読後駄弁
1999読後駄弁3月〜4月


・ダン・シモンズ「エンディミオン」,早川書房,1999.2
 「ハイペリオン」「〜の没落」に続く、シリーズ第2部。
 前作ラストよりおよそ300年後。<崩壊>を生き延びた人類は、「聖十字架」によって肉体の不死を手に入れたカトリック教会<パクス>の支配下にあった。冤罪で死刑判決を受けた青年ロール・エンディミオンは執行直前にかつてのハイペリオン巡礼、マーティン・サイリーナスに救われる。サイリーナスは彼に、まもなく<時間の墓標>より現れる少女アイネイアーをパクスの追っ手から護るよう依頼した。同じ頃、パクスの神父大佐デ・ソヤは教皇…かつてサイリーナスらと共にハイペリオンを訪れたルナール・ホイト…からの特命を受ける。惑星ハイペリオンに赴き、<時間の墓標>より現れる少女、宇宙の命運を握る存在を捕獲せよ、と。かくして、宇宙を股にかけた大追跡劇が始まった!
 と、ここまで読めば解るように、前作をしらなければほとんど意味不明。これを読むためにもぜひハイペリオン2部作を読もう!とまで言えればいいのだが、そこのところはまだ未知数。「ハイペリオン」のときと同じく、今回も話の前半部だけで謎解きは次回のお楽しみ、となっているからだ。「ハイペリオンの没落」のような見事な展開を期待したいものだが。
 さて、「ハイペリオンの没落」の直後にこの「エンディミオン」にとりかかってみると、非常に読むのが楽である。内容の連続性というのもあるが、それ以上に「〜没落」の複雑さとと較べて話の構成がかなり簡単なせいである。追う側と追われる側の二交代。テンポもよく、「〜没落」と同じぐらいのページ数がまったく苦にならない。
 追跡劇の舞台となるのはジャングルあり、大洋あり、極寒あり。「ハイペリオン」で巡礼の物語として色々な惑星を登場させたのに対応させたのかもしれない。ファンサービスのSF本歌どりも健在。海洋惑星マーレ・インフィニトゥスの巨大生物が<あまたの灯の口のリヴァイアサン>と名付けられているのには笑ってしまった。言うまでもなくゼラズニィ「その顔はあまたの扉、その口はあまたの灯」のパロディである。こいつを釣り上げるシーンがあるのかと思ったが、さすがにそれはなかった。そこまでやったら盗作か。
 登場人物は主人公エンディミオンとアイネイアーのカップルより、ワキや敵が光る。誠実なアンドロイド・ベティックや、プライドの高い<宇宙船>も良いし、何より追う側のデ・ソヤ大佐が魅力的である。彼が命じられる追跡は死ぬほど(本当に、死ぬほど)悲惨。その代わりというわけではないだろうが、本巻ラストでは非常においしい役回りである。次巻の彼の活躍にも期待したい。

・宮部みゆき「蒲生邸事件」,毎日新聞社,1996.10
 予備校受験のために東京に出た尾崎孝史はホテルの火事に遭い、同じホテルにいた時間旅行者・平田に助けられる。たどり着いた先は2.26事件さなかの東京は「蒲生邸」。平田はそこで住み込みの使用人として定着しようとしていた。どの時代でも自由に選べるはずの平田が、なぜわざわざこの先行きの暗い時代とどまろうとしているのか?やがて孝史は平田らの歴史への苦い思い、そしてそれに対する決意を知る。
 最初、評判ほどには面白くないなあ、と思っていた。しかし中盤以降、「学がない、けれど頭はいい、そのくせ勘が鈍い」と評される主人公が開き直ったように活躍するあたりから、だんだん良くなってきた。そして登場人物たちの意図が明らかになるラストではすっかり話に引き込まれてしまう。
 途中、蒲生邸の主人が密室で自殺し、孝史が探偵らしき役回りになるあたり、ミステリーっぽい部分もある。しかし時間旅行ができる世界で「密室」は無意味。やはりミステリーよりSFの範疇に入る作品だろう。

・中島らも[ほか]「輝きの一瞬 〜短くて心に残る30編」,講談社文庫,1999.1
 人生の一断片を捉えた、と言ったら普通小説の短編はたいがいそうなのだが、そういうショートショートを集めた短編集。題名どおり、時が止まったような「一瞬」に収斂する作品が多いが、比較的長いタイムスパンを扱ったものもあり、テーマ性にはあまりこだわっていない。話の味わいもさまざまである。
 陣容は中島らもから篠田節子、目黒考二、高橋克彦などなかなか豪華。印象に残るのは一番手の中島らも「ココナッツ・クラッシュ」だった。

・ロバート・F・ヤング「ジョナサンと宇宙クジラ」,ハヤカワ文庫,1977.6
 甘口のSF短編集。何かに疲れているときは非常に快い作品が集められている。…もっとも精神的活力が余っているときだと、とくにラストに収録されている「いかなる海の祠に」などはばかばかしく感じられると思うが。
 とにかく素直にストーリーの心地よさに身をゆだねるのが良。収録作のうち、私の気に入りは「リトル・ドッグ・ゴーン」。落目の俳優が女性と超能力を持った犬(のような生物)の助けを借りて人生をやり直す話である。いや、犬が出てくる話には弱いもので…。

・谷川稔[ほか]「世界の歴史22・近代ヨーロッパの情熱と苦悩」,中央口論社,1999.2
 良くも悪くも現代の源流となっている西欧近代史を俯瞰。フランスとドイツの革命、イタリア独立運動、ロシア、そしてイギリスの産業革命と政治上の諸改革に分けて述べられている。
 高校世界史授業でいうと、このあたりからやけに暗記事項が増える。私の経験では、イギリスの政治改革にいてはさっぱり頭に入らず、砂を噛む思いで臨んだものだ。上でも書いたように現代にそのまま繋がることだし、動きも激しい時代で、興味の持ちようによってはかなり面白いはずの分野なのだが(まあ、それを言ったらどこの地域のどの時代もそうなのだろうが)。世界史の授業はもっと上手いやり方を考えてもいい…とは思うが、しかし1年とか2年でヨーロッパ、中国、その他の歴史を原始から近代まで教えようというのが、端から無理なのである。この上もっと興味を持てるようにやれ、というのは酷かも知れない。
 とりあえず、そんな授業でも内容が多少頭に残っている人はこの本を読んでみるといいだろう。とくに(私が苦手だった)イギリスの部分がお勧めだ。事項の羅列が意味をもって繋がっていくのを感じるのは大変気持ちがいい。

・ロバート・シルヴァーバーグ「夜の翼」,ハヤカワ文庫,1977.7
 絵的に非常に美しいSFである。古都ロウムの廃墟、そこを訪れる者は、奇怪な計器を押して歩く<監視人>、空を舞う蝶の羽をもつ<翔人>、その他様々の異形の人々…。妖しげな美しさである。銅版画が似合うだろうか。
 ストーリーが良くないというわけではない。視覚的な印象の方が圧倒的に強く感じられるので、物語の背景に絵があるのではなく、逆に絵と絵をつなぐための背景として物語が流れている、そんな感じなのである。
 ところで、前に読んだシルヴァーバーグの「禁断の惑星」ではドラッグが肯定的な扱いで出てくるが、この「夜の翼」でも同様のものが登場する。形は薬でなく機械だが、効果といいその描写といい、意味するところは同じだろう。ただ、「夜の翼」で、自己を拡張し他人と真に理解し合う理想の手段としてただ礼賛されているものが、後の作品になる「禁断の惑星」では個人に対しては同様の効果を認めつつ、社会を破壊しかねないものとして否定する立場にも目を向けている。このあたりの変化は、社会の趨勢だったのか、シルヴァーバーグの回心だったのか。

・眉村卓「カルタゴの運命」,新人物往来社,1998.11
 フリーター松田裕がみつけた奇妙なバイト、それはローマとカルタゴが戦うポエニ戦争を舞台におこなわれる、歴史改変ゲームの補助員を務める、というものだった。
 最初の方で主人公の口から解説されるポエニ戦争の説明では、カルタゴは2度にわたるローマとの戦争に敗れたのち、アルプス越えの名将ハンニバルがカルタゴで暗殺され、ヌミディアの度重なる侵略で滅んだ、とある。あれっ、と思った人はここからがお楽しみである(思わなかった人もまあ、それなりに)。
 歴史小説とSFの両方の要素をもつ作品だが、かなり歴史小説の色が強い。そちらに興味を引かれない人にとってはかなり話がまだるっこしく感じられるだろう。そうでなくても眉村卓の長編は説明に念が入りすぎて話が進まない傾向があることだし。逆に歴史方面から入った人には、終盤で異次元人が松田に時間と次元の概念について説明するくだりは、混乱するかも知れない。
 しかし、私のように歴史小説もSFも両方好き、という人間には1粒で2度おいしい作品である。逆に、SFファンが歴史小説を、歴史小説愛好家がSFを読みはじめる橋渡しになるかも知れない。歴史小説の側から言えば、塩野七生「ローマ人の物語」のファンの人にはお勧めだ。
 内容としては、主人公らがカルタゴサイドでゲームをするので、もっぱらカルタゴ側からみた視点になる。ぜいたくを言えば、ローマサイドの視点が欲しかった。松田と同じ補助員の一人が途中でローマ側につくことだし。
 しかし、それで話がますます長くなるのも考えものか。上で「1粒で2度おいしい」と書いたが、普通の長編を1粒と表現するなら、実に3粒ぐらいの長さがある。840ページ余を1冊にまとめいるので、電車で立ち読みすると、冗談でなしに筋肉痛になる。端で見ていた家族に、なんで辞書なんか読んでいるのかと聞かれたぐらいである。

・小松左京「果てしなき流れの果てに」,ハヤカワ文庫,1973.3
 古墳時代の遺跡から発掘された謎の砂時計。時間がたっても落ちる砂が永遠に減らないというそれは、現代科学でも解明できない科学技術によるものであった。…なんだか超古代史っぽい話だな、と思っていたがそれは序盤まで。そこを過ぎると場面が一気に転換し、時を越え、次元を越えた巨大スケールの物語へと移っていく。
 歴史を変えて人類の進歩を早めようとする組織と超意識体の意を受けてそれを阻止しようとする組織との追跡劇という、それだけみるとありきたりなエンターテイメントの体裁をとっているが、その実は非常に深い話になっている。
 「歴史を変えて、なぜいけない!?」という登場人物の叫びといい、時間・次元の集合を生物組織のアナロジーでとらえるクライマックスといい、30年以上前の作品であるにも関わらず、私には新鮮だった。
 そして話を拡げきった壮大さから一転して、関西の片隅の山里で迎える静かなラストシーンが、何ともいえず印象に残る。
 …何か、書いていて全然まとまりのない文章になってしまうなあ。とにかく短い文ではまとめきれないほど多くのものを持っている物語だ、と言って逃げておくことにしようか。本当のことだし。

・隆慶一郎「一夢庵風流記」,新潮文庫,1991.9
 自由奔放な「かぶき者」前田慶次郎の痛快無比な遍歴。
 一見、長編の体裁をとっているが、慶次郎の活躍の場が京都、佐渡、朝鮮などとあちこちに飛び、構成は連作短編に近いものがある。それはそれで読みやすいのだが、ときどき話がいきなり途切れて、次の話に移ってしまうところもあって、ちょっと戸惑うこともあった。
 もちろん主人公慶次郎の活躍が魅力の作品なのだが、私はそれ以上に慶次郎を囲む人物、それも彼に敵対し、その結果てひどくあしらわれる側の人物たちに、より人間味を感じてしまう。だいたい私は根性がせまいせいか、慶次郎のように戦えば無敵の上に詩歌・漢学にも堪能、男にも女にももてる、という登場人物には今一つ入り込めないのである。
 そういう私がこの作品で面白く感じたのは、前田利家と石田三成。とくに追いつめられた石田三成が慶次郎の胸ぐらをつかんで泣き叫ぶときのセリフは、いかにも「傲慢だが一面純粋」な彼らしくて良かった。

・マイク・レズニック「アイヴォリー」,ハヤカワ文庫,1992.2
 巻頭に1枚の写真がある。抱えている人間の背丈の倍はあろうかという巨大な象牙である。最大のアフリカ象・キリマンジャロ・エレファントの牙だ。
 物語は銀河暦6000年代にはじまる。博物館調査員のダンカン・ロハスのもとにひとりのマサイ族、ブコカ・マンダカが訪れた。彼の依頼は、何千年ものあいだ行方不明となっているキリマンジャロ・エレファントの牙のありかをつきとめてほしい、というものだった。コンピュータを駆使して追求するうち、ロハスは象牙に関わった人々のさまざまなドラマを知る。
 象牙のエピソードは西暦の19世紀から銀河暦4000年にわたる。それを奪う者、護る者、彫刻をほどこそうという異星の芸術家から削って精力剤にしようとする権力者まで、登場人物はさまざまである。それら個々の話をロハスとマンダカの話がつなぐ形になるのだが、この2種類の話の絡ませ方が巧い。そしてロハスやマンダカも単なる狂言まわしの役にとどまらず、象牙遍歴のラストを飾るエピソードの主人公となる。
 マイク・レズニックの作品は初めて読むが、これを見つけたのはなかなか収穫である。他の作品も読んでみたいところだが、例によって品切ればかり。

・貫井徳郎「慟哭」,新潮文庫,1999.3
 貸してくれた人が、この本を読むときは、先に後書きを読んだりカバーの紹介文を見たりせず、とにかく予備知識なしでとりかかってほしい、と言った。やけにもったいぶるな、と思ったものだが、これは実に適切なアドバイスだった。それに倣って、私もここではこれ以上のことは書かずにおこう。
 …で終わってしまうと、なんかサボっているようなので、こちらに書くことにした。私が読みはじめた時と同じ立場で作品を楽しみたい方は、読まないことをお勧めする。

・大槻ケンヂ「新興宗教オモイデ教」,角川文庫,1993.4
 変わらぬ日常に虚無と破壊衝動を感じている主人公・八尾二郎。そんな彼はあるとき長く消息を絶っていたクラスメート、なつみさんと再会した。彼女は自分の入信した新興宗教「オモイデ教」について憑かれたように語る。オモイデ教の「誘流メグマ祈呪術」を使えば人を操ったり狂気に追いやることができるのだという。当然それを信じようとしない二郎だが、なつみさんの言葉通り、かつて彼女を弄んだ体育教師が突如狂い出す。彼女は二郎にもメグマの才能があるというが…。
 華々しく毒々しい狂気の世界。嫌悪感しか感じない人もいるんじゃないだろうかと思う。内容については好みの問題だから措くとしても、ひとつの物語としてはすこぶるバランスの悪さを感じてしまう。雑誌連載だったせいもあるだろうが…。とくにヤマ場のメグマ対決とラストの間は開きすぎだ。
 それでもなおこの話を読めるものにしているのは登場人物たちのもつ狂気の描写だろう。とにかく迫力だけで押し切っている。私としては物語中盤以降の派手な描写よりも、蛇口から流れる水に手を浸し何事かブツブツ呟いている序盤の主人公の方が、本当にありそうなだけに怖いものがあった。

・オースン・スコット・カード「反逆の星」,ハヤカワ文庫,1992.6
 最初、表紙の紹介文に「…ミューラー国の王子ラニックの胸がふくらみはじめてしまった。…」とあるので、ジェンダーものかと思った。だが、主人公ラニックは、女性のふりをすることはあってもアイデンティティは揺るぎなく男性である。考えてみれば、オーソドックスな家族、ことに父親を重視するカードだから、それを根底から覆しかねないジェンダーものは、あまり踏み込みそうにないジャンルである(あったら読んでみたい気はするが)。

 原題名"Treason"…トリーズンは舞台となる惑星の名前。その名の通り、かつて「共和国」に反逆した者たちの流刑の星である。金属資源が皆無のこの星では脱出のための船を造ることができず、「アンバサダー」という物々交換機で「共和国」と取り引きすることで必要な鉄を手に入れなければならない。この「共和国」の存在が詳しく描かれていれば、話はずっとSF色の濃いものになるのだが、物語は惑星トリーズンだけで完結している。SFというよりはファンタジー、ないし寓話である。
 また"Treason"はラニックの運命と決断も表す。惑星脱出の望みの綱であるアンバサダーを破壊することでラニックはトリーズンの人々に反逆する…それがトリーズンを救う道だったとは言え。同時にそのための手段として殺人を忌み嫌うトリーズンの大地に大量殺人を犯させることで、ラニックを信頼し力を与えた大地とその術を教えたシュウォーツ族に対しても反逆者となるのである。「世界を救った主人公がそれによってより多くの苦痛を背負い込む」というのはカード作品の基本パターンだが、「反逆の星」はそれがもっともはっきり顕れるものの一つだろう。
 ラニックはシュウォーツ族の助けで「岩」を…「地脈」を、と言った方がピンとくるが…味方につけ、ク・クウェイ族からは時間の早さをさえ操る能力を得る。しかもその力を使ってトリーズンの運命を自分の意志で決定してしまう。いくら彼自身が「人間だからこそできることです」と言っても、そんなことを平気でやれる存在は神か、さもなくば怪物である。
 それでもなおラニックを人間たらしめているものは、彼がそれに感じている苦痛だろう。「苦痛は人間性の証である」、これもカードがしばしば盛り込むメッセージである。

 …しかし、苦行僧でもあるまいし、そういう人間性の問われ方はなるべくごめんこうむりたいものだが。 

・樺山紘一「歴史のなかのからだ」,ちくま学芸文庫,1993.6
 東西の歴史上、体の各部分がどのように見られ、扱われてきたかを語る。
 …と言えば、かなり硬そうな印象になるが、実際にはそうでもない。もちろん内容が浅いわけではないし、そこに表れている著者の知識量には圧倒されるものの、ひとつのことついて徹底的に突きつめるよりも、筆のおもむくままにあれこれ書いているという感じで、意外と肩は凝らない。
 著者は西洋史の大先生だが、西欧のみに話が偏ることもない。話題の幅広さには脱帽するばかり。例えば「目と耳」の章では、秀吉の朝鮮出兵で戦功の証として集められたという耳塚から話を始めて、自分の耳をそいだゴッホ、果ては鬼太郎の目玉オヤジにまで話が及ぶという縦横無尽ぶりである。

・栗本薫「グイン・サーガ65・鷹とイリス」,ハヤカワ文庫,1999.4
 イシュトヴァーン即位劇の後半戦と、ナリス・スカールご対面の前半戦。
 いつの間にやらナリスの反乱に合理的(っぽい)理由がついてしまっているのが「?」ではある。とうとうパロ王レムスは双生児の姉に愛想つかされるわ、宰相には妖怪あつかいされるわ、散々である。「グイン、イシュトと並ぶ三国志の主役の一角」じゃなかったのか?先は長いことだし、しばしばキャラが変わるのが「グイン・サーガ」だし、これからどういう展開を見せるかは分からない。とりあえずレムスの反対弁論を聞いてみたいものである。

・マキャフリー&ラッキー「旅立つ船」,創元SF文庫,1994.11
 疫病で全身麻痺に陥った少女ティアが脳と宇宙船を直結した「殻人(シェルパーソン)」として復活、活躍し、やがて伴侶を得る。マキャフリーの長編「歌う船」の続編、というかネクスト・ジェネレーションである。
 「歌う船」のヘルヴァが最初から「殻人」だったのに対し、ティアは後天的にそうなってしまう。愁嘆場や苦労話を予想したのだが、その点はわりとあっさりしている。悲劇に耽溺するところが少ないだけに、要所要所に配された「泣けるシーン」はより効果的だ。恋人に触れることのできないティアが自分の体の代わりに愛用のテディベアを抱きしめさせるシーンは(…まあ、クサいと言えば非常にクサいが)、名場面だろう。
 ただ、そのシーンの後に続くラストは、ちょっと話がうますぎるんじゃないかとも思うのだが…。ハッピーエンドで終われるなら、それでもまあいいか。

・乙武洋匡「五体不満足」,講談社,1998.10
 私はこれで結構ものに感動するタチで、涙腺が弱い。そのくせ、泣かせようとする類の話は嫌いというひねくれ者だ(カードぐらい巧くやってくれれば別だが…)。その点、この「五体不満足」は非常に性に適う手記である。多分、ありきたりなお涙話に臭みを感じる同世代の人たちにとっても同様だろう。著者は私より年下とはいえほぼ同世代、感覚が合うのはそのせいもあるだろうか。
 「五体不満足」という題は内容を全くうまく表している。自分のハンデをユーモアにくるんでみせる余裕、明るさが、全体の基調となっている。「本当にいいのかこんなんで」というぐらいの快活さ。
 冗談を交えてさりげなく出される、社会や人々へ向けての期待や要望は、涙ながらに訴えられるより数倍心に響く。また逆に、他の障害者たちについてふれた言葉などは、彼のような立場の人間でなければ言えたものではないだろう。私たちが言ったらただの「健常者の傲慢」だ。
 本の最後に引用されているのは「障害は不便である。しかし、不幸ではない」というヘレン・ケラーの言葉。本文中で著者自身も「自分たちは”かわいそう”ではない」と繰り返している。それでもなお「彼の障害は不幸である」と感じるとしても、それをあがなうかのように、対人関係については彼は徹底的に幸運に恵まれている。両親といい、友人といい、先生といい、ここまで周りに人が揃うのはちょっとした奇蹟じゃないかと思う。
 そこで考えるのは、彼の話をそのまま障害者一般に敷衍していいか、ということである。障害者たちがみな多かれ少なかれ彼と同様に思い感じているのか、あるいは彼のケースは稀な特殊例なのか。他の障害者の「五体不満足」評はぜひ見てみたいところである。

 それはともかく。この乙武さんなら「殻人」になっても(上の「旅立つ船」参照)、明るく楽しく宇宙探検をやっていくに違いない…と、ここはSFファンの感想。

・狭間直樹・長崎暢子「世界の歴史27・自立に向かうアジア」,中央公論社,1999.3
 「戦争と革命の中国」、「非暴力と自立のインド」の2部構成で、植民地支配から独立したふたつの大国について、独立までの流れを追う。中国とインドを対比するような章立て・内容は、そのまま支配国だったイギリスと日本の対比にもつながるだろう。第1部では、日本は最近の風潮と比べると珍しいほど手厳しく糾弾されている。
 当時のイギリスも日本も帝国主義国という点では大差ないかも知れないが、そのやり方を比べると日本が粗野・短絡的だったことは否めない。まあ、後発国だった日本としては、お上品にやる余裕もなかったのだろうが…。そのせいで、インドには常にある程度の親英派があったのに対し、日本は中国・朝鮮のほとんどを敵に回してしまっている。それは、まったく親日派がいなかったわけでもなかろうが、インドの親英派よりずっと少なかっただろう。
 イギリスのインド支配が200年以上にわたったのに対し、日本の支配がせいぜい半世紀足らずだったということもあるかも知れない。長い時間があれば、支配する側にも抑圧する以外のやり方が、支配される側にも憎悪する以外の感情が、それなりに生じるのかも知れない。もっともそれ以前に、日本のやった方法で100年も保たせようというのが無理というものだろうが。

・コニー・ウィリス「リンカーンの夢」,ハヤカワ文庫,1992.8
 歴史作家の調査助手である主人公は一人の少女と出会う。彼女、アニーが夜々見る夢は、は南北戦争時代の南軍の名将・リー将軍がかつて見た光景だった。
 一応歴史SF、ということだが、あまりSF色の濃い作品ではない。また、アメリカ史は詳しくないから分かりにくい部分が多いかと思ったが、とりあえず、南北戦争の流れを知らなくても物語を読むのに支障はなかった。ただ、南北戦争にたいして思い入れもなく、歴史好きでもない日本人が興味を持続するには、ちょっとしんどい話かも知れない。アメリカ人だったら、「ゲティスバーグの戦い」とか「アンティータムの戦い」と聞けば、別に歴史に凝っていない人でもなにがしかのイメージを持っているのだろうが、あいにく私たちにはそれがない。多分向こうの人が関ヶ原や幕末維新を舞台にした話を読むようなものだろう。
 それでも特に退屈も中だるみもせず最後まで読み通せるのはコニー・ウィリスの語りの巧さあればこそ。苦しみつつも夢を見続けようとするアニーを手助けするべきか、止めるべきかで揺れる主人公の心情描写が丁寧である。「ドゥームズデイ・ブック」が気に入った人なら、こちらもわりと楽しめるのではないかと思う。
 巻末には著者のインタビューが収録されている。コニー・ウィリスというと「わが愛しき娘たちよ」のショッキングなイメージがどうしても強いが、同名短編集の他の収録作やこの「リンカーンの夢」などを見る限り、常に問題作を指向する、という感じではない。「わが愛しき娘たちよ」のような作品を書くのがコニー・ウィリス、というのではなく、ああいう作品も書けるのがコニー・ウィリス、なのだろう。

・イアン・ワトスン「スロー・バード」,ハヤカワ文庫,1990.4
 奇想がメインの短編集。咳と一緒に魂を吐き出してしまった男の話「わが魂は金魚鉢の中を泳ぎ」や各国の威信と為替レートを賭けたスポーツの祭典「大西洋横断大遠泳」、垂直の岩壁にしがみついて人生をおくる部族を描く「絶壁に暮らす人々」などなど。政治的な風刺をきかせたものもあって「寒冷の女王」もそのひとつ。冷戦のパロディなのだが、気象兵器で本当に敵国の気温を下げてしまうところが笑える。ついには気温を絶対零度まで下げてしまうのだが、さてその先は…?バカと言ってしまえば確かにバカな話なのだが、それを承知で徹底的につきつめるのがSFのおもしろさである。
 それに、表題作「スローバード」やそのひとつ前に収録されている「ジョーンの世界」などは奇想は奇想ながら、結構情感もこもった作品である。バカ一辺倒というわけでもない(…一辺倒というのもそれはそれで面白そうだが)。 

・スーザン・グリーンフィールド「脳が心を生みだすとき」,草思社,1999.4
 「脳」についての入門者むけ解説書。同じ「サイエンスマスターズ」シリーズのカルヴィン「知性はいつ生まれたか」と内容的に重複するところもあるが、専門用語の説明や実例の引き方などは、本書の方がより親切だった。
 脳の個々の機能やしくみについてよりも、それらが連携してはたらく点に焦点をあてているのが特徴的。また実例として、ヘロインやコカイン、エスクタシーといったドラッグが脳にどういう化学的な影響を及ぼしているのかを説明しているのが面白かった。
 …しかし脳関係のどの本を見ても、最後は「まだ研究がはじまったばかりで謎が多い」。科学としては全く喜ばしいことではあるが、いかにも脳と心・知性の謎に迫ったかのようなタイトルは、やや偽りあり。

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 このぐらい離しておけば大丈夫だろうか。

 「心の穴」に耐えられず新興宗教に傾倒し、しだいに精神の均衡を崩していく男と、連続幼女殺害事件を追う警察エリート、両者の話が平行して語られる。一見すると、社会派推理である。新興宗教の描写は、元ネタが分かりすぎてしまうところには苦笑させられるが、なかなかリアルである。それに警察エリート・佐伯の沈鬱な立場や風貌もいかにも社会派っぽい。
 しかし、最後の最後で二つの話が接続するとき、これが社会派推理ではない…社会派推理だけではないことが明かされる。叙述ミステリに小気味よくだまされたときの快感を、久々に感じさせてもらった。
 それはそうと、登場人物の身になってみると、つくづく救われない話だなあ……。
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