読後駄弁
1999読後駄弁9月〜10月


・寮美千子「星兎」,パロル舎,1999.5
 窓の戸をたたく音がする。うさぎがぼくを散歩に誘いに来たのだ。人間と同じ大きさで、人間の言葉をしゃべるけど、やっぱりうさぎはうさぎだ。うさぎは楽しそうにぼくをみる。そう、はじめて出会ったあのときと同じように…。
 「ぼく」と「うさぎ」のやりとりがあまりにも自然で、しゃべるウサギと少年という幻想的なとりあわせが、まったく当然のもののように感じてしまう。交わされる会話の温かさに読んでいて思わず笑みをこぼしてしまう。
 だが、そんな幸せな場面は一気に暗転する。突然に訪れる「ぼく」と「うさぎ」の別離。その唐突さは死が否応なく人と人とを分かつさまを示している。ちょっと「銀河鉄道の夜」を連想させるラストだった。

・入江隆則「太平洋文明の興亡」,PHP研究所,1997.9
 ヨーロッパ人の到来から現代までの太平洋世界の歴史を概括しようという壮大な(無茶な)書。
 ほとんど地球の半分という地域を1冊で語ろうというのである。何をどうやってもカバーしきれない点が出るのは仕方がない。しかし、だからと言ってどの地域を代表としても出しても同じだということにはならないだろう。本書第1部「複数の太平洋」ではマリノフスキーが研究したトロブリアンド諸島、レヴィ・ストロースの中南米が挙げられているが、これはどうも奇をてらいすぎた選択に思える。ヨーロッパが遭遇した太平洋文明であれば、中国を中心とした南シナ海の交易システムなど、他に例をあげることはいくらでもできたと思うのだが。
 その中国については、悪意があるのではと勘ぐりたくなるほど否定的な見解をとっている。「つねに簒奪政治史しかなかった」「『勝てば官軍、負ければ賊軍』ということの厚顔無恥な正当化」「常に乱を誘い出す権力」などさんざんだ。言っていることは確かに一面の真実を衝いていると思うのだが、その一面をもって全面を判断しているきらいがある。
 一方、太平洋に進出してきたヨーロッパ人についても、欲望と功利主義に凝り固まった侵略者としてのみ語っている。これについては上の中国についてよりは実状に近いと思うのだが、それでも欲望と功利がすべてだとは言い過ぎだろう。また、彼らの近代の源流となるものとしてグノーシス思想を挙げているのはちょっと面白いと思うが、それが、「この現実世界を造ったのは『悪神』であって、その限りにおいてこの世界をどう改造しようと、どう探求しようと人間の勝手だという考え」だというのはあまりに乱暴な要約ではないだろうか。
 納得のいかない部分が多く、見慣れない用語を登場させる割には目新しい内容が少ない、というのが全体の印象。まあ王朝中国やヨーロッパというと、深く考えずに憧れたり礼賛したりする傾向もある(中国については私も…)ので、それに対する苦い薬だと思えば、まったく無駄でもなかったか。しかし良薬が口に苦いからといって、苦ければそれが全て良薬だということにはならない。

・佐藤賢一「傭兵ピエール(上下)」,集英社文庫,1999.2
 時は15世紀、百年戦争末期。若き傭兵ピエールは「シェフ(隊長)殺し」と恐れられる猛者だった。この時代、傭兵というのは戦争のないときは山賊そのもの。あるとき襲撃した旅人の中に、ピエールは男装の少女を見つけた。儲けものと襲いかかると、少女は激しく抵抗した。これは意外でもなんでもない。意外だったのは彼女がこう言ったこと。
「私は神の遣いなのです」
フランスを救うために戦場に行くのだというその少女の名は、ジャンヌ・ダルクといった。ジャンヌは神の使命を果たしたあかつきにはピエールに処女を捧げると約束する。
 やがて英仏軍がしのぎをけずるオルレアンの戦場で、ピエールは「救世主ラ・ピュセル」となったジャンヌに再会するのだが――
 「双頭の鷲」「王妃の離婚」について書いたとき、主人公の、外面での痛快な活躍と内面での繊細な心理という二面を読みどころに挙げた。二作品より前に書かれたこの物語では、「痛快な活躍」の一方により大きな比重がかかっている。もちろん貴族の落胤であるピエールの屈折や、「神の声」を聞けなくなったあとのジャンヌ・ダルクの苦悩など、登場人物の心理にも読みどころがないわけではない。しかしピエールの胸のすく大活躍が圧倒的に印象強い。百年戦争時代のフランスという日本の小説としては珍しい舞台ながら、時代小説の本道をゆく内容である。
 ピエールが最良の伴侶を得て大団円を迎えた後の、最後の一章はやや蛇足の感もある。しかし、登場人物の幸せなその後、というのは読んでいて気分がいい。…あ、それならあながち蛇足でもないのか。

・東野圭吾「私が彼を殺した」,講談社ノベルズ,1999.2
 結婚式の式場で、新郎が突然死した。毒殺である。容疑者は3人、いずれも動機は充分にある。さて、誰が彼を殺したのか…。
 純然たる謎解き小説である。物語としてはさして言うべきことはないから、パズルに興味がない人には、あまり面白くないだろう。しかもとうとう最後まで犯人を直接名指ししないのだから、漫然と読み終わってしまうと、欲求不満にとらわれること請け合いだ。私は、最後まで読み終わった時点で分からなかったので、もう一度ポイントと思われる所を読み返し、一応目星をつけてみた。
 そのあと、ネットでこの本について推理をしているページをいくつか見たのだが、その中で私が一番納得できた解答は、私の目星と違っていた(…くそお)。

・竹田青嗣「自分を知るための哲学入門」,ちくま学芸文庫,1993.12
 「…連中ときたら”どのなぜにするか”を、文字どおり何十年もかけてグダグダと考えやがるんだ」(「狂気の世界への旅」より)
 とある小説で…ってスタートレックなんだが、哲学者について言ったセリフである。誰かがある問いをたて、それの答えや反論をいく人かが試みる。議論百出して煮詰まってしまったところへ、別の誰かが「しかしそれは本質的でない」とか言って別の問いを持ち出す。そして……の繰り返し。哲学にはそんなところが確かにあると思う。哲学なぞ何の役にもたたない、と言われるのも多分こんなところにあるのだろう。
 だが、この本では哲学は「非常に有用」と断言する。何に有用か。「自分を知るために」。たてられる問いは、習慣的で、常識にとらわれた考え方から脱出し、「自分で考える」ための対象である。だから、唯一絶対の答えなどは見つけなくてもいいし、また見つかるものでもない。重要なのはそれを考えることそのもの。これを「哲学する」、「思考する」という。
 だが、「自分で考える」ことを完全に独力でやるというのは、難しく、時間もかかり、気骨の折れることである。そこで、すでにそれをやった先人たちの考え方を、枠組みなり土台なりに取り入れたりする。
 本書ではギリシア哲学、デカルトからヘーゲルにいたる近代哲学、そしてフッサールらの現象学を、ポイントを絞って解説している。用語が平易で、私のようにほとんどこの方面の書物を読んだことがなかった人間にでも話が分かるようになっている。裏表紙の「この一冊で哲学がはじめてわかる」というあおり文句はあながち誇大広告ではない。――もっとも、ここで分かった気になって満足してしまえば、それは「知識としての哲学」でしかないのであって、一般の印象どおりの「何の役にもたたないもの」なのだが…。

・竹田青嗣「現代思想の冒険」,ちくま学芸文庫,1992.6
 ソシュールの言語学、レヴィ・ストロースの文化人類学から始めて、ボードリヤール、ドゥルーズ=ガタリの社会認識論までを概観し、この現代思想の流れが、ひとつの行き詰まりに陥っていると説く。そしていったんデカルトまで戻って近代哲学を再点検し、行き詰まりを別方向から打破するものとして、フッサールの現象学、ハイデガーの実存論などを紹介している。
 …とりあえず、「自分を知るための哲学入門」を復習しておいて正解だった。「自分を知るための〜」がかなり平易だったのに比べると、こちらは結構難解な用語が使われている。だが、デカルトの再点検からハイデガーのあたりは「自分を知るための〜」とほぼ論旨が重なっているので、これを足がかりにして読めば何となく言っていることがわかる。…わかる気がする、という方が実状に近いが。
 ガラにもなくこんな本を手にとった理由は、仕事でポストモダン関係の本を分類するときに、どこにすればいいか困ることが多いためである。出ている哲学者の主な活動分野が分かっていれば手がかりになるだろう、というわけだ。このような知識を得るためだけの読み方は著者の最も戒めるところである。だが、知識の交通整理をする身にとってみれば、これはこれで有用なのである。

・オラフ・ステープルドン「オッド・ジョン」,ハヤカワ文庫,1977.1
 肉体的には貧弱そのものの少年ジョン・ウェインライトは、実は天才…どころか、人類という種さえも超越したミュータントだった。人類の限界を悟る彼はこれと訣別し、同種のミュータントを集め新世界を築こうとするが…。
 ジョンが同志を集めて南海に植民地をつくるという後半より、彼の人間世界に対する考えが披露される前半部分により興味がもてた。全体的に感じられる人間への諦念は、第1次世界大戦の衝撃をもろに受けたヨーロッパならではものだろう。人間の行動のたいていをジョンは一刀両断しているが、ただひとつ宗教についてはわずかに保留を残している。もちろん、キリスト教など個々の教義にではなく、宗教体験の原点において何か捨てがたいものを見出しているようだ。「九十九パーセントまでは愚にもつかないことだ。そして一パーセントは何かこう別のものだ」というふうに。そう言えば、このセリフよりもかなり後、スコットランドの山奥に籠もって得たジョンの認識は、なんとなく仏教の悟りを思わせるものがある。

・オースン・スコット・カード「聖エイミーの物語」,SFマガジン199年10月号
 のっけからマイナス評価でなんだが、期待していたほどには入れ込めなかった。久しぶりのカード短編ということで期待しすぎた、ということもある。だがそれ以上に主人公エロイーズにいまいち共感できなかったのが大きい。
 エロイーズは道を誤った文明をすべて「修正」…消し去ってしまおうという「天使」のリーダーである。…失敗したからリセットしてやり直そうなんてパソコンゲームでもあるまいし、と最初に思ってしまうともうダメである。エロイーズの夫チャーリーは失敗した教訓を後世に伝えるため文明の産物の幾分かを遺そうとする。彼に全面賛成するのは、ごく普通の反応だろう。
 しかしエロイーズの考え方の当否より、カードがやりたかったのは「バベルの塔」の再話なのだろう。チャーリーが遺そうとした「バベルのかけら」もエロイーズによって「修正」される…チャーリー自身とともに。残ったのはエロイーズと、そして娘エイミーに託された物語だけ。新しい聖書の誕生秘話、とも言える。最後に物語だけが残る、というのが非常にカードらしい。
 それと、入れ込めないとは言ってみたものの、その語り口はやっぱり巧い。エイミーが幼いときの自分の視点、感覚から父親を語るときの描写などは、とくに印象的だ。

・塩野七生「ローマ人の物語8・危機と克服」,新潮社,1999.9
 皇帝ネロ――伝えられているような暴君ではなかったにせよ、確かに責任感と持続力には欠けていた――の死後、大混乱に陥るローマ帝国。中央では1年に3人皇帝が入れ代わっては殺され、東西の辺境では反乱が勃発する。このまま崩壊してもおかしくなかった帝国を何とか支えたのは、英雄でも賢者でもない、ひとりの「健全な常識人」だった。
 年1回刊行のシリーズ、今回はネロの死後わずかな期間ながら皇帝だったガルバから五賢帝の先頭・ネルヴァまでを取り上げている。だが主役はやはり「健全な常識人」、ヴェスパシアヌスだ。先日図書館に入ってきた洋書の中に彼の伝記を見つけたときは、何でまた五賢帝やアウグストゥスでなくてこんなマイナー皇帝のが…と思ったものだが、完璧に私の無知だった。
 ヴェスパシアヌスに課せられた問題は、まず内に財政の建て直し。これを彼は大規模な改革をすることなく、既存の制度を公平に徹底することで実現させる。このあたりの業績が今の時期に彼の伝記が刊行される理由なのだろう。古代ローマと現代国家を単純に比較することは当然できないにしても、参考とできる部分は多いに違いない。私としては、国家主導の教育制度ももたず義務教育という考え方さえなかったローマでも、図書館の整備だけは怠らなかった、ということを指摘したいのだが…まあ、これは我田引水である。
 そして、外には東のユダヤ人反乱、西のガリア人反乱への対処。もともとが前線の将軍であるヴェスパシアヌスは、鮮やかさには欠けるが堅実そのものの手腕でこの二つを鎮圧する。
 ところでこのガリア人反乱なのだが、反乱側でもローマ側でも、登場するガリア人の姓は「ユリウス」が多い。ユリウスと言えば、カエサルの姓。「ガリア戦記」で彼が自ら語る遠征で、制圧した土地の有力者にユリウス姓を与えていたためである。著者は、カエサルの影響と薫陶が100年以上たったこの時代でもまだ色濃く残っている、と感心しきりだが、別にそういうわけでもないだろう。単にむやみやたらにユリウス姓をばらまいた結果にすぎないんじゃなかろうか。このあたり塩野七生のカエサルびいきも度が過ぎているように思う。
 それはともかく、ヴェスパシアヌスによってローマ帝国は危機を克服し、彼の息子ティトゥス、ドミティアヌスの手を経てネルヴァ帝に受け継がれる。ローマ帝国の最盛期、「五賢帝時代」の到来である。来年刊行予定の次巻が今から楽しみだ。

・梶尾伸治「有機戦士バイオム」,ハヤカワ文庫,1989.10
 ショートショート集。
 表題作は遭難した有機生命体(つまりは地球人)に機械生命が乗り込んで戦うという、いわば逆さロボットもの。「有機戦士」は目を抉りあったり腕を引きちぎったりと凄絶な戦いをさせられる。機械生命が「ガンダム」を見たら、やっぱりスプラッタだと思うんだろうか。あれも腕や頭がもげてたもんなあ…。
 ほか、薬物使用を前提とする競技会「ドゥーピンピック2004」や人類滅亡後の地球を訪れた異星人が、ある 遺物から地球人を想像する「”ぱんつ”」など。しかし設定の奇抜さほどには、オチで笑わせてくれないのがちょっと不満だなあ。

・アイザック・アシモフ編「世界SF大賞傑作選2」,講談社文庫,1979.5
 1966年〜68年のヒューゴー賞中短編部門受賞作品集。
 ハーラン・エリスンが2編、「『悔い改めよ、ハーレクイン!』とチクタクマンはいった」と「おれには口がない、それでもおれは叫ぶ」。前者は偏執的なまでの時間厳守にとらわれた世界に対する、ある男の反抗の物語。皮肉な調子で、わりと軽く楽しめる。一方後者は、人類に憎悪をいだくコンピュータ内に捕らわれ、ひたすらに責めさいなまれる男女を描いたもの。あまり好きな類の話ではないが、たしかに迫力はある。
 ジャック・ヴァンス「最後の城」。そういえばこの人の作品は初めて読む。遠未来の地球、貴族化した地球人に対し奴隷階級の異星人が反乱を起こす。追いつめられつつも地球人は事態を直視しようとしない。打開の道は、ひとつだけあるのだが…。地球人=貴族の姿と彼らの住む「城」は古代ギリシア人とポリス国家を連想させる。そこまで古い例をひかなくても、自ら手を煩わせる労働を低くみるのは現代でも同じようなものか。メッセージ性がはっきり出すぎで、結末を先読みできてしまうのが不満。しかしこれ以外の結末というのも納得いかないだろうな。
 ほか、ニーヴン「中性子星」にライバー「骨のダイスを転がそう」。「中性子星」はハヤカワの短編集で既読なので読み飛ばし。

・栗本薫「グイン・サーガ外伝16・蜃気楼の少女」,ハヤカワ文庫,1999.9
 外伝10〜15(キタイ編)と本編をつなぐ一エピソード。今度は続きものではないようなので安心した。太古大帝国カナンの滅亡の真相が語られる。滅亡前夜のカナンで繰り広げられるメロドラマを我慢すれば、そこそこ面白かった…全体の半分ほどが我慢の対象なのだが。
 このごろレギュラーで登場する悪役が淫魔ユリウス。下ネタ連発のしようがないキャラなのだが、どうも作者、こいつを書くのを楽しんでいるような気がしてならない。

・ジョン・ブラナー「幻影への脱出」,ハヤカワ文庫,1976.7
 全世界が人口爆発にあえぐ21世紀。人々は現実を忘れさせてくれるドラッグにはけ口を求めていた。ハッピー・ドリーム…それは謎に包まれた麻薬。出所不明、精製方法不明、流通経路も不明、しかも末期の中毒患者はみな行方不明になっていた。国連の麻薬捜査官グレイヴィルは、とある実験施設にハッピー・ドリームを送り届ける。だがその翌日、麻薬の臨床実験に使われていた動物までもが失踪をとげたのだった…。
 あとがきで「複線が親切すぎて結末がばれる」とあったが、確かにSFを読み慣れた人には骨子はだいたい予想できるだろう。それならばつまらないか、というとそうでもない。予想される結末までのストーリー展開はなかなかスリリングである。
 脳が現実を認識しなくなれば肉体の方も現実世界から消える、という発想は養老孟司あたりなら「脳化社会の極地だ」とでも言うだろうか。

・佐藤賢一「カエサルを撃て」,中央公論社,1999.9
 カエサル指揮のもとにローマが行ったガリア遠征を、被征服者だったガリア人と彼らの王ヴェルチンジェトリクスから描いた小説。…と読む前の私は予想していたし、広告や本の帯でもそのような宣伝をしていた。だが、ややニュアンスが違うようだ。
 従来の「英雄カエサル」像を崩そうとしているのは確かである。かわりに示されるカエサル像は、虚栄心にとらわれ始終人の目を気にかけ、自分を取り繕うことしか知らない中年の小心者、というもの。ちょっとしつこいと思えるほどに「中年男」「中年男」と連呼されている。彼が「英雄」の風貌を帯び始めるのは、若き敵対者に完膚無きまでに叩きのめされてからである。
 その敵対者…ヴェルチンジェトリクスがヒーローとしてのみ扱われているかというと、決してそうではない。天才的な若者ではあるが、その性向は嗜虐的で読む者の感情移入を阻むものがある。
 英雄と呼ばれる「若者」と「中年」、ふたりの内面が、物語の主題ということになるだろう。華々しい活躍をする主人公の秘められたコンプレックス、というのは佐藤賢一の他の作品でもお馴染みではある。
 読者が視点を重ねるとすれば、ローマ軍の百卒長マキシムスと、ガリアの鍛冶師アステルである。マキスムスは一度は希望を託したカエサルの醜態に幻滅の度を深めつつある若者。一方アステルはヴェルチンジェトリクスの残虐さや蛮行に惑いつつも、彼の姿にかつての主君を重ねて従う老人である。中年男に配するに若者、若者に配するに老人。このあたりは設定の妙だと思う。
 いまいち話に入れ込めなかったのはちょっと描写がくどいのとヴェルチンジェトリクスの行動のどぎつさのせいだろうか。

・加納朋子「ななつのこ」,東京創元社,1992.9
 一応ミステリ、ということになるのだろうか。と言っても殺人事件が起こるわけではない。誰かが誘拐されるわけでもない。奇妙な館もエキセントリックな探偵も出てこない。日常の中の思わず見過ごしてしまいそうなふしぎ…昔のクラスメートから送られてきた1枚の写真、フェンスぎわにたたずむ老人、少女の描いた白いタンポポの花…がテーマである。そんな話がおもしろいのか?それが、結構おもしろいのである。
 主人公の女子大生・駒子がふと手に取った本「ななつのこ」。メルヘン調の謎とき話がタイトルどおり7つ収まっている。駒子は自分の身の回りに起こった「ふしぎ」と「ななつのこ」中の話を重ね合わせ、著者にあてたファンレターに綴っていく。話そのものはちょっと私の好みから言うとあっさりしすぎているのだが、「物語」と「物語の中の物語」とのオーヴァーラップのさせ方が何ともいい感じである。
 作中の7短編にあわせて、駒子の語る話もやはり7つ。中では一番ミステリ色が強い第1話「スイカジュースの謎」と、駒子と少女の交流が心地よい「白いタンポポ」が私の気に入りである。

・A・E・ヴァン・ヴォークト「武器製造業者」,創元SF文庫,1967.7
 未来世界の人類を統治するイシャー帝国と、それに対立する巨大組織「武器店」。不死人ヘドロックは二大勢力をまたにかけて活躍(暗躍)し、そして両者から追われる身となった。捕らわれる危機一髪のところを、地球唯一の恒星間宇宙船で逃れたヘドロック。だが、ケンタウリ星系の途上で彼が出会ったのは人類の能力をはるかに超越した異星人「蜘蛛族」だった。
 これを書くためにあらすじを復習してみて、いかに無茶苦茶な展開の話だったか再認識している。主人公ヘドロックのひとり芝居に終始した印象が濃い。そういう話だと割り切ってしまわないといまひとつ。
 イシャー帝国の女帝でヒロイン格でもあるイネルダあたりがもう少しクローズアップされると、やや私の好みに近くなるのだが…。

・アルベルト・マングェル「読書の歴史〜あるいは読者の歴史〜」,柏書房,1999.9
 古今東西の「読むこと」と「読む人」を集めて紹介。歴史と題してはいるがかなりずしも時系列順にはなっておらず、主題ごとに登場する人々も時代もさまざま。ちょっとあちこちに飛びすぎてついていけなくなるきらいも少々…。
 難解な部分はおいといて、紹介される「読む人」の姿に、自分と重なるものを見つけて楽しむ。こうして「歴史」の末席に自分もまた連なっているわけだ。

・ミシェル・ジュリ「不安定な時間」,サンリオSF文庫,1980.3
 ダニエル・ディエルサンは奇妙な現象に捕らわれていた。すでに経験したはずの過去の出来事が細部を変えながら何度も繰り返されるのだ。彼を「時間溶解現象」に巻き込んだ「自主管理病院」と「HKH工業帝国」とは何なのか、彼がこの奇現象から解放されることはあるのだろうか?
 時間が崩壊し、ある事が起こったその次の瞬間には別の時間・場所に飛ばされてしまうダニエル。彼の混乱は呼んでいる私たちにもそのままふりかかる。なにせ改行も段落替えもなしにいきなり違う場面になってしまうのだから。…うたたねしながら読んでいると、うっかり読み過ごしたのかと思ってしまう。ここはて話を合理的に解釈しようとせずに、混乱そのものを味わうつもりで読む方が面白いだろう。
 この作品はディック「ユービック」の影響が強いらしい。私はそっちをまだ読んでいないが、比べて読むのもまた一興だろう。

・グレッグ・イーガン「順列都市」(上下),ハヤカワSF文庫,1999.10
 ある日目覚めたダラムは、自分がコンピュータ内のVR環境の中にいることに気付く。ここにいる「自分」は、自分自身がある実験のためコンピュータシステムに神経パターンをコピーした存在であるらしい。現実時間にいる「自分」に憤慨しつつも実験を開始するダラム。…5年後、そのダラムはコンピュータ内に生きる富豪の「コピー」たちに、永遠にシステムが落とされたり中断されたりすることのないシステム――すなわち不死を提供するともちかけていた。同時に精巧なVR都市と、物理現象レベルからシミュレートされた人工宇宙「オートヴァース」の設計も依頼していた。それは世界中のコンピュータの計算能力を合わせても走らせることのできない巨大なプログラムである。ダラムは実験で何を見出し、何を計画しているのか――?
 正直なところ、ストーリーそのものや登場人物に魅力を感じたり、深い共感を覚えたりすることはできなかった。だが論理展開とアイディアの奇抜さには圧倒されてしまった。
 コンピュータにコピーされたダラムはプログラムなのだから、コンピュータがどの場所にあって、いつ彼というプログラムを実行しても構わないわけである。つまり、ダラムの存在の一部を今日東京で計算し、別の一部を明日ニューヨークで計算しても、ダラムがそれを意識することはない。このバラバラに計算されたダラムが、その間現実世界を見ることができれば、世界の方がバラバラに見えるだろう。あくまで自分が存在している時間は一貫したものと感じるはずである。ならば――と、ここで一流の論理的アクロバットが披露される――現実世界が一貫した時間の流れをもっているというのも、人間の主観にすぎないのではないか。宇宙は、実は過去も現在もない、あの場所もこの場所もない事象の集まりで、「現実」とはたまたま一連の流れになった、事象の組み合わせのひとつにすぎない!
 思わず「うわあ」と声をあげてしまう。この世界観から演繹されるところを、物語はさらに突き進んでいくのだが、私としては最初の「うわあ」が出た時点でかなり満足している。この感覚こそSFの醍醐味、少なくともその一つであることは間違いない。

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