読後駄弁
1999読後駄弁11月〜12月


・金田一春彦「日本語(新版)」(上下),岩波新書,1988.1
 世界のさまざまな言語と比べて、「日本語」という言語はどんな特色があるのか、どんなところが長所なのか、また短所なのか。それを冷静に系統立てて分析するというよりも、ひとつひとつを手にとって鑑賞するような内容である。ふだんから使っている言葉とはいえ「言われてみれば確かにそうだ」と改めて気付かされるところが多い。
 「発音からみた日本語」「語彙からみた日本語」「表記法から〜」「文法から〜」に別れているが、中では「語彙から〜」が一番面白かった。日本語には花や虫、季節の移り変わりを示す語彙が多く、他方で自分の肉体に関するものは比較的少ないのだそうだ。
 一方、読むのに難儀するのが下巻の半分以上を占める「文法から〜」。自然にできた言葉を人工の規則に当てはめるのだから、丸いものを四角の型にはめ込むときのようなはみ出しや隙間ができる。それが「例外」とか「特殊な用法」になるのだろう。日本語というのはどうもこいつが多いようだ。私たちが外国語を学ぶときのように、文法から日本語を勉強するのは、ずいぶんと難しいことに違いない。
 ともあれ、そんな長所や短所も含めて「日本語」が好きになれる、そういう本である。

・エリス・ピーターズ「聖女の遺骨求む(修道士カドフェル・シリーズ1)」,現代教養文庫,1990.11
 修道士カドフェルらシュルーズベリ大修道院の一行はウェールズの一村を訪れていた。そこで生まれ死んだ聖女ウィニフレッドの遺骨を修道院に持ち帰り、聖遺物としてまつろうというのである。信仰もさることながら、聖女の遺骨を手に入れれば自分の名声もいや増す――遺骨引き渡しを渋る村人に対し、副修道院長ロバートの姿勢は強硬だった。そんな折り、譲渡を拒んでいた村の有力者リシャートが殺された。疑われたのは被害者の娘との結婚を反対されていたイングランド人の若者。リシャートを殺したのは彼なのか、遺骨を狙うロバートの陰謀か、それとも…。
 おきまりの女性をめぐる怨恨、と思わせておいてひとひねりを加えているのだが、それでもミステリとしては読者をうならせると言うほどのものではない。むしろ事件の背景になっている中世ならではの宗教的熱情と迷信、またイングランドとウェールズの相違と対立などの方が面白い。カドフェルが通訳として一行に加わることからも分かるように、12世紀当時、イングランドとウェールズは言葉も異なる別々の国である。外から見た私たちがあまり意識しない「イギリス」の複雑な歴史がうかがえる。
 だが、そういううんちくよりは、主人公カドフェルの魅力に素直に引き込まれることが、まず第一。修道士というと私の想像力では、血色の悪いひょろりとした若者、といういささかステロタイプな像が浮かんでしまうのだが、この話の主人公は全く違う。第一次十字軍に参加し、地中海でイスラム海賊とわたりあった元船乗り。人生の苦さ甘さを存分に経験し、今は引退の地と定めた修道院で穏やかにハーブ園の世話をしている――そういう人物である。
 私が好きなのは、話の流れには関わらないのだが、カドフェルが聖ウィニフレッドの伝説について考えるシーン。伝説では、聖ウィニフレッドに結婚を断られ怒った王が彼女を殺そうとするのだが、神罰を受けて地に溶かされてしまう。カドフェルはこの王にも同情し、彼のために祈るものはいなかったのだろうか、と考えるのである。そして聖ウィニフレッド自身は、かつて自分に思いを寄せてくれた男のために祈ることもあったのではないか、とも。私はキリスト教も含めて宗教に入信する気はさらさらないが、もし自分の罪を懺悔しなければならないとしたら、こういう想像のできるカドフェルのような人物にしたいと思ったことだろう。

・エリス・ピーターズ「死体が多すぎる(修道士カドフェル・シリーズ2)」,現代教養文庫,1991.1
 1138年、シュルーズベリはイングランド王位を巡る戦乱に巻き込まれていた。町を包囲戦の末陥落させたスティーヴン王は、敵対者の処刑を敢行する。だが、翌日修道士らが弔おうとした死体は、王が命じた処刑者よりひとり多かったのである。戦争中のこと、ひとりぐらい余計に誰かが死んだとて、気にかけるものはいない。だが、老修道士カドフェルは、戦いに紛れて行われた殺人の糾明を決意する。
 前作では事態を動かそうとする、いわばゲームのプレイヤーはカドフェルひとりの印象があったが、今度はもうひとり、好敵手が現れる。若き貴族ヒュー・ベリンガー。彼とカドフェルの駆け引き…「才知」と「経験」の戦いが、一番の読みどころだろう。もっともこれは「カドフェル」シリーズなんで、最終的にどっちが勝者になるのかは決まっているのだが。
 この二人を中心に、スティーヴン王の捜索を逃れて修道院に身を寄せる男装の令嬢、兄に代わって王に加勢を申し出に来た婦人、町の陥落前に運び出された財宝の行方を知る若者など、登場人物はなかなか多彩。前作よりずっと凝った構成を楽しめる。
 ただラストで、いささか都合のよすぎる展開になってしまうのがタマにキズ。

・藤崎慎吾「クリスタルサイレンス」,朝日ソノラマ,1999.10
 火星の北極冠で、氷に包まれた生物群体が発見された。地球の甲殻類に似たその死骸は、いまにも動き出しそうなほど良く保たれていた…が、そこにあるのは外骨格だけ。体内の肉や臓器は跡形もない。この生物は食物で、発見したのは火星人の貝塚なのか?政府の依頼を受けて考古学者アスカイ・サヤは火星へと旅立った。だが同じ頃、火星では奇妙な事件が多発し始めていた。それに触発され、もともと不安定な火星の政治情勢は危機を深めていく。そして大企業<ワイルドウェスト>の社長ツカダ・コウイチの策動…。地球に残されたサヤの恋人・ケレンは彼女を守るべく行動をはじめた。
 火星に遺された異星人の謎を解く…というのはどうも私の好みである。しかしこの話はそこから始まって、コンピュータネットワークとそこに住まうコンピュータ人格や生命、ヴァーチャルリアリティ、サイボーグ兵士、ナノテクノロジー、テラフォーミングから重力波技術にいたるまで、SFのエッセンスがとにかく詰め込まれるだけ詰め込まれている。
 道具立てが多彩なのに比べると、ストーリーの方はかなりシンプルである。火星で危機に陥るサヤと、彼女を守るべく仮想現実世界(ヴァーティグ)を縦横に駆けるケレンの活躍が中心。このケレンが実は…というのがこの話の最大のポイントである。それはそれで面白かったのだが、最初に出てきた「火星人」の秘密が脇役っぽくなってしまったのが私としてはやや不満。それと、悪役の設定もちょっとありがちかなあ…。
 帯にあったように「10年に1度の傑作!」とまで言うのは大げさだが、SFのキーワードはほとんど全部盛り込まれているうえに物語は軽快。難解さを衒ったところがないので、気軽に本格SFを楽しみたい、という人には格好の作品ではないだろうか。

・栗本薫「グイン・サーガ68・豹頭将軍の帰還」,ハヤカワ文庫,1999.11
 外伝での長い冒険を終えたグインがやっと本編に帰ってきてケイロニア王位につく。…それ以外にどう書きようがあるんだ、この巻を。まあ、エピソードの区切りに到達すると、本当に話が完結へと向かっているように思えるので、その点では嬉しいものである。
 もっともめでたしめでたしで終わろうはずもなく、シルヴィアはすねるしマリウスはごねるしで、次への波乱のプロローグといった感じだが。グイン御大も初期の頃の毅然さがいまいち影をひそめているが、これは彼が人間に近づいた、ということなのか。

・クリストファー・プリースト編「アンディシペイション」,サンリオSF文庫,1987.3
 編者がクリストファー・プリーストで、収録作家がバラード、シェクリィ、ボブ・ショウ、オールディス、イアン・ワトスン、ディッシュ、ハリスンとくる。なんとも玄人ごのみのラインナップだ。とくにイギリス作家についてはオールスターの感がある。
 題名「アンディシペイション」とは「予想・予感」「期待」の意味。すぐれた作品集への期待の意と同時に、各作品の内容も、ラストの次に起こる事への予感、余韻をもたせたものになっている。収録の面々からして「いかにもSF」といった作品は少ないだろうとは、それこそ「予想」できる。ワトスン「超低速時間移行機」やボブ・ショウ「闘技場」などは一応SFらしい設定、舞台を用意しているが、話の重点は別のところにある。
 私が一番気に入っているのはプリースト「拒絶」。「壁」を挟んで戦争中の、国境にある一寒村。文学青年の兵士が、ちょうど慰労に来ていた憧れの女流作家を訪問する。その作家は戦争に疑問を呈し、兵士に「壁」を越えよとほのめかす…。ラストでの兵士の胸中が読みどころ。どこがSFなんだ、と言われるとちょっと難しいかも知れないが。

・陳舜臣「戦国海商伝」(上下),講談社文庫,1992.11
 毛利元就の子でありながら、庶子のため海商に預けられた佐太郎。彼を中心に日本と中国をまたいだ海の戦国史を描く。
 登場する群像は出自も立場も様々である。中国との貿易で自国の富強をはかる毛利家、大内家の家臣。倭寇の首領・王直、そして彼と時には敵対し、時には裏で通じる明朝の官僚、軍人たち。膨大な財力を背景に経済を動かし、明朝打倒をめざす豪商・曽伯年。長年の差別、迫害から曽に協力する海民たち。さらに琉球王国やポルトガル商人がそれぞれの思惑をもって舞台に加わる。味方として行動を共にしているときでさえ微妙な彼らの関係が非常に面白い。
 戦国武将の子でありながら海商として育てられ、日本人でありながら中国で中国人を師として育った佐太郎は、この微妙さを体現した存在である。それゆえにこそ佐太郎は曖昧さのないはっきりした立場や行動に憧れるのだが。

・寮美千子「小惑星美術館」,パロル舎,1990.5
 遠足の日の朝、ユーリはオートバイにはねられ、公園の銀河盤に衝突する。…気付くと、地面が空までめくれあがった、奇妙な世界にいた。そこにはユーリの友達も先生もいて、やはり遠足へ行くところだった。だがその行き先は山ではなく宇宙を越えた向こう、「小惑星美術館」だった。
 ユーリがとばされた「地面がめくれあがった」世界、宇宙船となる巨大なエイ、アンモナイト形の小惑星がただよう小惑星帯、そして「小惑星美術館」のある石英宮…などなど、非常に美しく幻想的なビジュアルが展開される。
 ユーリに明かされるその世界の謎は、竹宮恵子「地球へ…」を連想させるところがあった。ちょっと説教が勝ちすぎているような気もしたが、表現はやはり綺麗なのでマル。

・エリス・ピーターズ「修道士の頭巾(修道士カドフェルシリーズ・3)」,現代教養文庫,1991.5
 シュルーズベリ包囲戦(前巻参照)も終わった、その年の暮れ。修道院に土地の寄進を申し出ていた貴族が、何者かに毒殺された。使われた毒薬はカドフェルの薬草園でとれたトリカブト。勘当を申し渡されていた息子が容疑者とされた。息子の無実を信じる未亡人からの懇請を受け、カドフェルの活躍が始まる。
 前2冊では第三者的な立場にあったカドフェルだが、今回は被害者の未亡人が彼の若いときの恋人、ということで少しようすが違う。…もっともその方面では予想したほど話が膨らまなかったのだが。まあ、このシリーズでどろどろした愛憎劇など読みたくはないから、カドフェルの紳士的というか、恬淡さは歓迎である。
 ラストでの真犯人の判明の仕方がやや唐突すぎる気がした。真犯人が誰かというよりも、カドフェルがいかに無実の罪を被った少年を匿い、助けるかが主眼となっているようだ。

・寮美千子「ノスタルギガンテス」,パロル舎,1993.7
 名前を付けてしまうことの恐ろしさを、とくと感じさせる物語。おもちゃの恐竜が結わえ付けられた木に、どこからともなく集まっていくキップルの群れ。それが「ノスタルギガンテス」と名前をつけられることで元々持っていた生命や力を失ってしまう。ラストで「ノスタルギガンテス」が樹脂で固められてしまうのが象徴的に思えた。

・オースン・スコット・カード「赤い予言者」,角川文庫,1999.11
 第1巻はアルヴィンが家族のもとを離れるところで終わっているのだが、すぐさまその続きを語るのではなく、タクムソーとローラ・ウォシキーという、二人のインディアンから物語ははじまる。「赤い予言者」に限って言えば、アルヴィンよりむしろ彼らが主人公である。
 第1巻で印象に残るシーンのひとつに、アルヴィンが自分のもつ「奇跡」の能力を決して自分のために用いない、と誓う一夜があった。ここでアルヴィンが出会った「シャイニング・マン」が、実は…というのがこの巻の読みどころその一である。アルヴィンの出発点となった一夜が「シャイニング・マン」の視点から再び語られているのが面白い。そして、この出会いはアルヴィンの出発点となると同時に、「シャイニング・マン」…赤い予言者テンスクワタワの出発点ともなる。
 第1巻でも架空のアメリカ史が物語の背景にあったが、今巻ではそれがより前面に出てきている。歴史上の人物が少しずつ立場を違えて物語に登場するところも、第1巻より目立っている。とくにタクムソーの関係は私たちの歴史と重なるところが多い。
 タクムソー…テクムシ、ティカムシと表記されることが多い…は実在したショーニー族長。19世紀初頭にインディアン勢力を糾合してウィリアム・ハリソン将軍らと激しい戦いを繰り広げた。が、1811年、彼の留守中に起こったティピカヌーの戦いでインディアン側が惨敗した後は大規模な抵抗を行えず、1813年戦死。ほとんどそのまま「赤い予言者」にとりこまれている。  テンスクワタワの方は創作かと思ったが、彼もまた実在したテクムシの弟であるらしい。予言者と呼ばれていたことも同じ。ただ果たした役割はかなり違っていて、史実のティピカヌー戦は、米軍の圧迫に耐えかねたテンスクワタワが兄の命令に背いて先制攻撃したことからはじまったということである。
 彼ら兄弟の正面の敵だった合衆国将軍ウィリアム・ハリソンは後に第9代大統領になる。どうやらこちらのハリソンにはテンスクワタワの呪いはなかったらしい。
 アルヴィンの世界に戻って、タクムソーを背後から利用しようと謀るフランスの面々もなじみのある人物が登場する。カナダ総督には革命貴族ラ・ファイエット、そして彼のもとに将軍として派遣されるのが、なんとナポレオンである。ナポレオンが人身掌握に魅了(チャーム)の魔術を使っている、という設定には笑ってしまった。
 ほかにもアンドルー・ジャクソン…7代大統領が出てくるし、アルヴィンの兄メジャーを惨殺するマイク・フィンクもアメリカン・ヒーローの系譜に連なる人物である。物語に登場するフィンクは残虐ながら、彼なりの原則をもった人物として描かれている。この巻だけのチョイ役にはおさまりそうにもないが、さて…?

 ティピカヌーの戦いは歴史上でもテクムシらの命運を決したが、物語でも同じ名を冠した戦い…いや、虐殺が最大の山場となる。加害者の白人たちはテンスクワタワの呪いにより、自らの蛮行を一生語り続ける責務を負うことになる。そしてアルヴィンはタクムソーとともにインディアンの諸部族を巡り、同胞が行ったことを語って歩く。このあたりは「エンダーのゲーム」の、自分が手を下した異類殺し(ゼノサイド)の後「死者の代弁者」となったエンダーとイメージが重なる。カードの世界では常に「物語ること」こそが最大の力となるようだ。

・田中芳樹「妖雲群行(アルスラーン戦記・10)」,角川文庫,1999.12
 前巻「征旗流転」から実に7年半ぶり。待ち続けていた、というわけではさすがにないが、望みをつないでいたシリーズ再開はやはり嬉しい。
 とはいえ、期待していたほどには物語が進行していない、というのが正直な感想だ。登場人物の魅力が土台としてあるから、読んでいて楽しいには楽しいが、もう少し展開があってもよさそうなものだ。後半の女性二人組のエピソードは、外伝用のネタを流用したんじゃないかとさえ思ったのだが、勘ぐりすぎだろうか。
 もっとも先の展開のキーになりそうな人物も登場してはいる。早めの続刊に期待したいところだ。…ということは、11巻が出るのを確認してからでもよかったかなあ。

・山内昌之「納得しなかった男〜エンヴェル・パシャ中東から中央アジアへ〜」,岩波書店,1999.9
 エンヴェル・パシャは1908年に起きた「青年トルコ党革命」の指導者として、第一次世界大戦で敗れるまでトルコの政権を担った人物である。しかし本書ではその頃のエンヴェルではなく、敗戦後ドイツに亡命してから中央アジアで戦死するまでの彼の行跡をたどっている。  エンヴェルがドイツに亡命してから中央アジアで戦死するまで、5年たらず。この間の彼の運命は数奇を極める。他の亡命者たちから一人別れて黒海を船で渡る途中、嵐で遭難。九死に一生を得てドイツで同志に合流した後、建国まもないソ連邦と接触する。ソ連共産党の指導下で中央アジアのトルコ民族の独立活動に従事しつつ、ギリシア−トルコの戦争に乗じてアナトリアへの帰還を図るが、ケマル・パシャ(後のトルコ共和国大統領)の妨害を突破できずに復帰を断念。その後中央アジア・東トルキスタンに渡り、今度は反ソ連の側にたってトルコ民族の独立をめざすが、敗れてわずかな部下とともに戦死を遂げた。
 幾度の挫折に遭遇しても活動を諦めない、エンヴェル・パシャのバイタリティには驚嘆する。だがそれを「不屈の男」と表現することには、やや違和感を感じてしまうのだ。亡命者の身の上で、いまだにトルコの政局を左右しているかのような言動、自分や周りの情勢に関する認識の甘さ…つまりは、地に足が付いていない様子なのである。やはり「納得しなかった男」というタイトルが、確かに彼にはふさわしく思われる。

・篠田節子「斎藤家の核弾頭」,朝日文庫,1999.12
 優生学によるカースト制が布かれた21世紀の日本。斎藤家の家長・総一郎は、「国民としての義務」に忠実な特A級市民であった。だからこそ、先祖代々守り通してきた東京の家からむりやり移転させられたときも、不満を抑えて従ってきた。だが、移転先に根付こうとした矢先、またも別の土地へ移れと命じられる。その真意を知ったとき、ついに総一郎は日本政府に宣戦を布告した…
 と上のようにだけ書けば、家族を守って日本政府に立ち向かう総一郎は、たくましいヒーローのように見える。だがこの主人公、明治時代の家父長を戯画化したような、かなりとんでもない人物である。妻・美和子の冷めた目から見た総一郎の、なんと滑稽に見えることか。近頃たまに復権が叫ばれる「威厳ある父親」に対する、痛烈な皮肉になっている。
 総一郎の家族観や女性観に共感することはさすがにないが、日本国から「不要」とされた彼が自分のプライドと居場所を求めて反乱に至る、その過程には同情も覚える。  基本的に喜劇なのだが、ところどころ笑うに笑えないところのある話だった。

・ダン・シモンズ「エンディミオンの覚醒」,早川書房,1999.12
 ロール・エンディミオンとアイネイアーがオールドアース…地球に辿りついて2年後。アイネイアーはロールに再び旅立って、かつて彼らと行を共にした宇宙船をみつけてくれるよう頼んだ。二人を追うパクス、その陰に長く潜伏していたコンピュータ群・テクノコアも動き出した。星ぼしを巡る追跡が再び始まる。人間の革新と、ふたりの悲劇が、その果てに待ちうけていた。  タイトルが「ハイペリオン」2部作に対応した形になっているのでどうしても比較してしまうが、「ハイペリオンの没落」とはかなり違う感触を持った。「〜没落」はその前作「ハイペリオン」で語られた各エピソードをつなぎ合わせてひとつの構築物にしたのが見事だったが、その点での驚嘆は今回あまり味わえなかった。主人公ロールの視点から連綿と綴られるストーリーは、つくりとしては単純に思える。
 そのストーリーだが、ちょっと何でもアリで都合良すぎ、という気がしないでもない。「選べ、もう一度」という言葉に象徴されるアイネイアーの主張…多様性の讃歌…には共感できるのだが、それを実現するのが彼女の血に秘められた奇跡、というのは不満だ。
 それでも、そんな長い話をダれずに読ませてくれる牽引力は、やっぱりすごい。長い分登場人物への感情移入度も強くなっている。終盤でアイネイアーが受ける仕打ちには読んでいるこちらまで痛みを感じたほどだ。そして、ラストを飾る時限付きハッピーエンドもせつない。

・秋山完「ラストリーフの伝説」,ソノラマ文庫,1995.3
 入植以来千年間、争いごとが一切起こらなかった惑星ラストリーフ。そこに住む羊飼いアイルは、惑星を覆う草原で謎めいた少女フェンを拾う。フェンのまとう「香り」に惹かれるアイル。ふたりは恋におちるが、彼女の到来は、惑星全土を一変させる惨劇の引き金となるのだった…。
 フェンのもつ能力、そしてラストリーフを覆う草の名が「ハルシオン」(春紫苑はハルジョオンの別称だが、こっちじゃなくて…)であることを考えれば、それでだいたい話の構図は読める。だが、だからといってそれがつまらない、ということにはならない。「お約束」ぎみだろうと、こうでなければならない、という話はあるものだ。多少とってつけたようでも、最後はやっぱりハッピーエンド、これに限る。
 ほめ殺しくさい書き方になってしまったが、気分としては大いにほめているつもりである。ただ素直に表すには面はゆい話なのだ、これが。

・武田泰淳「司馬遷〜史記の世界〜」,文芸春秋社,1959.2
 ひさびさに原点にかえって「史記」である。かえって、と言ってもこの本そのものは初めて読むのだが。
 第一編「司馬遷伝」は、その名の通り「史記」の著者の評伝。「司馬遷は生き恥さらした男である。」という書きだしはインパクトが強い。司馬遷が獄中の知人にあてた手紙「報任安書」をもとに、「生き恥さらし」てまで歴史を書き上げた彼の執念と憤りとを述べられている。
 第二編「『史記』の世界構想」は本紀・世家・表・列伝の順に「史記」の世界観を読み解く。なかでも「世家」の分析が面白い。春秋各国のいずれにも所属し得なかった孔子は世界否定の「世家」であり、反秦に最初に立ち上がった陳渉が転換の「世家」である、とするあたりは非常に納得がいく。もう一度「史記」を読み返してみたくなった。
 以前私が「史記」を読んだときは本紀→世家(斜め読みだったが)→列伝の順だったが、著者が言うところの「史記」はこの三つ(さらに、書、表)を相互に参照することではじめて意味をもつものだ。ハイパーリンクを張った電子版「史記」などがあったら便利に違いない。…多分、もうあるんじゃないだろうか?

・エリス・ピーターズ「聖ペテロ祭の殺人(修道士カドフェルシリーズ・4)」,現代教養文庫,1991.9
 シュルーズベリに今年も聖ペテロ祭の季節が訪れた。各地から多くの商人が訪れるこの祭は、町にとっても修道院にとっても大きな収入源。いまだ戦災の傷が癒えない(シリーズ2巻参照)町の有力者は修道院に祭りで得た利益を例年より余計に町に回してくれないものかと申し入れていた。だが、修道院がそれを断ったため、町の若者たちは広場で騒動をおこす。それ自体は大きな事件にはならなかったが、その夜、若者たちと争った商人が、何者かに殺された。
 今回は、登場したときすぐ「こいつが犯人だろう、犯人だといい、犯人であるべきだ」と思った人物が予想通りそうなったので、私としては非常に満足である。まったく、女性の前で若者が男を下げてしまったちょうどそのときにタイミングよく現れて、カッコよく女性を助けたりするようなやつが、悪人でなくていったいなんであろうか。
 …ミステリーで犯人をほとんどバラしてしまったのはまずかったかな?そっちの面白さよりも、そろそろレギュラーの出揃ってきた「シリーズもの」としての面白さの方が大きいので、別にいいと思うのだが。

・イアン・ワトスン「ヨナ・キット」,サンリオSF文庫,1986.6
 ソ連は秘密裏に人間の意識を他の生体…他の人間やクジラ…に移す技術を開発していた。同じ頃、メキシコにある天体観測所では大天文学者が全世界を動転させる宇宙論を発表。ソ連は複数のクジラが集まって形成される超意識<思考コンプレックス>に割り込み、その理論を解析させようとする。その結末は…。
 目をむく奇想で鳴らすワトスンのことだから、素直なクジラ万歳の話にはならないだろうとは思っていたが、案の定。人間の意識を植え付けられ、無いはずの<手>の幻影に混乱するクジラの思考、<思考コンプレックス>、そして我々のいる宇宙は虚像にすぎないという宇宙論…。正直私の理解力では分かりにくい部分もあったのだが、分かる部分だけでも楽しめる。
 クジラがハモンド宇宙論を受け入れた結果、クジラは人間のいない宇宙を選択し、人間はクジラが陸に乗り上げて集団自殺する現実(幻実?)を見ることになる。クジラの方の宇宙では人間がみな海に飛び込んでいたんだろうか。

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