読後駄弁
1999読後駄弁5月〜6月


・巽孝之編「この不思議な地球で〜世紀末SF傑作選〜」,紀伊国屋書店,1996.2
 90年代の作品を中心とした海外SFアンソロジー。ギブスン、スターリングからカードまで、豪華かつ多様なラインナップである。自然、作品の内容も多様になっているが、「宇宙をテーマにしていない」という点は一致している。
 最初は難解そうな印象があったし、実際印象どおりのもあったのだが、素直に読んで楽しいのもちゃんと収録されている。私にとって面白かったのは(カード「消えた少年たち」は別格とすると)、スターリング「われらが神経チェルノブイリ」。遺伝子ハッカーが跳梁する世界を未来の書評という形で描いたものだが、知性を持った犬やアライグマまで出てくるあたり、結構バカSFとしても読めるんじゃないかと思う。
 ディケンズ「存在の大いなる連鎖」も良。進化したコンピュータウィルスが機械ばかりか生物にまで侵入するというもの。「われらが〜」はグレッグ・ベア「ブラッド・ミュージック」のオマージュだということだが、ウィルスが全ての機械と生物を共生関係に取り込んでしまうというこちらの方が、「ブラッド・ミュージック」の雰囲気が濃い。
 フェミニズムSFも二点収録されている。マーフィー「ロマンティック・ラブ撲滅記」は、ある女性科学者が「恋愛症候群」のウィルスを発見しそれを撲滅してしまう話。こちらは別にフェミニズムを意識せずとも愉快に読める。ショッキングという点なら、もう一つのハンド「アチュルの月に」の方だろう。遺伝子改造で生殖用の奴隷が開発されているというだけでもすごいが、それが人間とコウノトリのキメラだというのは何というブラックジョークだろうか。出かかった笑いが途中でひきつりそうな感覚だ。

・佐藤賢一「双頭の鷲」,新潮社,1999.1
 百年戦争時代のフランスの名将、デュ・ゲクランの半生を描く。百年戦争を舞台にした小説といえば、ジャンヌ・ダルクものが多いが、この「双頭の鷲」は彼女の登場より半世紀以上前の話。だが、なじみのない時代の話で読みづらいか、という心配はまったく杞憂。序章「ポワティエ」を読むだけでだいたい背景はのみこめる。とまどうとしたら地名ぐらいだが、あまり気にしなくても、話の展開は損なわれない。
 主人公、ベルトラン・デュ・ゲクランは性格奔放、無学で礼儀知らず、体だけ大きくなった子供そのままのにくめない人物である。戦いにおいては当時の常識を覆す発想と戦略眼で、時代遅れの騎士道精神に凝り固まった武将たちを圧倒する。…とだけ書くと隆慶一郎あたりの時代小説のヒーローみたいだが、これに加えて、幼時体験のせいで重傷の女性恐怖症であるとしているところで、だいぶ様子が違ってくる。この隠された孤独とコンプレックスが、彼の軍事的な活躍と同様かそれ以上に重要なテーマになっている。戦争のきったはった(「戦略戦術」ともいう)に興味がない人でも、面白く読めるんじゃないかと思う。とくに功なり名を遂げてしまった後、迷走するデュ・ゲクランを描く物語終盤は、そちら指向の人にお勧めだ。
 もっとも、コンプレックスの書き方について言えば、デュ・ゲクランにしても敵役の黒太子エドワードにしても、幼時体験を強調しすぎるきらいがあると感じた。それに私はきったはったの方が好きなんで、彼が縦横無尽に活躍する前半、中盤の方が気に入っている。終盤の展開は、どうにもやるせなさすぎるし…。しかしこれは、やるせなさを感じてしまうほど物語に引き込まれてしまったということでもあるが。
 主人公を囲む人物像も、役者が揃っている。物語の副主人公格とも言える怜悧な主君シャルル5世、生涯のライバルにして友となるグライー、陰険な実弟オリヴィエ…などなど。なんかキャラクター的に「お約束」が揃いすぎなんじゃないかという気がしないでもないのだが、陳腐さを感じさせない名シーンが多いので問題なし。中でも勝ち目のない戦いで捕らわれたデュ・ゲクランとグライーが語り合うところは作品中一番好きなシーンである。
 だが一番気に入った登場人物となるとデュ・ゲクランでもグライーでもなく、デュ・ゲクランの従兄弟エマヌエルである。厳格で生真面目と主人公とは正反対の性格で、破滅型の従兄弟の筆頭顧問、というかマネージャーとして悪戦苦闘する。私はどうも強烈な個性に振り回される常識人、という役柄に惹かれるたちらしい(物語として、である。自分がやるのはパス)。

・ロジャー・ゼラズニイ「光の王」,ハヤカワ書房,1981.2
 遠い未来、死滅した地球を捨て別の星に移住した人類。そこで彼らはインド神話を模した世界を建設し、科学技術は超常の力を持つ植民第一世代…<神々>の独占するところとなる。だがやがて、再び人類の英知を人類全ての所有に戻そうと、<神々>のひとりが反乱を起こす。人は彼を<仏陀>と呼んだ…。
 インド神話の舞台と道具立てをそのままSF風に仕立てた作品。話の全体よりも、<神々>の繰り広げる戦闘シーンが印象に残った。超科学兵器と超能力をもった<仏陀>と<神々>、そして原住のエネルギー生命体<羅刹>まで巻き込んだ戦いの描写はなかなかの迫力である。
 ところで、主人公<仏陀>の最大の敵にして後に盟友となる<死の王>ことヤマだが、このヤマというのは仏教でいう閻魔大王のこと。お釈迦さまとエンマさまの共同戦線…日本のイメージで考えると何かヘンだ。

・田中芳樹文,幸田露伴原案「運命〜二人の皇帝〜」,講談社,1999.3
 明治の文豪、幸田露伴の同名短編のジュヴナイル版。さすがに原作の読んでいて酔ってしまいそうな名調子は割り引かれているが、人物に対する見方を変えたり、オリジナルのエピソードを加えたりと原作とは違った点での面白さがある。
 原作で私が一番気になったのは永楽帝の軍師道衍の扱われ方だった。形として主君に背くことになる燕王――後の永楽帝――を真正面から非難しない代わりに、彼を諫めないばかりか唆しさえした道衍に関しては権謀術数の怪僧と容赦ない。儒教道徳からいけばそうなるのだろうが、現代の視点からするとやはり一方的すぎる見方である。それをこのジュヴナイル版では、道衍批判の一節を取り除きニュートラルな視点で描いている(それでも皇名月のイラストは悪人顔だなあ…)。
 道衍の件に限らず、永楽帝、建文帝どちらの側にも護るべき正義があった、とする視点は物語全体を貫いている。その点で一番のハイライトシーンは永楽帝と方孝儒の対決シーンだろう。「絶対でない正義のぶつかりあい」というのは田中芳樹の得意とするパターンである。
 また原作にはない登場人物として、鄭和、イシハ、侯顕の3人が登場する。登場のさせ方にちょっと取って付けたような感じがあるので、良し悪しは意見が分かれるところだろう。だが鄭和の大航海は明時代の一大事件だし、彼の登場は外せないところだ。あとの二人は史実上の活躍よりも、田中芳樹の好みからの登場だろう。そう言えば田中芳樹の短編集「長江落日賦」にはイシハが主人公の「黒竜の城」が収録されていたな…。
 上の3人はいずれも宦官なのだが、この「宦官」の説明を少年少女対象の話でどう説明しているのかは、ちょっと意地の悪い興味をひかれるところだ。見ると「…もともとは男なのだが、手術をして、男でなくしてしまうのだ。…」、さらりとかわしている。うーん、はっきり「切っちゃった」とは書けないか、やっぱり。

・ロバート・L・フォワード「ロシュワールド」,ハヤカワ文庫,1985.8
 わずか80キロの距離を隔てて互いに回転する二重惑星系「ロシュワールド」――あまりに近距離のため一方の星の海がもう一方の星へ大瀑布となって落ちたりする――での探検と、ファーストコンタクトを描く。
 「ハードSF」を「ハードウェアのSF」と解するならばこれはその最右翼にあたるだろう。他の恒星系に行くための宇宙船の仕組みや、そこにたどり着くための加速/減速の方法、探索のための装備などがこと細かに説明されている。そして目的地である二重惑星系ロシュワールドの天文学的、物理学的な特性にも詳細な解説を惜しまない。この部分を退屈と感じるかどうかで作品の好き嫌いは確実に分かれる。
 一方で、登場人物の性格設定とか人間関係などは、ほとんど余計事とばかりに切り捨てられている。例えば、この探検隊はいったん旅立ったら再び地球に戻ることはできないという深刻な設定なのだが、それについての隊員の葛藤などはまったく描かれることはない。だが、これは宇宙旅行のハード面を徹底して浮き彫りにするという意味で、プラスに評価される点だろう。…ただ、登場人物の個別認識がなかなかできないという難はあるが。
 だが「ロシュワールド」の知的生命体<フラウフェン>や、彼らとのファーストコンタクトについては、それに較べるとハードさを抑えてあるようだ。異星の不定形生命体と、ああも簡単にコミニュケーションが確立できるものだろうか?(…ソラリスの<海>みたいになるのが関の山じゃないか?)

・J・M・ディラード「スタートレック・叛乱」,ハヤカワ文庫,1999.4
(註・この本を読んだ感想と言うよりは元の映画の感想になってしまったが…)

 映画版スタートレックは奇数作目がハズレというジンクスがあるのだが、今回9作目になる「叛乱」はとうとうこのジンクスを破ったのではないだろうか。
 舞台となる惑星バ・クーが「不老長寿の星」というのは、SFの設定としてどうにも安直ではある。それに「スタートレック・春の2時間スペシャル!」(笑)という評があることからもわかるように、小さくまとまってしまったという感も確かにある。だが、なじみの登場人物が繰り広げるドラマという点では、ツボを押さえたとても「STらしい」ものに仕上がっている。
 目立っているのは上官に対する不服従を決行するピカード艦長と、あとはやっぱりデータ。せっかくの不老長寿も、アンドロイドのデータにとっては意味がない。ニキビができてしまった、この齢になってまた胸が大きくなったと騒ぐ他のクルーをうらめしげに、うらやましそうに睨むデータの姿は笑いを誘う。また、バ・クー人の少年との交流も微笑ましく、ポイントが高い。
 他のメンバーも上の2人ほどではないにしろ、それぞれ見せ場が割り振られている。とくによかったのは、初めて肉眼で朝日を見ることができたラ・フォージュ機関長(しかし不老長寿や若返りがあったとしても先天的に見えない眼が見えるようになるのはおかしいとは思うが…)。バ・クー人を犠牲にして不老長寿を手に入れようとするソン・ア人やドハティ提督に従えば、そのまま視力を持ち続けられる。だが、叛乱を決意したピカードに賛同して彼はこう告げる、「ここの住民を犠牲にして、日の出を見るつもりはありません」と。
 以上、十分に満足のいく作品だったということを強調しておいて、それでもなお難点を挙げる贅沢を許してもらうとすれば、次の2点。「小さくまとまった」という感想が出るのも多分このせいだろう。
 まず、「叛乱」という題名ほどには、ピカードらの行動が差し迫ったものにならないこと。ピカードは例の「基本命令」の精神に従って、ドハティ提督の直接命令に違反する。確かに上官への不服従というのは軍隊では大罪だが、宇宙連邦の理念に忠実なのはピカードの方なので、「叛乱」の語から想像されるのとはとはかなりニュアンスが違う。そのせいもあってか、「叛乱」を決意するまでのピカードの葛藤もさして描かれない。この辺りでピカードやクルーがもっと切実に悩むところがあれば、上で挙げたラ・フォージュのシーンももっと感動的になっただろうに。
 次に、バ・クーの不老長寿を奪おうとするソン・ア人の目的が、実はただの怨恨だったことになってしまうこと。最初、彼らの行動は「宇宙連邦の数多くの人々に不老長寿の恩恵を及ぼすためにバ・クー人を犠牲にする」と説明される。いわゆる「大の虫小の虫」というやつである。この論理の不当さ、残酷さに反発しての叛乱であるわけだ。ところがその理屈はまったくの虚偽で、実はソン・ア人が、かつて自分たちを追放したバ・クー人を恨んで事を企んだということ判明する。これによってピカードの行動が一気に正当化される一方、「多数の利益のためとはいえ少数が犠牲になってもいいのか」という当初の問いかけは棚上げされてしまう。ここは多少物語としておさまりが悪くなっても「怨恨」などで事を矮小化させず、ソン・ア人たちにも一面の理があったという話にした方が、より深みが出たはずだ。
 だがしかし、あんまり深刻な「叛乱」にしてしまってはピカード艦長が軍法会議でクビ、ということになりかねない。次を作れなくしてしまっては元も子もないか…。
 ところで、ノヴェライズの方だが、まず映画に忠実なつくりだった。ソン・ア人だがピカードに協力することになるガラティンの心理描写などは映画をうまく補完してくれる。だがもうちょっと小説オリジナルの設定などがあっても良かった。

・猪木武徳・高橋進「世界の歴史29・冷戦と経済繁栄」,中央公論新社,1999.4
 1950年代から東西ドイツが統合された1989年まで。それにしても、「冷戦時代」が歴史の本で扱われるような時代になったか。自分が「冷戦」の現実を身近に感じていたなどということは全くないのだが、それでも多少の感慨めいたものはある。当時はソ連がなくなるなんて考えもしなかったしなあ…。
 しかし、歴史として扱うと言っても、「これについてはまだ資料が公開されていない」という部分がここそこに見られる。生きている人間や社会の利害が絡むうちは、やはり完全な「歴史」にはならないものらしい。厳密に言えば「完全に公正な歴史」など存在しないだろうが…。

・マイク・レズニック「キリンヤガ」,ハヤカワ文庫,1999.5
 今や自然の姿を失ったケニアを捨てたキクユ族は、小惑星コロニーに民族の伝統と純血を守るユートピアを建設した。その名は「キリンヤガ」。ヨーロッパで一流の教育を受けながらキクユ族のムンドゥムグ(祈祷師)となった老賢人コリバの苦闘を8話の短編で綴ったオムニバス。
 西洋文明によって築かれ、管理される小惑星で、それに完全に背を向けた社会キリンヤガ。そこに暮らす人々はさまざまな矛盾、問題に直面していく。文字を学ぼうとしてタブーを犯す少女(第2話「空にふれた少女」)、コロニーの一員になろうと努力して果たせなかった文明人の女性(第4話「マナモウキ」)、家族の中で居場所を失った老人(第5話「ドライ・リバーの歌」)、キクユ族としての人生に意味を見いだせなくなった若者たち(第6話「ロートスと槍」)…。どの話でも、キリンヤガを「人間本来のシンプルな生活」と無責任に礼賛することもできなければ、伝統と掟を頑なに貫こうとするコリバを固陋な老人と割り切ってしまうこともできない。「ユートピアを守るためには全ての変化を拒まねばならないのか?」「近代文明は結局伝統文化とは相容れないのか?」投げかけられる問いは私たち読者を考え込ませる。
 私としてはやはり「空にふれた少女」のように文字を習いたいがためにタブーを犯した少女が悲劇に陥らねばならない社会を「ユートピア」だとは思えない。しかしその一方で、コリバが自ら守ろうとした「ユートピア」に裏切られたことが残念でならないという矛盾した思いにもとらわれるのである。
 テーマとしてはかなり重たいものなのだが、それがまったく負担に感じられないほど語りも巧みである。著者あとがきで収録の各話が受賞した、あるいはノミネートされた賞がずらずらと挙げられているが、そんなアクの強いことをしなくても、傑作であることは読めば間違いなく感じられる。

・ジャレド・ダイアモンド「セックスはなぜ楽しいか」,草思社,1999.4
 タイトルから想像されるよりは硬い内容の本である。人間の性行動は動物一般からするとかなりヘンなものなのだが、そのヘンさがどうして進化したのかを解説したもの。ちなみにタイトルはある章の表題からとったもので、なぜ人間は発情期がなく、妊娠しないことが分かりきっていてもセックスができるように進化したのか、というテーマである。
 面白かったのが「なぜオスは授乳しないか」。オスが子どもに授乳しないのは、当然その方が進化上有利だったからだが、機能的にはオスも乳腺を発達させて授乳できるようになることは可能らしい。実際、ある種のコウモリでは、乳腺を発達させたオスが発見されているそうである。なんと人間でも、男が授乳できるようにするための医学的な困難はすべて克服できるらしい。そしてオスが授乳しないことの進化論的な利点は、現在の人間ではほとんど失われている。
 むしろ心理的、社会的な困難が一番の問題だということだ。そりゃまあ、そうだろう。ヒゲ面のおっさんが赤ん坊に母乳(いや、父乳か)をやっているのを見ても、母親がそうしているのを見たときのような微笑ましい気分には、ちょっとなれそうにない。それが差別だと言われれば、確かにそうなのだろうが。そう言えば、性転換したり、両性具有だったり、無性だったりするSFはあるが、男性が授乳するシーンがあるのは読んだことがないな…。

・オリヴァー・サックス「色のない島へ」,早川書房,1999.5
 「赤緑色盲」といえば、わりとよく聞く障害だが、色が全く判別できない「全色盲」というものも存在する。通常は何万人に1人という稀な遺伝病なのだが、なんと人口の1割近くが全色盲というピンゲラップ島がミクロネシアに存在する。
 また私たちにとっても身近なグアム島では、四肢麻痺や痴呆をともなう原因不明の神経病と隣り合わせで暮らす住民がいる。  「レナードの朝」「火星の人類学者」などの著書で有名な神経医オリヴァー・サックスがそれらの島々を訪れた紀行文。病気や患者を冷静に観察し記録するのではなく、病気や障害とともに生きる人や社会のようす、それと出会った感動をあたたかく語っている。
 サックスの同行者に、ノルウェー出身の自身も全色盲の研究者がいるのだが、彼とピンゲラップ島民とが初めて出会うシーンはとくに印象的だった。


・アルカジィ&ボリス・ストルガツキー「ストーカー」,ハヤカワ文庫,1983.2
 謎の異星人が来訪し、去った跡地”ゾーン”。そこには人智を越えた数々の遺物が残されている。原理は分からないながら人類が利用できるもの、原理も用途も分からないもの、そして人の命を奪うもの…。このゾーンに不法侵入し、遺物を持ちだすことを生業とする者たちがいる。人は彼らを”ストーカー”と呼んだ…。
 一応ファーストコンタクトもの、ということになるのだろうか。だが異星人の正体は一切不明のまま。コミュニケーションをとるどころか、彼らが地球人を認識したのかさえ分からない。例えば私たちがピクニックに行っても、その場所にいた虫などを意識しないように、地球人など眼中に入らなかったのかも知れないのである。
 一方、地球人は地球人で、異星人と遭遇したからといって特に進歩するわけでもない。人類の最前線に立っている…はずのハーモントの住民は学者もストーカーも、相も変わらず「人間」である。少し滑稽で、少しうす汚れていて、そして少しは気高い。

・中島梓「コミュニケーション不全症候群」,ちくま文庫,1995.12
 過密化と競争が激化する現代、それでも生きていかねばならない弱者は社会に過剰適応する道を歩む。おタク、JUNE、ダイエット症候群…。これら「コミュニケーション不全症候群」の原因と心理を的確にとらえた名評論。
 読んでいると「コミュニケーション不全症候群」であることが何やら悲壮なことのように思えてしまうのだが、実はこの症状の一番の問題は、そうであることが結構楽しいということである(ダイエット症候群は別だろうが)。だから「別にいいじゃないか、誰に迷惑がかかるわけでもなし」ということになってしまう。その考え方自体に危機が潜んでいるのだが…。
 もっともこの本は、だからコミュニケーション不全症候群を撲滅しよう、というのではなく、理想的にはそれを昇華するか、少なくとも折り合いをつけてやっていこうというものである。

・ジャック・フィニィ「盗まれた街」,ハヤカワ文庫,1979.3
 サンタ・マイラは人口数千の平凡な町だった。そこに住む医師マイルズに知人たちが奇妙なことを訴えだした。自分の親が、子が、兄弟が偽物だというのだ。顔かたちも同じ、記憶も確か、しかしそれでも本人ではない、と。風変わりな集団ヒステリーとして片づけられようとした事件は、マイルズが地下室でみつけた「もの」から思わぬ展開をみせる。
 …いや、「思わぬ展開」とは書いてみたが、話が侵略テーマだと分かっていると、それほど意外な展開にはなってくれない。主人公たちが、自分たちが集団ヒステリーなのかどうかで迷うあたりは結構緊迫感もあっておもしろいと思ったのだが、いざ異星生物の侵略だと分かって以後はいまひとつ盛り上がれなかった。ラストもちょっと唐突。「獰猛な地球人をおそれて寄生生物は逃げてしまいました。」ではなあ…。
 多分、この異星生物の失敗はサンタ・マイラのような小さな町から侵略をはじめてしまったことだ。隣人、下手をすれば家族に対してすら無関心になりがちな現代の大都会だったら、彼らはたやすくはびこったことだろう。

・下斗米伸夫・北岡伸一「世界の歴史30・新世紀の世界と日本」,中央公論新社,1999.5
 あしかけ2年半にわたった刊行も今回で最後。東欧革命から現在に至る同時代史を解説する。対象地域が全世界なので個々の解説はかなり駆け足だが、さすがにポイントはうまく押さえられている。コソボ問題やアジアの金融危機など、ニュースの見方を変えてくれるだろう。
 それにしても、現代というのはつくづくよく分からない時代だと思う。ヨーロッパなどで統合が進んでいるからグローバル化が世界の風潮なのかと思えば、別の地域では民族紛争で元あった国家さえ四分五裂している。韓国、南アで民主化が進む一方で、開発独裁、軍事政権も数多い。この時代が高校教科書に載るようになった未来、「20世紀はこのような時代であった」と表現することが果たしてできるのだろうか。
 ところで、9章「模索する日本」では鈴木内閣から現在の小渕内閣までの日本の政治史について述べられている。中曽根内閣について結構積極的な評価をしているのだが、あの人ってそんなにたいした人なのか?

・栗本薫「グインサーガ66・黒太子の秘密」,ハヤカワ文庫,1999.6
 ナリス・スカールご対面の後半戦。このごろ影を薄めていたSF色がここ数巻で戻ってきたな…。
 前々から思っていたのだが、今回改めて感じたことがひとつ。「アルド・ナリスには善玉は似合わない」ということである。彼のキャラクターの最大の魅力は「純粋さを秘めた悪魔」であること。「いい人」めいた部分が混じっていると中途半端に感じてしまうのは私だけだろうか。

・森博嗣「すべてがFになる」,講談社文庫,1998.12
 少女時代に両親殺害の容疑をかけられて以来、何人とも接触することなく生きてきた天才プログラマ、真賀田四季。他人との会話でさえ映像を介してしか行わなかった彼女が、研究所の密室で変死をとげた。コンピュータに残るメッセージ「すべてがFになる」は何を意味するのか。N大助教授犀川創平と学生西之園萌絵が謎に挑む。
 理系ミステリということで、文系人間の私が読んで分かるのか少々心配だったのだが、とくに引っかかることはなかった。ただ、トリックがコンピュータがらみでそれ関係の用語も多く出るので、コンピュータになじみのない人には、今一つピンとこないかも知れない。
 根幹となる殺人事件とそのトリックも面白いが、それ以上に登場する研究者たちのキャラクターに惹かれるものがある。被害者(?)となる真賀田四季も探偵役の犀川もかなりエキセントリックな天才。彼らの会話についていくのに疲れたときには、ちょっとズレたところのある西之園萌絵のシーンがいい休憩になってくれる。…とはいえ、彼女自身も十分天才の部類に入る人間なのだが。
 ミステリでおなじみの、関係者が一堂に会する大団円シーンをVR世界でやるというのは、ユニークと言えばユニークだが…ちょっと遊びが過ぎるという気もする。

・ブライアン・オールディス「地球の長い午後」,ハヤカワ文庫,1977.1
 文明世界が滅亡して何万年後か、何億年後か。地球すでに自転をやめ、一方の側を常に太陽に向けている。その永遠の昼が続く側では、さまざまな進化を遂げた植物が繁茂していた。大陸を覆うまでに巨大化したベンガルボダイジュ、知性を持った寄生キノコのアミガサダケ、そして地球と月の間に糸をかけ宇宙を渡る、全長1マイルに及ぶ蜘蛛型植物ツナワタリ。地球の支配者の地位を追われた人類は、それでも植物の間で細々と生活…いや棲息していた…。
 裏表紙の紹介文を読むと主人公である人類の末裔、グレンは積極的に道を切り開くヒーローかとも思えるのだが、実際はかなり情況に翻弄されるタイプである。ラストで示すことになるある決断が、ほとんど唯一の能動的な選択であるようにも思える。それさえもアンチ・ヒーロー的だ(アメリカSFだったら絶対逆の選択をするだろうな…)。
 それはそれとして、やはり一番の読みどころは奇妙な発達を遂げた植物の描写だろう。文章から想像を膨らませるのも面白いが、ここはぜひ挿し絵が欲しかった。「アフターマン〜人類衰退後の地球を支配する植物たち〜」(<−元ネタ、知ってます?)を巻末付録に付けるとか。

・ピーター・デイヴィッド「新宇宙大作戦・ヴェンデッタ」(上下),ハヤカワ文庫,1999.6
 基本的にはシリーズ最強の敵としての地位が確立して久しいボーグもの。これに元祖スタートレック(TOS)「最終破壊兵器」(TV題名「宇宙の巨大怪獣」邦訳TV題名はつくづくセンスがない)のエピソードを絡めるという、古手のファンには非常にうれしい話である。
 他にもTNG「浮遊機械都市ボーグ」のシェルビーや同じく第2シーズンレギュラーのドクター・プラスキー、またTOS「ソリアの蜘蛛の巣」(TV題名「異次元空間に入ったカーク船長の危機」まったく、邦訳TV題名は…)のソリア星人などが顔を出す。
 作品が書かれたのは1991年、まだTNGの終了前である。その後のエピソードと較べるとガイナンの設定などに少々違和感が感じられるが、話が損なわれるほどではない。
 「最終破壊兵器」を駆る美女デルカラとピカードのファンタジックな、しかし苦さを含んだロマンス、そして彼らとボーグとの戦闘が話の軸となる。ピカード・ファン向け、と言える。ただ、わたしもピカードのファンなのだが、デルカラのような本来異質な存在がピカードの存在ひとつで簡単に動揺するのは、少々安物くさいとも感じられる。あまりにもピカードを「特別な存在」として扱いすぎてはいないか。
 もう一人、今回の中心になっているのは、ラ・フォージュ機関長。ボーグ化された女性を保護し、元の人間に戻そうと奮闘を重ねる。好感の持てるエピソードなのだが、主軸となるピカードのエピソードとほとんど別個に話が進行してしまっているのが残念。ピカードのエピソードの影でどさくさのように結末を迎えてしまっている。
 ピーター・デイヴィッドのスタートレック小説は以前にも「エンタープライズ狂想曲」が邦訳されている。「〜狂想曲」はドタバタ喜劇、「ヴェンデッタ」はシリアスと、まったく傾向の異なる作品なのだが、キャラクターの会話の端々に表れるユーモア感覚、アメコミを彷彿とさせる決めシーンなどには、共通したものが感じられる。

・八木原一恵編訳「封神演義」,集英社文庫,1999.3
 三千年前の殷周革命を舞台に、人間、神仙、妖怪が入り乱れて戦いを繰り広げる一大絵巻。
 小説として全部を読み通すと、似たような場面は続くし、伏線なしのデウス・エクス・マキナは連発するしで、よくできているとはちょっと言えない。個々のエピソードは結構楽しいので、元々あったような、一話完結の芝居や講談の形で魅力を発揮するものなのだろう。
 一応主人公は、殷を討伐する天命を得た周の軍師、太公望・羌子牙なのだが、彼自身が大活躍するわけではない。ちょっと出て見得を切っては大敵に遭って追いつめられたり、策に窮したりする。「三国志」の劉備や「西遊記」の三蔵法師と同じ役回りである。だいたい彼は「七死三災」、つまり7回死ぬような目に遭い、3回の災いを経た後に功が成る、という運命を負っている。なんでそんな危なっかしいヤツを総大将にするんだ、と言いたくなるが、吉も凶もコミで天命なので仕方がないのである。
 表舞台で活躍するのは、羌子牙の下に集う武将や道士、飄とあらわれては力を貸す神仙たち。彼らとかれらの使う様々な宝貝(宝物。RPG風にアイテム、というとイメージがわく)が本当の主人公だろう。とくに、やんちゃな宝珠の化身・那咤(なた・字が違うんだが…これが一番近い)と変化自在のトリックスター・楊晋戈(ようせん・こいつも字がない。晋戈で一字分)が際だっている。
 ゼラズニィは「光の王」でインド神話をSF化したが、この「封神演義」はそれ以上にSF化しやすいネタだろう。とりあえず、那咤はアンドロイドだろうな…。

・羽田正「勲爵士シャルダンの生涯」,中央公論新社,1999.6
 17世紀、2度にわたりイラン・インドを旅した大商人、ジャン・シャルダンの生涯を追い、彼が生きた2つの世界・当時のヨーロッパとイスラムを対比する。
 テーマとなっているシャルダンは、とくに著名な人物、というわけではない。サファビー朝時代のペルシアについて克明な紀行文を残していることから、研究者の間では名が知れているとはいえ、彼の故郷フランスや後半生を過ごしたイギリスでさえ、一般に注目されることは少ない。まして日本ではまったく無名の人物である。だが、巨大な事績を残した文化人や政治家などでないだけに、当時の一般的な人々が何を考え、行動したかについては、多くのことを示してくれる。…まあ、彼の人生自体はかなり波瀾万丈なので、言うほど「一般」でもないのかも知れないが。
 本書で大きく取り上げられているものの一つがヨーロッパ社会とイスラム社会との対比、とくに宗教的な寛容さの違いである。シャルダンの生きた17世紀では、ヨーロッパよりもイスラム世界の方が、多くの点において寛容な社会であった。ヨーロッパ諸国で行われいたような国家による宗教弾圧は、シャルダンが訪れたペルシアではほとんど見られない…もちろん差別がなかったわけではないにせよ。
 これについて、イスラム教、イスラム世界が倫理的により発達していた、とだけ見るのはヨーロッパに対し不公平かも知れない。ヨーロッパ諸国は自国民により積極的に関わろうとしたのであって、宗教画一化への指向はその表れの一つだ、とも言える。これも悪く言えば支配を強めようとした、ということだが、支配下においた以上はそれらを保護する責務も生じてくる。シャルダンは旅先の、例えばイスタンブールなどでは自国の代表であるフランス大使の保護を期待できた。このヨーロッパ諸国が「近代国家」の原型となるのは言うまでもない。
 一方イスラム国家は、税収と治安さえ確保できればあとは良くも悪くも無関心、といった姿勢である。支配は緩やかかもしれないが、その分保護されることも少ない。そもそも当時イスラム圏の人間が自分たちを「オスマン・トルコ人」「サファビー朝人」と名乗ること自体なかっただろうが。
 問題は倫理だけではなく、国というものの認識の差もあった。とはいえ、カトリック国フランスでプロテスタントだったシャルダンのように、宗教的マイノリティに属した人々にとっては、ペルシアはより望ましい世界に感じられたことだろう。

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