩壊」(3・4),新潮文庫,1998.1
 開発費用の廉価さと効果の大きさから「貧者の核爆弾」とも呼ばれる化学兵器・生物兵器。それがもしアメリカで使われたらどうなるか…。イラクで国連査察団のアメリカ人が入国拒否されたことはまだ記憶に新しく、その点でもこの「合衆国崩壊」はタイムリーだった。
 このシリーズでおなじみの、場面を小刻みに移し、専門知識もまじえながら話を展開させていくやり方は相変わらず効果的で、長い話でも緊張感が持続しやすい(それに途中の中断が多くても話についていきやすい。)。軍事スリラーやシミュレーション小説が好きな人ならまず読んで損はない。ただ、シリーズものなのでいきなりこの「合衆国崩壊」から読む人は少ないだろう。前の話を下敷きにしている点も多いし、主人公以外のバイプレイヤーもシリーズを通して登場しているので最初から読むのと読まないのとでは感情移入度が段違いである。
 生物兵器によるテロという「外患」とは別に、主人公ライアン大統領に課せられた問題がアメリカ政府再建という「内憂」。政治家としてのキャリアのない彼は閣僚にも政治家でない人物を次々と登用、ドラスティックな改革を始める。しかしロビイストやマスコミの反感を買い、ライアン自身の失言もあって出発早々政権は窮地に陥ってしまう。某首相の言葉を借りるなら行政改革でヒダルマになってしまうわけである。「政治家の手によらない政治」を目指すライアンを私も応援したくなるのだが、しかし彼が目指すアメリカ像というのには文句がある。著者のトム・クランシー自身のスタンスなのだろうが、保守主義の理想を地でいくような内容なのである。だいたい冒頭の献辞でこの本はレーガン元大統領に捧げられている。彼は「強いアメリカ」の再現をうたった大統領だった。ストーリーが面白いぶん、そこで語られている政治的意見にまで納得させられてしまうそうで少し怖い。そういった点は「プラトーン」のオリバー・ストーン監督もN.Yタイムズの書評で批判しているらしい。
 ラストについてもちょっと言いたいことはあるのだがネタばれは避けたいところだし、私が書いたことによって読もうと思っていたのをやめてしまうのでは勿体ないから止すことにする。繰り返しになるが、話は非常に面白いのである、著者の信条に文句があっても。

・木村靖二・柴宜弘・長沼秀世「世界の歴史26・世界大戦と現代文化の開幕」,中央公論社,1997.12
 第一次世界大戦と、その後第二次世界大戦が始まるまでの戦間期が取り上げられている。第一次世界大戦はそのあとの大戦に比べると日本では印象が薄いが、現代の政治とか社会はこのころに端を発するものが結構多い。(この間つぶれたが)ソ連ができたのは第一次大戦直後だし、アメリカが孤立主義から抜け出しはじめたのもこのころである。そういえば中東問題も戦争を有利に進めるためにイギリスがあざとい外交をやったのが原因の一つになっていたはずだ。
 それに国が福祉政策に力を入れはじめたことにも戦争がからんでいるらしい。前線に大量動員された兵士の士気を維持し、後顧の憂いをなくさせるというのが福祉政策の目的の一つだったということである。戦争のプラス面、とは思わない。そういう利益誘導がなければ結局国は動かないのだ、とは思う。
 この巻ではアメリカ、ソ連、ドイツを中心に論述が展開されているが、同時に東欧の情勢についても多く紙面がさかれている。ポーランド、チェコスロバキア、ユーゴスラヴィアなどは高校世界史では西欧史の補足程度にしか扱われないが、第一次大戦のきっかけがセルビアでのオーストリア皇太子暗殺事件なのは有名なことだし、第二次大戦はドイツのポーランド侵攻から幕を開ける。もっと地域の歴史を正面から扱うこともあっていいだろう。
 もっとも、高校世界史でこれ以上暗記のタネを増やされることがいかにツラいかは身をもって知っている。だから世界史科は各時代・地域を公平に扱え、とは正論ではあるのだが、歴史好きでもない高校生たちには余計なお世話なのかもしれない。それをやるなら暗記中心の授業そのものから変更しなければならないだろう。

・連城三紀彦「暗色コメディ」,新潮文庫,1985.6
 精神病患者の妄想をトリックに利用したミステリー。狂気がトリックのタネであると同時に、そのトリックから読者の目をくらますという二重の役割を果たしている。利用される患者たちの狂気の描写がよかった。よかった、というのはこの場合恐かった、ということなのだが。ある日突然自分の妻がニセモノであることに気づいた(という妄想にとらわれた)男の描写がとくに真に迫っている。

・栗本薫「グイン・サーガ外伝12・魔王の国の戦士」,ハヤカワ文庫,1997.12
 「外伝」とはいうが主人公はタイトルネームのグインその人だし、内容も本編に深く関わる…どころか読んでないと本編で話がつながらなくなってしまうものである。複線になった本編の一部と考えた方がいいだろう。グインサーガの「外伝」は半分以上これと同じような「複式本伝」である。話の感触からしてそろそろこの章もクライマックスが近そうだから…あと3冊以内には一区切りつくんじゃないだろうか。
 それにしても、話があまり展開しなくても美少年はきっちり登場させる。その向きの女性ファン(その向きの男性ファンもいるんだろうか)へのサービスが行き届いているな。

・スティーヴン・グールド「ジャンパー 跳ぶ少年」(上下),ハヤカワ文庫,1997.10
 今年のSF読み初め。突然テレポート能力が使えるようになった少年の冒険物語。ハリウッド映画のような展開でテンポよく読める。テレポーテーションの科学的側面(落下しながらテレポートしたとき、運動エネルギーどうなるのか、とか)などは意識したうえで棚上げし、あくまでエンターテイメントに徹している。ストーリーはややお約束通りの展開ながら楽しいし、ハッピーエンドなので読後感も悪くない。ただ個人的にはちょっと話がウマすぎるという気もする。
 本当に映画化されたら主人公は「バック・トゥ・ザ・フューチャー」をやっていた頃のマイケル・J・フォックスあたりだろうな、と思っていると、解説でも「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を連想させると書いていた。多分同じように感じる人は多いだろう。

・スティーヴン・ジェイ・グールド「ニワトリの歯」(上下),ハヤカワ文庫,1997.11
 進化論を中心とした科学エッセイ集。著者のグールドは「利己的な遺伝子」のドーキンスと並んで有名な進化論学者・科学解説家。なお、上の「ジャンパー」の著者とは同姓同名の別人なので、念のため。
 これを読む前に朝日の科学雑誌「SCIaS」で進化論の特集「進化論だって進化する」をやっていたので予習がてら読む。進化論を巡っての好敵手同士である、ドーキンスとグールドの論点の違いなどがまとめられていた。
 ドーキンスはさきにも書いたように「利己的な遺伝子」の著者として有名。進化の動因となる自然淘汰の力を最大限に評価する。魚竜、魚、イルカは異なった祖先を持ちながら水中生活に適応して似たような体型に進化した。自然淘汰はこれほど大きな威力を持っているのだ、と。またその進化は最小単位の遺伝子レベルでのみ作用すると主張する。基本的に進化論の祖ダーウィンの説に忠実で、「ダーウィンの猟犬」というあだ名もあるそうだ。
 一方、グールドは自然淘汰は万能ではないと主張。車輪は運動効率の高さから生存上有利なはずなのに、自然界で車輪を発達させた動物はいない。祖先からの遺伝的な制限も進化に大きく影響を与える、というわけである。自然淘汰の力を小さく見積もっているからといってダーウィン説を否定しているわけではなく、それを拡大・補完するという姿勢である。この「ニワトリの歯」でもそういうグールドの持論が随所に登場する。表題の元になっている「ニワトリの歯とウマの指」や「車輪なき王国」「遺伝子が利己的にふるまったら体はどうなるか」はその辺りがテーマだった。
 進化論内部の論争より外にも話題は多い。分類学や地質学の草分けとなった初期の科学者たちについてとりあげたり、ダーウィン最後の著作「ミミズの作用による腐植土の形成、およびその習性の観察」が、一見些末な話題のようで実はいかに深遠な主題を潜めているかを解説したりしている。とくにこの「ミミズの一世紀と常世」はグールドのダーウィンに対する思い入れが伝わってくるようで面白い。
 進化論そのものを否定する聖書主義者、創造論者に対する反論にも多くの紙面がさかれている。「聖書の創造論を否定する説を学校で教えてはいけない」という州法に違反した教師が訴えられた「スコープス裁判」についてのエッセイなど。このエッセイが書かれたのは1983年だが、そんな最近になっても彼のような科学者が真剣になって「すべては神様が創った」などという説に反駁しなくてはならないとは、キリスト教の影響の少ない日本ではちょっと考えられないことである。もっとも、別に日本人がその手の偏見・誤解から自由なのではなく、科学的な話題そのものに無関心なだけかもしれない。だとすれば私たちに創造論者を嗤う資格はない。

・栗本薫「グイン・サーガ59・覇王の道」,ハヤカワ文庫,1998.1
 いつものことながら執筆の早さは猛スピード、物語の展開はロースピード。今回、1冊の3分の1はヴァレリウスのグチとイシュトヴァーンのモノローグだったような気がするのだが。などと文句をたれながら刊行されたらすぐ買って、先に買った本を後回しにしても読んでいるのは自分である。展開の遅さが気になるのも先を期待していればこそである。
 ところで次巻あたり、おそらく主要登場人物中人気ワースト1の彼が殺されてしまうのではなかろうか。そうなれば次はちょっとしたターニングポイントである。もっともあれのことだから、しぶとく生きのびるかもしれないし、栗本薫のことだから2、3巻引きのばすかも知れないが。

・マリオン・ジマー・ブラッドリー「ダーコーヴァ年代記・炎の神シャーラ」,創元SF文庫,1987.1
 このシリーズ、読むのは3冊目。科学と魔法の混在するダーコーヴァの舞台設定はシリーズなだけあって結構魅力的。このエピソードで主人公がおかれる境遇も面白い。しかしその舞台で活躍する登場人物の心理があっさりしすぎるように感じる。悪く言えば、深みに欠ける。たとえば主人公は物語のかなりの部分を他人に操られて行動し、途中で回復するのだが、割と抵抗なくその後の展開について行ってしまう。その方が物語の展開を気軽に楽しめるのは確かだが、屈折した登場人物の多い小説を読みつけていると、どうも食い足りなく思ってしまうのである。
 このシリーズは舞台のダーコーヴァが共通項で、時代や登場人物は巻によって異なるのだが、この巻では「はるかなる地球帝国」の主人公ラリー・モントレーのその後の姿が見られる。ちょっとしたファンサービス。

・ジョー・ホールドマン「終りなき戦い」,ハヤカワ文庫,1985.10
 ヒューゴー賞の戦争SF。戦争ものといっても、主人公の英雄的活躍はない。緻密な戦略戦術もない。愛国的熱狂などかけらもない。ただ戦いに赴き、あるいは死に、あるいは生き残る兵士の姿を、ちょっとシニカルさも交えながら描いている。カバーのアオり文句にはハインライン「宇宙の戦士」に勝るとも劣らない、という書き方がされているが「宇宙の戦士」とは話の傾向が全く違う…らしい。私はまだ「宇宙の戦士」を読んでいないからどうとも言えないのだが、見聞きした限りの「宇宙の戦士」評からすると、確かに違う。あっちは基本的に戦争や軍隊を肯定し、賛美さえ感じられるということだ。物語の優劣以前にコンセプトが異なっている。
 私はこの「終りなき戦い」について「70年代版『宇宙の戦士』」というよりは「SF版『プラトーン』」といった方が当たっていると思うのだが、どうだろうか。ベトナム戦争を彷彿とさせる部分も多い。
 全体に陰のさしたイメージの話だが、ラストでちょっと救われる。テーマを徹底させるなら下手なハッピーエンドを作らないほうがいいのだが、この場合は成功していると思う。正直私はホッとした。

・陳舜臣「インド三国志」,講談社文庫,1998.1
 舞台は17世紀のインド。「三国」はムガル帝国、マラーター王国、イギリス東インド会社である。ときのムガル帝国皇帝はアウラングゼーブ。高校世界史ではムガル帝国の領土が最大となった時代の皇帝であると教わる。つまりはそれ以上大きくならなかったわけで、彼の治世以降、帝国は衰退に向かう。この小説ではその原因は彼の宗教的厳格さにあった、としている。
 物語はこのアウラングゼーブと、敵対するマラーター族の王シヴァージーを中心に展開する。剽悍な傭兵集団マラーター族を率いて戦うシヴァージーは非常に魅力的に描かれている。
 話が中途半端なままで終わってしまっているのは残念だ。シヴァージーが病死し、アウラングゼーブが謀反を起こした息子アクバルを破るまでが書かれているのだが、これは元祖「三国志」で言えば董卓が呂布に殺されたぐらいに当たるらしい。つまりまだ序盤である。これからムガル帝国が衰退しイギリス東インド会社が支配の手を拡げるという展開になるのだが、そこまでは筆がまだ及んでいないらしい。この「インド三国志」の初刊行は1984年。その続きがまだ出ていないとなると、これから出る可能性は低いんじゃないだろうか。完成すれば「阿片戦争」「太平天国」なみの大作になると思うのだが。

・田中芳樹「長江落日賦」,徳間ノベルズ,1996.5
 中国歴史物の短編集。どれも日本ではあまり紹介されていない時代を舞台にしており、それだけでも好きな人にとっては一読の価値がある。「三国志以外でも中国史は面白い」とは田中芳樹がくり返し主張する所である。収録作品のうち「白日、斜めなり」は三国志の時代が舞台。しかし主人公を劉備でも曹操でも諸葛亮でもなく、蜀に亡命した魏の皇族、夏侯覇にするあたりがいかにも田中芳樹らしい。
 この「白日、斜めなり」と表題作の「長江落日賦」がとくに面白かった。後者は南北朝梁の「侯景の乱」を扱っている。この時代も小説の舞台として申し分ない。

・田中芳樹「夏の魔術」「窓辺には夜の歌」「白い迷宮」,徳間ノベルズ,1988-1994
 図書館に3冊まとめて置いてあったので、つい手に取った。この年になって読むもんでもないかとは思ったのだが、疲れているときには甘い物が食べたくなるものである。
 とある無人駅で出会った大学生耕平と12歳の孤児来夢。二人が乗った列車はなぜか駅には止まらず、どことも知れぬ場所で乗客たちを降ろして去る。そしてたどり着いた洋館で起こる怪奇現象。ちらつく異端キリスト教「オフィート」の影。鍵を握る少女来夢の、出生にまつわる秘密とは…。という具合に道具立てはやや古くさいホラー。ただし全然恐くない。主人公が陽性かつ前向きなせいもあるが、それ以前に根本的に田中芳樹節はホラーと合わない。もっともホラーが読みたくてこの人の本を買う人はいないだろうし、書いてる方もホラー小説のつもりはないのだろうが。
 主人公のペアを偶然であった19歳と12歳に設定したところがミソ。このシリーズで中心となるのはこの二人の純粋無垢な信頼関係である(…書いててちょっと恥ずかしいが)。もし二人の年齢差がもっと少なかったり兄妹だったりしたら、恋愛だとか血縁だとか、彼らの関係に「理由」ができてしまう。そんな「理由」によらない信頼関係、現実にはちょっと無さそうな関係だからこそ純粋さが引き立ち、読んで心地よいというものである(やっぱり書いてて恥ずかしいが)。だから二人が将来どうなるかなど、考えるのは蛇足。
 なお3作のうちでは、やはり最初の「夏の魔術」が良。後続2作も悪くはないが「続編」の域をでない。

・永田雄三・羽田正「世界の歴史15・成熟のイスラーム社会」,中央公論社,1998.1
 「世界の歴史」も15冊目。これでちょうど半分である。今回は15〜17世紀を中心とするイスラーム世界、オスマン帝国とサファヴィー朝。オスマン帝国は私の大学時代の専攻で、今でも関心が深い。
 私がやっていたのは軍制史、その名も高い(んですよ)イェニチェリ軍団についてだったが、この本では軍事、政治関係の記述は少なめにして、文化、風俗に多く紙面をさいている。オスマン帝国の首都イスタンブール市街の様子や祝祭の情景など。現代も残る建築物や当時を伝えるミニアチュールなどビジュアル面も、サイズは小さいが数多く掲載されている。この世界史シリーズはオールカラーなので、そういう絵や写真を見ているだけで結構楽しい。私は以前一度はイスタンブールに行ってみたいと思っていたのだが、しばらくおさまっていた熱をまたかき立てられた。ああ、無理しても学生時代に行っておくべきだった…。
 第2部で扱われているのがサファヴィー朝。現在のイランとアフガン、あとグルジアとかアゼルバイジャンとかアルメニアなどにまたがる版図をもっていた国家である。同じイスラム国家でもオスマン朝がスンナ派だったのに対しサファヴィー朝が奉ずるのはシーア派。シーア派というとイランの故ホメイニとかヒズボラなどイメージから狂信者の集団みたいな先入観がある。実際創業時には狂信の力を借りた戦闘力が大きく貢献したが、安定期には結構寛容なところもあったようである。基本的にコーランの字句に忠実たらんとするスンナ派に比べて、時のイマームに大幅な教義の解釈を許すシーア派の方が、狂信的にもなりやすいぶん、寛容にもなりやすいのだろう。首都イスファハーンは、いまでこそイスタンブールに比べて知名度が低いが、最盛期には「イスファハーンは世界の半分」と言われるほどの大都市だった。この本でもかなり細かにその様子が描かれている。
 他、サファヴィー朝の時代に生きた様々な立場の人々について短い伝記にまとめられている章が面白かった。オスマン帝国とサファヴィー朝の二大国に挟まれ苦闘するクルド人族長、サファヴィー朝の後宮で国の実権を握った王女、インドのムガル帝国で巨万の富を築いたイラン人医師、イスファハーンでのカトリック布教に一生を捧げた宣教師など。登場する人物の出自や民族は多種多彩。この時代、地域の歴史に触れるとき、東洋史、西洋史という区分けはほとんど意味を持たない。

・井上祐美子「柳絮」,徳間書店,1997.1
 中国の南北朝、東晋の後半期を描いた歴史小説。そういえば女性作家の中国物を読むのは初めてだ。血沸き肉躍る合戦シーンや胸のすく軍師の采配などはないかわり、六朝貴族の家庭の様子などが生き生きと描かれている。別に女性だからと言うわけではなく、たまたまそういう話だというだけのことかも知れないが。
 主人公の回想のかたちで話は進む。その語り手は謝道オン(オンの字が出ない)。東晋の名宰相謝安の姪で、名将謝玄の実姉にあたる。彼女の祝言から話が始まるのだが、その嫁ぎ先は名門王氏。夫は現代でもその名を知られる書家王羲之の長男。ついでながらこれも有名な詩人謝霊運は彼女の甥の子である。実家、婚家とも才能豊かな家系だった、というより当時の実力者や文化人がみな密接な親族関係を結んだ有力貴族だったということだろう。そのような貴族から実力を備えた武人へと主導権が移っていく時代を、名門才女の半生を軸に描いている。
 時代背景の説明は丁寧だし、もとから日本では紹介されることの少ない時代なので、予備知識は少なくても読むのに支障はないと思う。ただ似たような人名が多く出るのと舞台となる土地の位置関係などの点で、中国ものになじみのない人はとまどうかも知れない。慣れるとどうということもないのだが。

・梶尾真治「ちほう・の・じだい」,ハヤカワ文庫,1997.9
 叙情あり、ブラックユーモアあり、下ネタありとバラエティ豊かな短編集。田中芳樹「七都市物語」のパロディまである。どの作品もどぎつさがなく、素直に笑ったり感じたりできる。ブラックユーモアさえどこか丸みを帯びた感触。特に気に入ったのが「M・W・L(仮)へようこそ」と「トラファマドールを遠く離れて」。「MWL〜」はオーソドックスなつくりでラストのやりとりが逸品。「トラファマドール〜」は発想が以前読んだイアン・マクドナルド「帝国の夢−地上管制室よりトム少佐へ−」と似ているような気がする。「トラファマドール〜」の方がずっと叙情的ではあるが。
 個人的にウケたというのでは「絶唱の瞬間」。カラオケで音痴を馬鹿にされた男が復讐する話で、公平に見てすごくいいという程ではないのだが、カラオケ嫌いの私にとってはツボをつく作品だった。

・秋山完「リバティ・ランドの鐘」,ソノラマ文庫,1996.1
 背表紙が白のソノラマ文庫を読むのは初めて。…昔は緑だったんですよ、これ。
 遊園地小惑星”リバティランド”に突如軍事組織”ナパージ”の一個師団が襲来。当然非武装のリバティランドに降伏以外の選択肢はないように思われた。しかし来園した人間たちを護るためロボットたちは自衛団を結成、奇想天外な作戦で健闘する…という話。
 基本ラインは「お約束」通りだが、ロボットたちの奮闘は奇抜さもありセンチメンタルもありでなかなか楽しい。見せ場でシェイクスピアやキング牧師を引用してみたり、ロボットの開祖の名が「アイザック・エニアック神」だったりとお遊びも豊富。
 登場人物たちがアニメそのままの設定で多少うんざりするが、登場ロボットたちの存在はそれを大きく補う。ラストも「こうなるだろうな」と思った通りの展開。それに文句があるわけではない。こうしかないだろうなとさえ思う。だが「こうしかない」ラストに到達するのに、理由付けなり何なりもう一ひねり欲しかった、というのは贅沢だろうか。
 しかし本当は細かいことをくだくだあげつらう必要はないのである。遊園地は門を出て振り返ったときに、エンターテイメント小説は最後のページを閉じたときに、こうひとこと言えるならそれで十分。
「ああ、楽しかった」と。

・小松左京「さらば幽霊」,講談社文庫,1974.4
 怪奇もの中心の短編集。「さとり」の昔話や八百比丘尼など、日本ならではのネタが多い。11編のうち気に入ったものは3編。「比丘尼の死」「保護鳥」「骨」。さらにしぼるなら「保護鳥」。遠い外国の一小村でいきなり「ニッポンは何羽残っていますか?」と詰め寄られる所からはじまる話である。
 解説として付いている筒井康隆「小松左京論」も一読の価値があるのだろう。あいにく「論」を読んで頷けるほど小松左京を多くこなしていない。これからの楽しみ、というところだ。

・ブライアン・オールディス&ディヴィッド・ウィングローブ「一兆年の宴」,東京創元社,1992.7
 前作「十億年の宴」で手薄だった、60年代以降のアメリカSF史を補完した続編。
 60年代を扱った2章、3章で中心に据えられているのはディック、ディレイニー、バラード。とくにディックに対する評価は高い。私はディックはあまり好きな方ではないし、ディレイニーの「アインシュタイン交点」はよく分からなかったし、バラードにいたっては読んでさえいない。難解さが原因の一つなのだが、著者に言わせると「よいSF」というのは読者にそれなりの努力を要求するが、その代価は非常に大きいものなのだそうだ。
 70年代以降についてはSFの市場が膨れ上がったこともあり、これといった焦点はない。この本ではライフスタイル系やシリーズ物をかなり詳細に解説している。「十億年の宴」からそうなのだが、オールディスはどうやらテクノロジー重視や謎解きメインの作品は好みでないようで、紹介されている作家、作品も少ないし、点も辛い。好き嫌いは仕方がないとは思うのだが、しかしJ・P・ホーガンについて一言もないというのはちょっと問題がありはしないか。確かに「星を継ぐもの」なんかは人物造形が粗いのでオールディス好みではないだろうが、「五万年のアリバイ崩し」と謳われた謎解き系の傑作である。知らなかったということもないと思うのだが。
 5章「いかにして恐竜になるか」は、60年代から70年代の前半にはほとんどSFを発表していなかったビッグ・ネームたち――ハインライン、アシモフ、クラーク――らの、復帰後の作品を批評する。アシモフやハインラインの作品についてはかなり厳しい批判が展開されている。ハインラインはともかく、アシモフのファンだった私としては容易に頷きたくはない点もある。しかし著者名がブランドと化してしまった彼らの作品を、遠慮なく作品本意に評価している点では貴重な論。おそらくこの本の白眉だろう。

・西村京太郎「名探偵なんか怖くない」,講談社文庫,1978.5
 エラリー・クイーン、エルキュール・ポワロ、メグレ警部、明智小五郎、四大名探偵が競演。3億円事件を人為的に再現させ、それを4人に推理させるという趣向だが、その線で話が最後まで続くはずがない。どこから「意外な展開」に入るのか、期待しながら読んだ。(期待は裏切られなかった)
 パロディ作品なのだが、ミステリとしても十分面白い。私はクイーン、ポワロ、明智はそこそこ知っているがメグレ警部ものは全く読んだことがない。それでも話が分かりにくいということはなかった。  ラストの謎解き二はいる直前、エラリー・クイーン風に「読者への挑戦」があるのだが、4人の名探偵の性格がうまく表されていて面白い。しかし一番良かったのは、その末尾で日本の刑事が「殺人事件なんだからもっとまじめにやってくれ」とぼやいているところである。いかにも「らしく」て笑えた。

・宮崎市定「大唐帝国−中国の中世−」,中公文庫,1988.9
 タイトルを見ると唐の通史のようだが、実際は後漢末から五代にいたる中国中世の浩瀚な通史である。唐についての記述は後半の4分の1ほど。こういう地域的にも時間的にも幅広い歴史書を書かせたら、ダイナミックスさにおいてこの大先生にかなう人はちょっといないんじゃないだろうか。事件やそれぞれの王朝をヨーロッパの中世と比較してみたり、最終章で中国自然体の景気動向をグラフ化してみたりするあたり、私のような素人でも非常に楽しめる。いや、むしろ素人だからこそ余計に楽しめるのではないか。細かい点の記述については、書かれたのがだいぶ前であるせいもあって、ちょっと違うんじゃないかと思うこともある。専門家はそういう点を厳しく追及しなければならないが、私などは気楽に読み流して全体の流れを楽しむことができる。

・ディヴィッド・ブリン「ポストマン(改訳版)」,ハヤカワ文庫,1998.2
 ケヴィン・コスナー監督・主演の映画の原作。販売戦略にノせられているようで(ようで、じゃなくてその通りなのだが)癪だが…。それが無くてもいつかは読んだかも知れない。いいきっかけだったと思うことにする。
 最終戦争後のアメリカが舞台。略奪者に襲われたゴードンは偶然、遺棄された郵便配達のジープと死んで久しい配達員を発見する。食にありつくためゴードンは配達員の役を演じ、訪れた村で大歓迎を受けるが…。「新しいアメリカ」の建国物語といったところか。少しばかり「アメリカ万歳」的なところはあるがそれほど気にならないし、伝説の人物に祭り上げられてしまう主人公のとまどいと苦悩がうまく描けていて共感がもてる。映画でもこの辺をうまく出せれば結構いいものになるんじゃないだろうか。しかし、教養はあるが優柔不断な原作の主人公に対し 映画の主役がケヴィン・コスナーでは、タフガイすぎて適ってないような気もする。
 郵便配達員がヒーローになるというのは日本ではちょっと想像できないだろう。西部開拓時代から始まり、南北戦争期にも危険を省みず最前線まで手紙を届けたという伝説をもつアメリカならではの話である。

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