読後駄弁
1998読後駄弁11月〜12月


・加藤祐三・川北稔「世界の歴史25・アジアと欧米世界」,中央公論社,1998.10
 「世界の歴史」の各巻たいてい地域・時代ごとに分けられているが、今回は趣向を変えて、近世から近代にかけてのアジアと西欧世界との接触と交流を扱う。こういうテーマ史というのも、普通の概説と違った見方ができていいものだ。
 アジアと欧米の関係、というと何だか大上段に振りかぶった印象をもつが、この本ではより身近なところから話が始まる。たとえばある一節ではイギリス風の朝食、「砂糖を入れた紅茶」が話題にとりあげられている。
 この朝食がイギリスで普及するのは18世紀のことだが、このありふれたメニューからじつに多くの世界史的事件・問題が導き出されてくる。
 まず砂糖、これは中南米のプランテーションで穫れるサトウキビをイギリス本土の工場で精製したもの。サトウキビの栽培と収穫は膨大なマンパワーを必要とする。中南米で廉価な人手といえば当然、黒人奴隷。こうして話は奴隷解放問題へと進む。
 一方の茶。紅茶といえばインドだが、英領インドで茶の生産が始まるのは19世紀も後半になってからのこと。当時の茶は中国茶オンリーである。紅茶が流行したイギリスは中国から大量の茶を輸入しなければならないのだが、あいにく地大物博の中国に対しアピールできる輸出品がない。銀で代価を支払うしかないのだがそれにも限度がある。苦肉の策としてイギリスが持ち出したのが悪名高いインド産アヘン。これが有名な「アジア三角貿易」のはじまりである。そして話題はアヘン戦争から中国・インドの植民地化、さらに中国の状況を見て危機感を持った日本の開国へと移る。
 またイギリスで砂糖入り紅茶の朝食が流行った理由を考えると話は産業革命に至る。時間厳守が要求され経済的余裕も少ない工場労働者たちには、砂糖の高カロリーとカフェインの覚醒効果が必要だったのではないか、というわけだ。無論それだけが理由のすべてというわけでもなかろうが、とくに面白い切り口ではある。
 奴隷解放と植民地問題、産業革命と近代史の要点すべてをそれこそ朝飯前に(というか、朝飯中にか?)網羅してしまうわけだ。茶一杯とはいえ、なかなか邪険に扱えない。

・陳舜臣「曹操 〜魏の曹一族〜」(上下),中央公論社,1998.11
 三国志で物語の牽引役といえば、前半が曹操、後半が諸葛亮である。陳舜臣はかなり前に「秘本三国志」を出しているし、「諸葛孔明」も書いた。となれば、次には曹操がとりあげられなくては嘘だろう。
 曹操が20代の頃から話は始まる。これは結構新鮮だった。たいていの三国志は黄巾の乱が最初のエピソードになるが、そのころすでに曹操は30を過ぎているからである。他にも、曹家の財政基盤が仏教集団を介した西域との貿易にあったとか、曹操の愛妾(後に正妻)だった卞氏の実家が情報収集を担当していたとか、面白い設定が多い。
 登場人物としては、主人公の曹操が魅力的なのは言うを待たないが、幼なじみの曹紅珠の存在が面白い。婚家の一族誅殺から辛うじて救い出され、公式にはすでに死んでしまっている彼女は、ただ一人曹操に言いたいことが言える人物である。遠慮会釈なく時には辛辣なまでに曹操の言動を批判するその視点は、現代読者の代弁をしているようにも感じられる。この紅珠は創作上の人物だが、実在した人物たちの間に彼女は無理なくとけこんでいる。陳舜臣は「阿片戦争」のころからこういった史実と創作の融合が巧い。
 ところで、この作品は中央公論に連載されていた頃は副題の「魏の曹一族」がメインタイトルだった。だから曹操だけでなくその後継者である曹丕、曹叡まで話が及ぶことを期待していたのだが、とりあえず無難に曹操一代で落ち着いてしまったようだ。あとがきでは続編を書くことをもほのめかしているので、それに期待をつなぐことにしよう。

・梶尾真治「泣き婆伝説」,ハヤカワ文庫,1993.1
 梶尾短編の二大要素、叙情とドタバタ・ブラックを等分に含んだ短編集。どちらをとっても面白いが、今回私が一番気に入ったのは叙情側の「メモリアル・スター」だった。人が思い出の故人に再会することのできる惑星「恐れ星」、またの名を「メモリアル・スター」。そこで消息を絶った旧友を探しに訪れた主人公が見たものは……。いきなり出てきた星の名前が「恐山」のパロディなのでブラック側の話だと思ったのだが、違った。
 表題作の「泣き婆伝説」は実際の92年夏の参院選・熊本選挙区をモチーフにしているらしい。そんな前の選挙のことなど全然覚えていないし、熊本のことならなおさらだ。一体、そのとき何があったのだろうか?

・養老孟司「涼しい脳味噌」(続),文春文庫,1998.10
 エッセイ集。一編あたり4ページと分量が少ないので、さくさく読み進められる。もっとも一気に読んでしまうと、ひとつひとつが頭に残りにくい、という難もあるが。
 内容は文化論から著者の道楽である昆虫採集まで多岐。しかし何となく学者先生のぼやき、といった感じもする。著者は歳をとったせいとか言っているが…先生、前の著書でも似たようなこと書いていますよ。

・ニーヴン&パーネル「神の目の凱歌」(上下),創元SF文庫,1998.7
 高い技術力とおそるべき繁殖力をもつ異星種族モーティーは、その星系内から出ることのないよう人類帝国による封鎖を受けていた。だが、とある事件からモーティー封鎖に穴があることを危惧した豪商ホレス・ベリーと元軍人のケヴィン・レナーは、封鎖艦隊の視察を企図する。果然、その頃モーティーの封鎖突破計画は実行直前にあった…。
 というわけで、「神の目の小さな塵」の続編。前作のような謎解きの要素は薄くなったが、その代わり前作でお預けだった宇宙空間での戦闘と追跡劇が楽しめる。慣性とか光速の限界といった、よくあるスペオペでは無視されがちな点を忠実に押さえ、なおかつ緊迫感を損なわない設定と描写は、作品一番の読みどころ。
 アラブ人ベリーとアメリカ人レナー(名前はアイルランド系だが、どう見てもアメリカ人な性格である)の奇妙な仲間関係や、モーティーから教育を受けた二人の若者、クリスチャンとグレンダ・ルースの存在といった、登場人物の描きこみは前作より細かく、多面的である。また、錯綜するモーティー諸勢力の政治劇も面白い。ただ、戦闘シーンに比べるとこちらの面は、詰めが今一歩という感を持った。面白くなりそうな要素は多々出てくるのだが、それが物語中で展開しきれず設定のみに終わっている、と言えばいいのか。
 さらに難を言えば、前作で最大のキーポイントだったモーティーの繁殖力に対する解決も、あまりに簡単に片づけすぎだと感じた。バイオテクノロジーで一発解決では、ねえ。それにモーティーに対しその解決策をなし崩し的に用いてしまうやり方にも問題ありだ。いくらそれなしでは人類との共存ができないからといって、異星人のライフサイクルを安易に変更してしまってよいものだろうか?(…まあ、これは物語上の欠点というよりも、考え方の違いというものだが)
 もっとも、そういった理屈っぽい面に踏み込みすぎない分テンポがよく、上下二分冊にもかかわらず中だるみの少ない仕上がりになっているとも言える。この文章では文句の分量が多くなったが、読んだときでは楽しんだ分量の方が多かったことは、付け加えておこう。 

・オースン・スコット・カード「奇跡の少年」,角川文庫,1998.11
 書き始められたのは10年以上も前だが、現在も進行中のファンタジー大作。完結までたどりついてほしいものだ。…それ以前に、原書で出た分は翻訳を出してほしいものだ(角川書店さん、頼みます)。
 読みどころの多い作品である。まずカード作品の例にもれずメインテーマのひとつとなっている「家族」。主人公一家である西部開拓民、ミラー家の日常を描いたさまには微笑を誘われずにいられない。巻末解説で言われている「カード版『大草原の小さな家』」というのは当を得た表現で、この巻を一言で紹介するのにはうってつけである。また家族の暖かさを描くと同時に、その不和、確執も語られていることも見逃せない。たとえば、主人公アルヴィン・ジュニアと、本当なら自分が「七番目の息子」になるはずだと思っている弟カリーとは、この巻でこそ対立の萌芽らしきものしか見えていないが、これから先二人の関係はどうなることだろうか。
 この家族が暮らしているアメリカは、私たちの世界のアメリカとは少し違った歴史を歩む平行世界である。ピューリタン革命でイギリス国王がアメリカに亡命し、大陸での独立戦争も起こらず、北米南部は王領、北部は護国卿政権下のイギリス領、そして両者にはさまれた狭い地域に「アメリカ合衆国」が存在している。歴史上の人物もワシントンやジェファーソン、フランクリンが登場するものの、その役割はかなり異なっている(ワシントンなんかイギリスに処刑されているようだし)。これは物語の背景にとどまる設定かもしれないが、歴史好きの私としてはこの世界のアメリカ史がどういう展開をするのも楽しみな点だ。
 もう一つ私たちの世界と異なる点(こちらはテーマの方にも深く関わってくる)は、魔術やまじないが実際に効力をもつということである。ミラー一家は日常的にまじないを施しているようだし、アルヴィンにいたっては題名通り「奇跡」としか言いようのないほど強力な力を秘めている。その一方でそんな力を邪悪、迷信と決めつけるプロテスタントの神父・スロウワーのような人物もいる。敬虔だが独善的なスロウワー神父の心理描写も読みどころの一つだろう。また大局にたって、そんな世界でのキリスト教の意味、直面する問題というのを考えてみるのも面白い。この巻でこそキリスト教はアルヴィンにとって対立的な意味しか持たないが、これから先彼が究極の敵「アンメイカー」に対抗する道は、魔術とキリスト教とを整合させていくことにあるのかも知れない。
 スロウワー神父の信仰心は、その「アンメイカー」の利用するところとなる。創造の力をもつアルヴィンと破壊者「アンメイカー」の戦いが、シリーズ全体での最大テーマとなる。アルヴィンの夢やテイルスワッパーの話からイメージされるその姿は、エントロピーの権化、とも思える。まだ未熟な創造者であるアルヴィンは籠や石積みといった小さなものしか造ることができない。だが、彼の技がいくら高度になったとしても造るのが「物」である限り、「アンメイカー」に打ち勝つことはできない。…エントロピーはつねに増大する。アルヴィンが創造しなければならないものは、おそらく人と人との間に造られる「何か」だろう。ちょうど、テイルスワッパーの語る「創造者」ベン・フランクリンが「アメリカ人」を造ったように。
 最後にちょっと文句を言うことにする。どうも訳が私の好みに合わない。この話の1〜5章部分は「ハットラック川の奇跡」という題で「SFマガジン」に掲載されたことがあるが、そちらの訳の方が良かったような気がする。
 好みに合わないというのは、カタカナ語が安易に使われすぎてるように見えること。魔術の強さを表現するのに「powerful」という言葉が使われているが、それをそのまま「パワフル」と訳したのでは、芸がないのではないだろうか。透視者ペギーが人や動物の心の中に見る「Heartfire」も、そのまま「ハートファイア」ではどうにも安っぽい。「ハットラック川の奇跡」では「心の炎」と直訳して、横に「ハートファイア」とルビを振っていた。ささいなことだが、こっちの方が雰囲気としては好きである。



・ジョン・ヴァーリィ「バービーはなぜ殺される」,創元SF文庫,1987.12
 ヴァーリィの連作「八世界」ものの短編集。…カードの後にヴァーリィを読むと、その世界観、宗教観の違いにめまいのする思いだ。例えば、オーソドックスな家族像をメインテーマにするカードなら「八世界」のような、性転換が日常的に行われる世界(下らない駄ジャレを許してもらえるなら「ジェンダーのゲーム」とでも言おうか)は決して描かないだろう。どちらがいいかというのは結局好みの問題だろうが、アイディアSFとしてみた場合、既成観念にこだわることの少ないヴァーリィの方が一枚上手かとも思う。
 収録作品のうち、読んで楽しいものは警察官アンナ・ルイーズ・バッハが進行役となる「バガテル」と「バービーはなぜ殺される」のふたつ。特に冒頭の「バガテル」、いきなりの「爆弾発言」には笑ってしまった。
 しかし、読後感が尾を引くという点では、宇宙空間で人工生命との共生関係に生きる人間を描いた「イークイノックスはいずこに」を勧めたい。

   ・ジョナサン・ウィリアムズ「図説お金(マネー)の歴史全書」,,1998.9
 題名通り、世界各地の貨幣の歴史について概観したもの。編纂者が大英博物館の研究員なだけあって、世界一とも言われる所蔵品の写真が豊富に掲載されており、それを眺めているだけでも結構楽しい。
 内容はヨーロッパの貨幣史が中心だが、「全書」と銘打ってあるだけにイスラム、中国、インドの事情についても章が設けられている。ただ、巻末の解説でも批判点に挙げられているが、どうしても東洋については大ざっぱになりがち だ。例えば日本については中国の章で補足的に触れられるにとどまり、その特徴的な金貨であるはずの小判などは写真の掲載が一枚もない。このあたりについてはまた別の本を読みたいところだ。
 しかし、この本を読んで「お金」というのが何なのか分かるのかというと、「やっぱり分からない」ということになる。そりゃ、本の一冊で分かったりできるならハナから苦労はしないというものだが。本文の末で「実体のさだかでないものが、なぜかくも強力になりうるのか」という言葉でしめられているのが、書いた人にとっても読む人とっても、正直な感想というものだろう。

・清水義範「シナプスの入江」,福武文庫,1995.10
 「記憶」とは人の存在そのものである。記憶があるからこそ、過去から現在にいたる「自分」が連続した同一のものだと信じることができる。ならば、他人誰もが自分を記憶していないならば、それは自分が存在しない、ということになるのだろうか? そして自分の記憶が事実でなかったならば、それまで信じていた「自分」とはいったい何なのだろう?
 人間の記憶にまつわる、普通小説にホラーの彩りを加えた作品。日常的な会話が淡々と進むところに、登場人物の何気ない一言で突如ぐにゃりと歪む主人公の「現実」、その感覚は読む側としても何とも恐ろしい。自分自身の記憶を反芻したくなるような不安におそわれる。清水義範というと笑いの絶えないパスティーシュ作家の印象が濃いが、そのとっつきのよさをもってこういうホラーを書かれると、かえって怖さが倍増する。

・大貫良夫[ほか]「世界の歴史1・人類の起源と古代オリエント」,中央公論社,1998.11
 「超」がつかなくても古代史は面白い。人が厳しい環境と限られた技術の中で、農耕を始め、都市を築き、国を造っていく。…宇宙人の介入や海に沈んだ巨大都市、巨石に隠された未来の予言などなくても(あればあれったで面白いことは否定しないが)、その創意の跡をたどるだけで充分好奇心は刺激される。
 実際親切な神だか宇宙人だかが導いてくれたなら、人類だってもうちょっとマシに進歩していてもよさそうなものだ。この本の第2部ではバビロニア、ヒッタイト、アッシリアなどオリエントの古代国家の盛衰について述べられている。諸国が政治、外交、戦争で覇を競うさまは中国の春秋戦国を連想させた。現代の国際政治の様にさえ、一脈通じるものがある…政略結婚と借款の差はあるが。数千キロの距離、数千年の時間を隔てても同じ人間のやること、根本的に変わることはないのかも知れない。古代人に感心すればいいのか、現代人にため息をつけばいいのか。

・J・G・バラード「時の声」,創元SF文庫,1969.5
 実は私はSFを読み始めた頃、いちどバラードの長編に挫折したことがある。宇宙船も異星人もタイムマシンも出てこない、語り口はどうにも沈鬱、これって本当にSFなのか?と思った…んだろう、よく覚えていないが。
 このたび、短編集で再挑戦。やはり好きになるほどまでには至らなかったが、ああこういう所がいいんだな、とは分かる気がした。宇宙を舞台にしていてさえ内面へと向かう指向、滅びへの道をもの憂げに見つめるまなざし。物語が、登場人物がという以前にこういう全体の雰囲気に魅せられるのだろう。内面へ向かう、と言っても話が小さくなってしまうことは全くない。収録されている「待ちうける場所」などは、自分の内で宇宙の全歴史を体験してしまうというムチャクチャな話である。
 ほか、表題作「時の声」もいいが、最後に収録されている「深淵」の方が気に入った。人間以外の動物が死に絶え打ち捨てられようとしている地球に、あえて残ろうとする男の話。思いがけず見つけた一匹の魚が心なく殺されてしまうさまには、悲嘆ではなく諦念がつきまとう。
 「重荷を負いすぎた男」は、物事の形は識別できるのだが、その意味については認識できなくなる…いや、しなくなるという狂気にとりつかれた学者の話。これに似た実話を読んだことがあるのを思い出した。オリバー・サックス「妻を帽子とまちがえた男」で紹介されているのがそれだ。ものの形、部分の様子などは見えており描写もできるのだが、全体としてそれが何なのかが分からなくなってしまう。その結果、そこにあるのが靴なのか自分の足なのか尋ねたり、妻の頭を帽子と間違えてかぶろうとしたりするのだ。それでも実話の男はどうにか社会生活を営んでいるようだが、作品の「重荷を負いすぎた男」は自ら進んで意味の認識を捨ててしまい、抽象の世界に埋没してしまう。…考えてみると物事すべてに意味がある世界というのは、結構疲れるものなのかも。

・水見稜「食卓に愛を」,ハヤカワ文庫,1989.1
 著者の見慣れぬ名に目が止まって、買ったものである。短編集。
 日本の無人宇宙船<鳳凰>がファーストコンタクト。その異星人の最初のメッセージは「来い。メシを食わせてやる」だった…。この表題作「食卓に愛を」が収録作の中では一番。食べるという行為を「分子のシャッフル」と表現する異星人とのやりとりが面白い…ちょっと悪趣味ではあるが。ここに登場する松崎・小坂の主人公コンビは後続2つ「アレルギーの彼方に」「神の糧」でも登場する。3作とも「食べる」がキーワードだ。
 ほか、どの話も奇想が光るのだが、アイディア一発で、あとが続いていないという感想も持った。「食卓に愛を」「アレルギーの彼方に」あたりではそれ程感じないが、他の作品ではその点が少し物足りない。例えば冒頭の「パティの出てくる日」。300年の刑期をクローンが引き継ぐことでつとめ上げた女性が、やはりクローン技術で複雑な血縁関係になっている家族と対面する話である。クローンの家族関係という発想は面白いのだが、最後までそれを通さずにラストで別要素を持ってきてしまい、散漫になってしまっている。

・竹内紀吉「図書館の街浦安<新任館長奮戦記>」,「浦安の図書館と共に」,未来社,1985-1989
 たまには仕事関係の本も読むわけである。ほんとにたまにだが(…年間降水量を左右するとさえ言われている)。
 千葉県浦安市と言えばディズニーランドで有名だが、図書館職員としてはそれ以上にに市立図書館で有名である。「図書館の街浦安」は初代館長の著者が、雨漏りのする準備室と2人の職員しかない状態から、貸出数全国一の図書館を創り上げ、軌道に乗せるまでの話である。「浦安の図書館とともに」はその続編。
 市域の図書館や移動図書館網をいかに隈なく設置するか、図書館の書架はどのようなものをどう配置していくか、利用者との関係をどう築くか、図書館サービスのあり方は……などなど、内容は濃い。あとがきで図書館職員よりも一般の人々に読んでもらいたい、と書いているが確かにその通りで、貸出返却などカウンター業務以外に図書館がどんな考えでどんなことをやっているか、よく分かってもらえると思う。しかしまあ、この本を読んだ人の期待に応えられるほどお前はちゃんと仕事してるか、と聞かれると頭を掻いて誤魔化したくなるような…(努力いたします、はい)。
 もっとも浦安は市立図書館であって、私が勤める県立図書館としてはまた違った仕事や立場もある。浦安のような図書館をいかに効果的にバックアップできるかの方が県立としては問題か。著者は千葉県立図書館から出向の形で浦安の館長になっているせいだろう、県立図書館を上手く利用している。
 続く「浦安の図書館と共に」は一時県立に戻っていた著者が行き詰まりかけた浦安に再び館長として就任するところから。ガンと闘いながら身を削るように仕事に打ち込み、ついに不帰の人となった副館長の話などは感動的。しかしそちらの話に紙数を割いた分、専門資料として参考とできる部分は前篇より少ない。浪花節が鼻につかなくもないし、私としては前篇の方が興味深く読めた。ただ著者が北海道で行った講演の記録が掲載されていて、そこでは前篇も含めた内容が分かりやすく要約されている。「図書館の街浦安」のエッセンスはここでカバーできるから、職員以外がどちらか一方を読むならこちら「浦安の図書館と共に」の方が入りやすいのかもしれない。

・ヨースタイン・ゴルデル「鏡の中、神秘の国へ」,NHK出版,1997.11
 「ソフィーの世界」以来、この人の本は年に1冊ペースで出ている。これは去年(97年)のもの。今年も出ているが、まだどんなものか見ていない。
 クリスマスの夜、病気で寝たきりの少女セシリエの枕元に、天使アリエルが訪れる。肉体をもたないため五感がなく、記憶を忘れることも思い出すこともないという天使は、セシリエにそれらがどんなものなのか、どういう感じがするのか尋ねる。それに応えて説明するうち、セシリエは生きていることの不思議さを感じとっていく。
 日常で自明のものとして受けとめているものを改めて見つめ直す、というのは哲学の出発点だろう。ゴルデルの物語はどの作品も哲学の入門書のようなところがある。難しげな用語を決して出さずにそれを説明しようとするところは少し迂遠に感じることもあるが、たいていは表現の巧みさと豊かさに感心させられる。
 この物語、語り口や漢字のふりがなからしてどうやら中学生あたりを対象しているようだ。ただ読者がキリスト教徒であることを前提としているので、日本の中学生がどこまで興味を持続できるかが少々疑問。私だったら天使が登場する時点で放り出しただろう。「宗教」に対する色眼鏡を一時保留して読むように勧めたい。

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