読後駄弁
1999読後駄弁7月〜8月


・笠井潔「機械じかけの夢〜私的SF作家論〜」,ちくま学芸文庫,1999.2
 買ったのは少し前だが、テーマになっている本をあと何冊か読むまではとりかかれないので、ずっとあと回しになっていた。
 文中に哲学・現代思想の用語が容赦なく登場するので、読むのにやや骨が折れる。論旨は明快なので、大筋は解る…解っているつもりなのだが。全部消化できたかというと、あまり自信がない。
 SF論の先駆け、オールディス「十億年の宴」では、SFの起源をシェリー「フランケンシュタイン」においているが、この本では「フランケンシュタイン」がSFの「S」…科学をレトリックとして使いきれていないことに着目し、まだ過渡期の作品と評価している。つまり、近代において聖書に代わる権威となった科学をレトリックとして取りいれた文学がSFの核心なのだと。そして、科学を「支配的」と意識しつつ、あくまでそれをレトリックとして使うことで科学との距離感を保つという「狭い尾根道」がSFの王道だとしている。…ちょっと堅苦しいとは思うが、科学小説であるがゆえに、科学を批判できたというのは好ましい考え方だ。
 上のようなことが論じられる第一章「支配的修辞としての科学」のあと、ヴァン・ヴォークト、クラーク、小松左京、アシモフ…(中略)…ル・グィン、そしてギブスンと各作家が論じられる。私としては小松左京と彼の代表作「果てしなき流れの果てに」を扱った「第四章・宇宙精神と収容所」が最も面白かった。
 クラーク「幼年期の終わり」では人類がより発達した存在に支配・管理されるが、それに対する人類の反抗がほとんど描かれなかった。小松左京「果てしなき流れの果てに」ではこの「管理に対する反抗」が主題として展開されている……と。私は「果てしなき〜」を読んで感想を書こうとしたとき、そのビジョンの大きさにどこから筆を進めればいいのかととまどった覚えがある。この小論を読んではじめて考える足場を見つけられた思いだ。

 ところでちょっと疑問に思うことが一つ。この本でも「十億年の宴」でも、J・P・ホーガンやロバート・L・フォワードらの「ハードSF」について論じられることがほとんどない、ということである。上であげたようなSFの考え方からすれば、ハードSFはあまりにも科学べったりにすぎる、ということなのだろうか。この本のあとがきでは「ホーガン流の新ハードSFはレーガン時代のアメリカに過不足亡く照応するような、新保守主義時代の新保守主義的SFであるにすぎない」と、ほぼ一刀両断である。たしかに、ホーガンはアメリカ万歳ぶりが鼻につくしことがあるし、SDIのプロパガンダとしてハードSFが利用されたということもあるのだが…。

・ジェイムズ・ティプトリー・Jr.「星ぼしの荒野から」,ハヤカワ文庫,1999.3
 先日図書館に寄贈されたのを「自分が持って帰りたい」と掲示板に書いたら、司書のモラルを守るためか、踊るらいぶらりあんさんが早速譲ってくれた。感謝。
 収録作の最初の方と最後の方とでは、作品の雰囲気がかなり違うな…と思っていたら、前半の4作はラクーナ・シェルドンの作として発表されたもので、後半6作がティプトリー名義のものだとのこと。ラクーナ・シェルドンの方はよりテーマ性がはっきりしているというか、挑発的というか…。とくに「おお、姉妹よ、光満つるその顔よ!」と「ラセンウジバエ解決法」の2作。「ラセンウジバエ〜」は正直なところ最初の3ページぐらいで展開を予想できるのだが、それでもなお話に引き込まれる。ただ、ラストで黒幕を登場させてしまうのは蛇足かなあ。
 ティプトリー名義の方は、苦みをアクセントにした叙情作。「われら<夢>を盗みし者」と「たおやかな狂える手に」が良かった。前者は強大な地球人の圧制をのがれ、船を奪って旅立つジョイラニ人の物語。皮肉なラストが記憶に残る。後者は「ビームしておくれ、ふるさとへ」(「故郷から一〇〇〇〇光年」に収録)の拡大強化版。絶望的な疎外感と脱出への渇望は、ティプトリー自身が感じ続けていたことなのだろうか。

・樺山紘一「世界の歴史16・ルネサンスと地中海」,中央公論社,1996.11
 この「世界の歴史」の刊行が開始されたとき、第1回配本となったのがこの巻。イタリア・ルネサンスの歴史を春・夏・秋になぞらえて解説。西洋史に不案内な人でも興味を持続できる構成と文章になっている。
 一般に、ルネサンスを可能にしたものは、イタリア諸国が地中海貿易で得た富であると説明されている。本巻でもそれが大きな要因であったことは否定しないが、同時に鉱産資源の開発、農業の興隆など、よりきめ細かな考察も展開される。商業、サービス業のみに視線を集中させるのではなく、その基盤となる第一次、二次産業も等閑にしない、というふうに見れば、これは現代にも一脈通じるものがあるかもしれない。
 社会的な考察も面白いが、ルネサンスと言えば、まずなんと言っても個人が光る時代である。レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロといった天才たちの。本書でも「インテルメッツォ<ひとびとの肖像>」と題する断章で時代を彩った様々な才能を紹介している。


・パット・マーフィ「落ちゆく女」,ハヤカワ文庫,1990.11
 古代マヤの遺跡で発掘調査に携わる考古学者エリザベスは、はるか過去に実在したマヤ人たちの姿を幻視する。女神官スーイー・カークが語りかけるのを聞くことさえ、彼女にはできるのだった。折しもエリザベスがかつて捨てた娘ダイアンが遺跡を訪れた。スーイー・カークがエリザベスにほのめかす「予言」とは…。
 SFというよりもファンタジー、少しホラー、そしてその両者よりずっと普通小説に近い雰囲気の作品である。不器用に牽制しあい、傷つけあい、それでも相手を理解しようとする母娘の描写が真に迫っている。エリザベスの著作の一節、という形で挟まれる断章も面白い。ちょっと話が地味すぎて盛り上がらない気はするが…。
 主人公母娘をはじめとする女性キャラクターがリアルで魅力的な一方、男性陣はしょうもない男たちがそろってしまっている。唯一の例外はエリザベスの同僚トニーで、彼は本当にいい人なのだが…。物語中の「いい人」は、えてして不幸に陥ってしまうようである。

・草上仁「東京開化えれきのからくり」,ハヤカワ文庫,1999.7
 時は維新の興奮冷めやらぬ明治6年、西洋文物の奔流に戸惑いつつも賑やかな東京が舞台。元岡っ引きの善七は奉行所与力の…ではなく今は取締組少警部の宮本に頼まれ、「探偵」として現場に復帰した。とある殺人事件を追ううち、彼らは東京中を巻き込む大陰謀に巻き込まれていく。
 …と書けばなにやらシリアスだが、そこは軽妙洒脱が売りの草上仁、ドタバタも交えながらからっと楽しく読ませてくれる。登場人物の江戸っ子ぶりが何ともさわやかだ…関西人としては認めてしまうのが多少シャクなことではあるが。
 なお、後書きには少しではあるがネタばらしっぽい所があるので、先に読まないように忠告したい(私は、読んでしまった…)。

・浅田次郎「極道放浪記〜殺られてたまるか!〜」,幻冬舎アウトロー文庫,1998.8
 「鉄道員」や「日輪の遺産」のような感動的な作品を書く人というのは、どんな人生を歩んできたのだろう。さぞ豊かな人生経験をがあるに違いない…などと考えていたのだが、変なところで豊かすぎるぞ、この人の「経験」は。
 「整理屋」…つまりは金融極道として鳴らした二十代の浅田次郎が語る「悪」のテクニック。エリートサラリーマンのゆすり方、金持ちのボンボンから大金を巻き上げた奇抜な作戦、極道ばかりが巣くうマンションでのエピソードなどなど、コワ面白い話が並んでいる。あまり面白すぎて、どこまでが本当でどこまでがホラなのか分からないところがあるが、分からないならいっそ、全部真に受けて楽しんだ方が得、というものである。

・川勝平太「文明の海洋史観」,中公叢書,1997.11
 「ヨーロッパの近代は、アジアの海洋文化と接触したことから始まった」という命題のもとに展開される4つの論考。全般的に日本の歴史的な役割を重く見過ぎているような気がしたり、「結之章・二十一世紀の日本の国土構想」が政策プロパンガンダみたいだったりと、多少引っかかりを覚える内容だったが、これまで陸地からの視点でしか見ていなかった歴史を海洋から洗い直す、という姿勢は新鮮だった。
 日本の歴史授業の問題点にもふれ、歴史を「日本史」と「世界史」、また「東洋史」「西洋史」に分けてしまうのは、視野の狭い「タコツボ型」の学問形態だと批判している。多分教科書は、太平洋戦争についての記述の仕方とか、国旗や国家がどうとか言う以前に、もっと根本のところで見直す必要があるのだろう。

・塩野七生「チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷」,新潮文庫,1982.9
 15世紀末から16世紀はじめ、イタリアで教皇権力をバックに勢力を張った梟雄の史伝。今でも「ボルジア家」と言えば毒殺者の代名詞である。日本で言えば、斎藤道三か松永久秀といったあたりだろうか。同時代でも後世でも、その生き様は糾弾をまぬがれ得ない。
 だが、その冷酷さは無原則に発揮されたわけではない。「優雅なる冷酷」の題名通り、チェーザレ・ボルジアの苛烈な行動は、常に時と場所を得たものだった。それゆえに一層、憎まれるのかも知れないが…。
 それと注目したいのはチェーザレに寄せられる忠誠の、意外なまでの厚さである。本書で見る限り、彼は近臣からの裏切りには遭っていない。チェーザレの失脚後も彼の復帰を求めて抗戦を続ける領地があったことからして、恐怖政治で縛りつけた結果とも思えない。少なくとも味方や臣下にとっては、彼は恐ろしいながらも頼れる存在だったのだろう。マキァベリが「君主論」のモデルに彼をすえた所以である。
 つきしたがう人間を華々しい闘いで死なせる英雄と、冷酷だが合理的な方法で野心を実現する梟雄と、どちらが君主として望ましいのか、なかなか考えさせられるところだ。

・梶尾真治「クロノス・ジョウンターの伝説」,ソノラマ文庫ネクスト,1999.6
 わずかな間だけ過去にさかのぼれるが、使った人間はその反動でさらに遠くの未来にはじき飛ばされるというタイムマシン、「クロノス・ジョウンター」。この機械にまつわる3人の「軌跡」――そして「奇跡」を語る連作短編。
 読後感はハインライン「夏への扉」そのままである。「そんな都合のいい話があるかい!」と頭で考えつつも、もっと奥のところで物語に感動している、という。
 3つの話の中では最初の「吹原和彦の軌跡」が最も印象に残る。他の2つと違って手放しのハッピーエンドではないのだが…。ラストの演出がうまい。人がこの主人公のような行動をとるとき、その動機は必ずしも誰かへの愛だけではないだろう。意地とか自分の存在した証とか、とにかく利他的一方ではないはずだ。たとえそうであっても…彼の行動の「純粋」さが損なわれることはないと思う。別にケチを付けているわけではない。

・スタニスワフ・レム「砂漠の惑星」,ハヤカワ文庫,1977.12
 行方不明になった宇宙艦コンドル号捜索のため、無敵号は<砂漠の惑星>に着陸した。惑星には海に生命がいるにも関わらず陸地にその痕跡はなく、都市状の廃墟と金属の<植物>そして謎の<黒雲>があるだけ。調査と幾度かの危機に見舞われた後、無敵号の乗員たちはある「仮説」にたどりつく。
 レムは「ソラリスの陽のもとに」で人間の認識を越える「海」を登場させたが、この作品でも人間とは質的に異なる存在――自然淘汰にさらされた機械――がテーマとなっている。サイバネティックス的に解釈した「進化」のモデル、ナノテクのはしりのような部分さえ見られるのは、30年以上も前の作品なのに、さすが、というべきか。

・コードウェイナー・スミス「ノーストリリア」,ハヤカワ文庫,1987.3
 毎度のことながら、コードウェイナー・スミスの物語は書きだしが巧い。「ひとりの少年が地球を買い取った。少年は地球へやって来て、なみはずれた冒険を重ねたすえ、自分の欲しいものを手に入れて、ぶじ帰ることができた。…それがお話だ。さあ、これで読まなくてもいい」と。こう来られると先を読まずにはいられない。
 しかしこの「ノーストリリア」単独で非常に楽しめるかというとちょっと苦しいかもしれない。とりあえず主人公ロッド・マクバンの冒険を追うだけなら、他の「人類補完機構」ものを読んでいなくても支障はない。だが、意味の分からない固有名詞、ほのめかされるだけにとどまるエピソードなどに戸惑い、きっと物足りなく思うことだろう。
 ここは「鼠と竜のゲーム」「シェイヨルという名の星」の2冊を(完璧を期すなら「第81Q戦争」も)読んでからとりかかりたい。そうすればこの「ノーストリリア」が他のいくつかの短編の交差点になっていることが分かるだろう。
 2冊も読むのが面倒だという方は、とりあえず「シェイヨル〜」に収録されている「クラウン・タウンの死美人」「かえらぬク・メルのバラッド」の2編を押さえておいてはどうだろう。これを読むと読まないとでは地球の「下級民」イメージがかなり違ってくる。

・ゴットフリート・ロスト「司書〜宝番か餌番〜」,白水社,1994.4
 アッシリア王の図書館、アレキサンドリア大図書館にはじまり、修道院、大学を経て現代にいたる司書群像をたどる。かなり駆け足の解説で、しばしば人名・事項の羅列に終わっている部分があり、正直、これを読んで司書という職業のイメージが明確になるとは考えにくい。西欧の歴史的な「ライブラリアン」「ビブリオテカール」と日本の図書館職員との間の断絶がかなり大きいということもある。しかし、アレキサンドリア図書館で本を不正にコピー(筆写だが)した王侯に巨額の罰金が科されたという記録や、ワイマール中央図書館の総監督でもあったゲーテがある貴族に出した、貸出本に書き込みしたことを非難する書簡などを見ると、時代や場所によって変わらないこともあるものだ、と思ってしまう。…いらんところばかり変わっていないようだが。
 この本は本文の脇にちょっとした語録が載せられているのだが、こちらが結構面白い。感心したのと笑ったのをひとつずつ紹介してみよう。
 「開放されていない図書館は、燃えてこそいるが、器の下に隠れたままで明るく照らさない蝋燭である」――皇帝マクシミリアン2世の司書フーゴ・プロティウス。…19世紀前半の人物の言葉だと思うと、たいした先見の明である。
 「絶対に本を貸してはならぬ。返すやつはいない。私の書庫に残っている唯一の本は人から借りたものである」――アナトール・フランス。…自分もやないか。

・クリフォード・D・シマック「大きな前庭」,ハヤカワ文庫,1981.10
 「中継ステーション」、「都市」で有名なシマックの短編集。有名な、と言いつつどちらもすでに目録落ちしているようだが、もったいないことである。
 いかにもアメリカらしい、と言える作品が並ぶが、シマックの「アメリカ」は大都会のものではなく、片田舎の農村といった風情である。そして奇想天外な事件に遭っても呑気な、だが例え政府が強制してもそのマイペースを崩さない頑なさももった主人公たち。
 表題作「大きな前庭」のほか、「へっぴり作戦」、「隣人」がその典型的な例である。

・佐藤賢一「王妃の離婚」,集英社,1999.2
 「双頭の鷲」を読んで以来、注目していた佐藤賢一、今年の直木賞受賞作。
 15世紀末、フランス。トゥールの法廷では王妃ジャンヌを被告とする離婚裁判が開かれていた。原告のフランス王・ルイ12世のごり押し裁判なのは衆目の一致するところである。だが、絶大な権力を有する国王が相手ではジャンヌに勝ち目はない。妻の座を喪おうとしている彼女の答えは「クレド(はい)」しかあり得ない、はずであった。だが…
「ノン・クレド」
王妃の言葉が傍聴席を揺るがせた。居合わせたナントの一弁護士・フランソワは、思いがけずも王妃の弁護士として縦横にその弁才をふるうことになる…。
 テーマ的には百年戦争を描いた「双頭の鷲」の方が私の好みではある。だが、どうも物語としてはこっちの方がよくできているようだ。登場人物やその人間関係にやや類型的なきらいのあった「双頭の鷲」に比べ、「王妃の離婚」の面々はどれも一筋縄でいかない陰翳が籠もっている。とくに主人公のフランソワ。義侠心に溢れた若者などではなく、狷介で屈折した中年男である。王妃の弁護士を引き受ける理由も義侠心や同情といった単純なものではない。「かつての自分に対する復讐」と彼自身は語る。彼のもつ陰がいったいどこからくるのか、それはラストで明らかになるのであるが。
 人物の心理描写だけに話題を限ると少々鬱陶しい印象を持つかもしれないが、裁判でのフランソワの活躍は痛快の一言につきる。鋭い舌鋒と海千山千の実地経験で、ほとんど八百長の裁判を覆すさまは、傍聴席の民衆ならずとも拍手喝采したくなる。外向きの活躍の痛快さと内面の陰という二面性は「双頭の鷲」でも見られ、ひょっとしたらこの著者の作品の最大の魅力となるかもしれない。
 ついでのようだが、この離婚裁判が当時のフランス−イタリアの外交関係と密接に関わっていたことや、フランソワが青春時代を過ごし、離婚裁判でも彼を支えた中世大学の闊達な様子など、歴史小説としても読みどころの多い作品だということも付け加えておきたい。

・栗本薫「グイン・サーガ67・風の挽歌」,ハヤカワ文庫,1999.8
 「オロからの伝言があるのだ」
この巻のハイライトは久々に本編に復帰したグインの、短いセリフ。なにせ第1巻以来の伏線がついに完結するのである。他にもカメロンとグインの初顔合わせ、マリウス−タヴィア夫妻の再会など読みどころは多いのだが、これに比べるとどうも小さなことに感じてしまう。
 そのようなかなり前から続くエピソードだという都合上、どうも登場人物のセリフが説明的になってしまっている。ただでさえ饒舌なグイン・サーガの面々だが、このせいで今回はいつにもまして長々としゃべっている。感動の名シーンも、読みわらない間に滲んだ涙が乾いてしまうほど続けられては、多少うんざりもしようというものだ。

・劉賢鐘「朝鮮三国志1・荒野」,国書刊行会,1999.4
 7世紀末の朝鮮半島が舞台。日本で言えば大化改新の少し後、中国史では隋末唐初。当時の高句麗の国情などが背景として描かれている点は歴史小説だが、それよりむしろ武侠小説のノリが多く見られる。主人公は拳法の使い手だし…。  題名通り元祖「三国志」を意識してか、主人公の蘇文に相弟子の黒伐武、地歩の二人が従う。蘇文は貴種の後裔という点は劉備と同じなのだが、もっと野性的、アナーキーな性格である。だいたい、彼が女性を襲って破門されるところから話が始まるのときては…。また、プライドが高く直情的な黒伐武は、ちょっと屈折した張飛という印象。キャラクターとしては彼が一番面白い。残る一人、地歩の影がかなり薄いのが残念なところだが、これは続巻に期待。
 とにかく、全8巻予定の大作である。新羅の隆盛、唐太宗の高句麗遠征、日本の侵攻と白村江の戦いなど激動の時代を迎える朝鮮史のなかで、蘇文たちがどのような活躍を見せてくれるのか、先の展開が楽しみなところである。…しかし、ちゃんと続きを出してくれるのかが少々心配。

・ハリスン&オールディス「ベストSF1」,サンリオSF文庫,1983.8
 アンソロジーというのはたいていどの本にも一つ二つは私的にヒットする作品が含まれている。まあ、そのかわり全部が全部面白いというのも滅多にないから損か得かは考えようだ。
 この本は1967年の作品からオールディス、ハリスンが選んだベスト集である。「十億年の宴」のオールディスが選んだとなると凝った作品が多いかと思ったのだが、実際はそう身構えるまでもない。一作品あたりの長さもショートショートから中編に近いものまでうまくとりまぜてある。もっとも、一年という比較的短い期間から選ぶとあって、どの作品も同じぐらい面白い、とまではいかなかったが…。
 私が気に入った作品としてはまずシルヴァーバーグ「ホークスビル収容所」。一方通行のタイムマシンによって古生代カンブリア期の地球に作られた刑務所の話。あまり行ってみたいところではないが、名物三葉虫料理はちょっと食べてみたいような。
 そしてもう一つフランク・M・ロビンスン「宇宙船ジョン・B号の謎」タイトルだけ見るとスペースオペラっぽいが、中身はかなり重い。長期間の宇宙航行中、極力プライバシーを保てるよう配慮された宇宙船で、乗客たちの間に発生した危機とは?

・草上仁「彼はロボット」,ハヤカワ文庫,1989.5
 ライバル企業が「営業用ロボット」を開発したとの急報。知ってのとおり、ロボットは例の「三原則」で人に害を与えることができない。商売敵を出し抜いたり、騙したりすることも辞さない営業活動が、そんなロボットにできるのか!? 出先でそのロボットと対決した、その結果は…。
 タイトルからロボットものばかりを集めた短編集かと思ったのだが、実はロボットテーマは上に紹介した表題作ひとつだけ。少し残念。

・高坂正堯「世界史の中から考える」,新潮選書,1996.11
 「歴史に学ぶ」とはよく聞くフレーズだが、これがなかなか難しい。過去の事例との表面的な類似、一部の類似だけを見て、現在起こっている事件も同じ経過をたどって、同じ結果になると短絡しがちだ。もっとひどいものになると、歴史上の事件や人物に仮託して自分の言いたいことを言うだけである(まあ、それはそれで有用なものもあるのだろうが)…。
 その点、この本は「歴史に学ぶ」ための手本のようなものである。例えば、日本のバブル経済の破裂に対して、17世紀オランダのチューリップ投機、「バブル」の語源となった18世紀のイギリス南海会社騒動、19世紀、新興国ドイツを襲ったバブル後不況の事例を挙げている。現代日本と比較して類似点を見るのは当然だが、同時にその時代時代の背景を見て、現代との相違を忘れない。「歴史に学ぶ」には慎重さと細心さが必要なことを感じさせる。
 上の「バブルで亡んだ国はない」のほかに、大政治家がいなかったにも関わらず繁栄期を築いた18世紀イギリス議会をとりあげた「政治の善し悪し・近代初期イギリスの政治から」や、有能な人物がいなかったわけでもないのに結果として大失敗を招いた戦前日本を俯瞰する「日本政治史から考える」など。
 もとが雑誌連載なので一つ一つの論が短く明快にまとめられており、非常に読みやすい。

・養老孟司「唯脳論」,ちくま学芸文庫,1998.10
 人間の作ったすべての文明――文化、言語、学問、社会制度――は、すべて人間の脳から出てきたものである。「何で当たり前のことを」と思うかも知れない。だがこれこそ「コロンブスの卵」であって、言われてみなければ私たちは普段そんなことを意識したりはしない。だが、いったん意識してみると、導き出されるもののいかに多いことか。
 もっとも、物理学や進化論も、脳の働きのアナロジーに由来する、というのはちょっと「?」である。「脳が考えたことなんだから脳のどこかにそれがなきゃおかしいだろう」と言われると、確かにそのとおりなのだが、何となくうまく騙されているような気もする。
 人工物はすべて脳から発したものなのだから、都市に住む私たちは脳の中に住んでいる、と考えることもできる。現代社会は「脳化社会」だ、とこの本は言う。だが、私たちの身の回り全てが脳の産物だからといって、世界全てが脳の思うままになるわけではない。脳化の外には常に「自然」がある。神戸やトルコの震災などはもっとも劇的にそれを思い知らせてくれる。
 また、そんなおおげさな例をひかなくても、もっとも身近な「自然」…わたしたちの「身体」は脳が否定しようが意識しまいとしようが、いつでもそこにある。ちょうどこの本を読み終わった頃、遠い親戚の訃報が届いた。一人暮らしの老人で、見つかったときにはすでに日にちも経って、死体はかなり傷んでいたらしい。末尾の文章を思い返さざるを得なかった。
「自然はどこに隠れたわけでもなく、失われたわけでもない。われわれヒトの背中に、始めから張りついていただけのことである」

・ジェイムズ・P・ホーガン「量子宇宙干渉機」,創元SF文庫,1998.10
 J・P・ホーガン久々のハードSF、ということで話題になった本。しばらく政治スリラーみたいなのを書いていたホーガンだが、これがいまいち…いや、いま四かいま五ぐらい面白くない。ハードSFなら傑作「星を継ぐもの」の著者、復帰は大歓迎である。
 やはり、政治がからまない部分ではホーガンは面白い。本書は多元宇宙理論…つまりは平行宇宙がテーマ。多元宇宙間で情報をやりとりする量子コンピュータが開発されたところから話がはじまる。この量子コンピュータを用いた確率予測、生物の進化に多元宇宙が絡んでいるというアイディアが登場する前半は読んでいてワクワクさせられる。
 しかし後半、話は意外な方向に向かい出す。量子コンピュータを通して人間が別の宇宙の「自分」に乗り移れるようになってしまうのだ。あらゆる可能性が実在するのが多元宇宙なのだから、当然自分のいる宇宙よりずっと住みよい世界もあるわけで、そうなると…あとはまあ、ご想像通り。
 主人公の行動については、いろいろ理由づけはされているが、私にはどれも言い訳くさく思えてしまう。結局、絶望的な世界に背を向けただけではないか。確かに同じ立場に置かれてみれば、私もまちがいなく理想的な「別天地」への道を選ぶだろう。だが、物語の主人公には、自分にはできない英雄的な決断を期待してもいいのではないか。
 考えてみれば、無限にある多元宇宙の中には、主人公たちが自分の世界に残って世界の現状を変えようとする宇宙もあるはずだ。物語のラストでは量子コンピュータがそのための糸口になりうるという希望がほのめかされている。願わくばそういう世界の主人公も書いてほしかった。
 前半のノリで話を進めてくれれば、文句なかったんだがなあ…。

・グレッグ・イーガン「宇宙消失」,創元SF文庫,1999.8
 謎の「バブル」により星々が消え、太陽系が宇宙から隔てられてしまった21世紀後半の地球が舞台。題名や設定からして科学者たちが活躍するホーガンばりの物語かと思いきや、サイバーパンク調ハードボイルドで話ははじまる。
 主人公ニック・スタヴリアノスは過去に傷を持つ元警官の私立探偵。サイバー的な道具としては、脳にチップを埋め込むのではなく、脳細胞そのものを再結線して様々な機能をもたせるという「モッド」技術。暗号解読からゲームまで様々なモッドが登場する。モッドの紹介に製作社名と価格が記されるのがご愛嬌。ニックは調査していた組織に捕らえられ、組織に貢献することに絶大な満足を覚える「忠誠モッド」を植え付けられる。絶対の忠誠心をもつはずの彼らが、組織から隠れた行動をとるのにどんなロジックを使うのかは、読みどころの一つである。
 これだけでもそこそこ読めると思うのだが、中盤以降の展開は輪をかけてすごい。量子論を縦横に展開して人間が知らずに持っていた、驚くべき「能力(?)」を明らかにし、さらにそこから「宇宙消失」の謎を解いてしまう。このあたりを詳しく言うとネタバレになるし、そもそもうまく説明できる自信がないのでやめておくが、要するに「シュレディンガーの猫」を生かしたり殺したりしていたのは実は人間だった、というもの…だと思う。
 現実世界そのものを混沌にたたき込んでしまうクライマックスには、ちょっとスラップスティックが入っているのだろうか。この部分だけはあまり好きではない。
 それ以外は「SFの楽しさ」を堪能できて、満足。

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