駄弁者の駄弁


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司書の駄弁者
生 年:1973年
出 身:大阪府・なまりは多分一生ぬけない
現住所:岐阜県恵那市・職場は近くなった
職 業:名前のとおり。
趣 味:見ての通り。

イスタンブールの駄弁者

旅行前
 トルコを、中でもイスタンブールを訪れることは、長年の念願だった。
 そう書けば、ちょっと大げさすぎるだろう。いくらまとまった休みにとりにくい仕事とはいえ、少し無理をすればなんとかなった時期もあったはずだし、実際職場で海外に行った人間が皆無というわけではない。熱意がそれほど高くはないボーダーを越えなかった…結局のところ無精だったのである。それでも、大学でオスマン朝を専攻しておきながら現地を一度も見たことがないというのは、どうにもおさまりが悪かったこともあり、海外に行くなら最初はイスタンブール、とは長らく決めていたことだった。念願というよりも、やりそこねた自由課題が折に触れて気になるというほうが、気分的に近いかも知れない。
 いまいち煮え切らない状態を40も目前にして片付けるきっかけとなったのは、熱意ではなく仕事の方の変化。公共図書館から学校図書館への異動だった。職場が変わって仕事が大幅に楽になるということはなかったが、その緩急やスケジュールについては自己裁量できる範囲が広い。1年通してやってみて、このあたりなら1週間程度の休みは組めるという目処を立てることができた。ならばこの学校にいるうちに、行っておかなければなるまい。
 自分としてはイスタンブールだけ見られれば満足はできるのだが、どうせ行くなら定番の観光地は回れたほうがいいということで、スタンダードな、しかしイスタンブールの滞在が長めで自由行動のあるものを選ぶ。おかげでちょっと値が張るツアーを選ぶことになったが、この歳になって行く初海外である。多少のぜいたくはしても罰は当たるまい。おまけに休みの時期的に割高で、しかも1人だけとなるとさらに割り増しが…。燃油サーチャージ?何それ?
 このうえ罰など当てられてたまるか、という気になってきたが目をつぶってツアーは決定。関西空港8月3日発7泊8日の行程である(中部空港発もあったけど、直行便がないのでパス)。あとは仕事の算段をつけて、必需品を借りたり買ったりしていざ当日──。

2日目〜イスタンブール−エフェソス−パムッカレ〜
 1日目は22時半の出発で、個人的には初の出国手続きなど興味なり感慨なりはあったのだが、わざわざ話すほどのこともないだろう。およそ半日のフライト、マイナス時差6時間(通常は7時間の時差だが、サマータイムで1時間ずれる)でトルコ時間の翌早朝5時前にイスタンブール着。タラップに立った私は、まずは大きく息を吸い込んだ──海外に出ると、まず匂いの違いに気付くと聞いていたので──あんまり違いはないな。とりあえず、いい天気である。
 すぐに国内線に乗り換えてイスタンブールからイズミルへ、といきたいところだが予定より飛行機が早く着いてしまったこともあり、3時間ほど待機である。ちなみにツアー一行は16人。夫婦や女性コンビ・トリオの参加が主で男性は私を含めて4人。年齢層は、たぶん私が最年少ぐらいだろう。この一行が揃って、まずは添乗員さんのすすめで、郵便局で円−トルコリラの両替をする。私は念のため空港で多少のリラを両替済みだったのだが…しまった、こっちの方が予想以上にレートがいい(1リラ45円が目安)。空港よりも多めに両替をして、あとの時間は早くも土産物の瀬ぶみに費やすことになった。家族や職場への土産は各所でおいおい揃えるとして、自分用には、まあ本が1冊あれば十分である。トルコのノーベル賞作家オルハン・パムクの歴史小説『わたしの名は紅』の原書を買うつもり。空港の売店でも当然のように置いてあるので、最終日にでも買えれば問題ない。カード『エンダーのゲーム』はトルコ語訳も出ているはずなので、それが見つかれば言うことないのだが…空港にはさすがにないか。マーティン『七王国の玉座』はあったけど。
ハドリアヌス神殿
ハドリアヌス神殿
 
セルシウス図書館
セルシウス図書館
 
アルテミス神殿跡
アルテミス神殿跡
奥の城塞は中世のもの
ドミティアヌス帝像
ドミティアヌス帝像
 
 8時頃に再び飛行機に乗り、1時間ほどでエーゲ海沿岸のイズミルに着。そのままバスで最初の目的地エフェソス(トルコ語名エフェス)へ。紀元前のギリシア植民時代から紀元後は帝政ローマ時代まで栄えた古代都市で、古代七不思議のひとつに数えられたアルテミス神殿があった場所である。その神殿は現在は柱1本を残すのみだが、ローマ時代の遺跡はかなり広大で、ハドリアヌス神殿、セルシウス図書館といった遺構が残っている。ガイドさんの先導で急いで見て回っても1時間半かそこらはかかる。午前中とはいえ日差しは強く、空路半日の疲れもあってちょっとキツいが…さりとて見過ごすにはもったいな偉容である。
 遺跡観光の後はトルコに入って最初の食事。家庭料理風の小型シシケバブ「チョップ・シシ」とのこと。…肉がちょっと硬い。せっかくだから飲物も地のものを、と頼んだヨーグルト「アイラン」は意外と美味しかった。
 午後からはエフェソスの博物館。外の遺跡でレプリカを展示しているものの現物や貨幣発祥国リディアのコイン、巨大なドミティアヌス帝像などが置かれている。ドミティアヌス帝像は頭と片手が残っているだけだが、そこから計算すると全高8メートルはあったとか。暗殺され記録抹消刑になった皇帝だが、よく一部でも像が残っていたものだ。
 その後エフェソスを離れ、バスで200キロほど離れたパムッカレへ。海がまだ近いうちは景色に緑が多く、野も畑も山も個々に切り取れば日本と大差はないように見える。ただ、山に至るまでの野や畑の広がり方が、圧倒的に違う。トルコの国土面積は日本の2.2倍。人口は約7千5百万人。やっぱり、広い。
 そろそろ夕方かという時間(もっとも19時すぎでも明るいのだが…ああ、サマータイムだからか)に石灰岩の白い丘、パムッカレに到着。メインの観光は明日になるが、丘の下にある公園から写真をとるにはこの時間のほうが光のあたる方向がよいとのことで前倒しで撮影タイム。まあ写真で見て知ってはいたけれど、白っ。こんなに暑くなければ雪でも降ったのかとでも言いたくなる。
 ひとしきり写真を撮った後、ホテルへ向かう。パムッカレ名物の温泉併設とのことで、夕食もそこそこに行ってみた。鉄分豊富な濁り湯の露天風呂。水着必須なのでひと風呂浴びたという気分には、あまりなれなかったけど…まあいい話のタネだ。部屋に戻って改めてシャワーを浴びなおし、時間はまだ早かったが就寝。長い1日を終えた。

3日目〜パムッカレ−コンヤ〜
パムッカレ・下の公園より
パムッカレ・下の公園より
 
パムッカレ・丘の上より
パムッカレ・丘の上より
たしかにちょっと黒ずんでいるところも…
 翌朝改めてパムッカレへ。昨日から同行の現地ガイド、ギュンさんことギュンドアン氏はこの近くの出身で小さい頃はよく家族で遊びに来たという。その当時よく訪れた店などは、ここが世界遺産に指定された後、景観保護のため移転を余儀なくされたそうだ。パムッカレは、温泉が溶かした石灰が沈殿して写真のような白い棚田様の景観を形づくる。世界遺産に指定される前は観光客やその相手をする店舗などの影響で、白い丘もかなり黒ずんできていたらしい。指定後の厳しい規制でなんとか回復させたのが今の姿とのことだ。現在は計画的に温水の流路を変えながら、観光客が立ち入れる白い丘を維持・形成しているのだという。自然の景観は、いったん人の手が入ってしまった以上人の手なしには維持できないということで、当たり前のこととはいえ複雑な気分だ。説明を聞くツアー一行の笑い声にも、どことなく影が差している。
 パムッカレは正確にはヒエラポリス−パムッカレと呼ばれ、文化と自然の両面で認定された複合遺産である。白い丘の上にはヒエラポリスというローマ帝国の都市遺跡が残る。温泉地にあるローマ都市ということで、一行の間でルシウスさんの名前がささやかれたのは、まあ当然の成り行きというものだろう。自由行動時間が短めだったので、遺跡をゆっくり見たり温泉を体験したりして『テルマエ・ロマエ』にひたる時間がなかったのは残念。
 パムッカレを離れて一路コンヤへ。アナトリア半島のトルコ化を進めたルーム・セルジューク朝の首都だった町である。私の認識ではルーム・セルジューク朝は、西アジア一帯から中央アジアまでを支配した大セルジューク朝が衰退した後に残った王朝というものなのだが、ギュンさんの話だけ聞いていると最初からアナトリアがセルジューク朝の中心だったように聞こえるなあ…(そもそも一言も「ルーム・セルジューク」とは口にしなかったような)。ちょっとトルコ人の歴史観を垣間見た気がする。
カラタイ博物館
カラタイ博物館のファサード
 
メヴラーナの霊廟
メヴラーナの霊廟
緑の塔の真下にメヴラーナの棺がある
 途中トルコで4番目に大きな湖、エイルディール湖畔で昼食。魚の…ムニエルでいいのかな、これは。あっさりしていて悪くない。日本人のツアーと言うことでお粥も出してくれる。まだ日本食が懐かしくなるには早すぎるが、気持ちはありがたい。粥そのものはともかくフリカケが実に微妙な味だったが、気持ちはありがたい。
 湖を過ぎ、めっきり緑が少なくなった山間を行くことしばし、開けた眼下にコンヤの町並みが見えてくる。ここで旅程に組まれているのは2ヶ所。まずは13世紀のメドレセ(イスラム神学校)が元というカラタイ博物館へ。陶器・タイルの展示物もいいが、やはり建物自体が一番の見物だろう。浮き彫りの施されたファサードや、青いタイルの天井が美しい。
 もう一つがセルジューク時代に愛と平和を謳った詩人にして思想家(ギュンさん談)メヴラーナが祀られている霊廟である。メヴラーナ、メヴラーナ、聞いたことあるなあ…メヴレヴィーのことか。神に近づくための回転する踊りで有名な神秘主義教団である。教団の始祖ルーミーのことをトルコではメヴラーナと呼ぶらしい。少し並んで入った霊廟には、メヴラーナの親族・子孫の墓が並んでおり、奥のひときわ大きな墓廟にはメヴラーナその人が祀られている。旋舞の実演を目にすることはなかったけど…。だんだん私の見たかったトルコに近づいてきた。
 その日はコンヤのホテル泊。ずいぶん現代的な風貌の高層ホテルである。入り口の回転扉には、お約束のように旋舞するスーフィーが描かれていたが。向かいはこれまた現代的なショッピングセンター。ちょっと覗いてみたくもあったが、無線LANを使ってメールチェックなどしている間にわりといい時間になっていたので、そのまま就寝。

4日目以降へ



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