読後駄弁
2000年読後駄弁3月〜4月


・栗本薫「グイン・サーガ70・豹頭王の誕生」,ハヤカワ文庫,2000.2
 題名だけみるとシリーズの重要ポイントみたいだが、内容はグインの他にナリス編とイシュト編も当分に含んだ3本立て。中継ぎの感が強い。
 一番大きい動きを見せているのはナリス編。ナリスとヴァレリウスのキャライメージは、一巻ごとに違ってきているような気がするのだが。
 あとがきで作者、このシリーズが100巻では終わりそうにないようなことをほのめかしている。そりゃあ栗本薫のことだから、「100巻」と言ったら実際には120巻ぐらいになるのは予想できるが…。さすがに200巻だと、つきあいきれない。

・クリス・ボイス「キャッチワールド」,ハヤカワ文庫,1981.4
 40年前、地球上の諸都市を壊滅状態に追いやった謎の結晶生命体クリスタロイド。彼らに対する報復攻撃のため、アルタイルへの遠征艦隊が編成された。その一隻、<憂国>の田村艦長は艦のコンピュータとの主導権争い、乗員の反乱など、さまざまな危機に直面する。果たして彼らは目的地にたどり着けるのか、またアルタイルで待ち受けているものは…?
 一見、スペースオペラっぽいが、<憂国>が発進するやいなや、話は予想もしなかった方に突き進んでいく。機械知性と人間知性との相克や両者の融合、異質な宇宙知性、また「魔法」を媒介としたそれとのコミュニケーションなど、章を改めるごとに新奇で大がかりなアイディアの連打、連打。ストーリー展開とか登場人物の描写などは二の次三の次の、力わざのSFである。
 ベイリーの「禅銃」を読んだときも同じような感想を持ったので、それが「ワイドスクリーン・バロック」の醍醐味(…少なくとも、私にとっては)なのだろう。
 ことさらグロテスクに描いた日本人が出てくるのも、両者に共通だな。

・橋本淳一郎「われ思うゆえに思考実験あり」,早川書房,2000.2
 実際には実験できないことを頭の中だけで実験してみること――思考実験で、さまざまな難問に挑む。葉緑体人間は可能か、コンピュータは意識をもてるか、時間はなぜ過去から未来に流れるのか。自由な発想と最新の科学理論が駆使される。
 面白かったが、内容的にはけっこう難しい。おしゃべりコンピュータ「ドクター・ファイ」と著者の対話形式で、初心者にも理解しやすいように作られてはいるはずなのだが…。とりあえず第1章「葉緑体人間は可能か」はついていけたし、第2章「人工生命は自己意識を持てるか」もなんとか。だが次の「自己意識とは何か」で、量子論(でた!)と意識の関係、ペンローズ理論が話題になるあたりから、だんだん私の理解力から遠ざかっていく。
 多分本のせいではなく私の素養不足。もっと分かればもっと面白いはず、と思わせてくれるだけにもどかしい。

・マイク・レズニック「サンティアゴ」(上下),創元推理文庫,1991.2
「さて話さないか?」
「なにを?」
「賞金稼ぎが二人、ラム酒のボトルをはさんで話すことといったら決まっているだろう?」(本文より)
 それは「サンティアゴ」と呼ばれる謎の人物。幾多の犯罪の首謀者として莫大な賞金を懸けられているが、30年来、その正体すらつかんだ者はいない。
 銀河辺境で「ソングバード」の異名をもつセバスチャン・ナイチンゲール・カインもサンティアゴを狙うひとり。彼はとある酒場でサンティアゴの情報――間接的だが有望そうな――を手に入れた。噂では、銀河最高の賞金稼ぎ「エンジェル」もサンティアゴを探してこの辺境に向かいつつあると聞く。サンティアゴを捉えるのはソングバードか、エンジェルか、それとも他の人物か。そして、謎のサンティアゴの正体とは…?
 SF西部劇、とはこの話を作品するときに最もよく見られる、そして多分最も端的な言葉である。たしかにSF的なアイディアとか「センス・オブ・ワンダー」という点では、見るべきものはほとんどない。舞台を開拓時代の西部にしてレイガンを鉄砲に持ちかえ、宇宙船のかわりに幌馬車で移動しても同じ話は可能だろう。
 しかし、それはそれでいいのである。ストーリー展開と、そして何より登場人物の魅力では、この「サンティアゴ」は掛け値なく一級品なのだから。革命の夢やぶれた後も自分の人生に「意味」を求め続けるセバスチャン・カイン。サンティアゴへの独占インタビューで一攫千金を狙う「ヴァージン・クィーン」ヴァーチュ−・マッケンジー。キリスト教の伝道師にして凄腕の賞金稼ぎでもあるファーザー・ウィリアム(私はこいつがひいき)。冷血な殺しの芸術家、最高の賞金稼ぎ「エンジェル」。そして最後に姿をあらわすサンティアゴ。どれもストレートなカッコよさで読者の目をそらせない。放浪の吟遊詩人「ブラック・オルフェウス」が歌う彼らの叙事詩も、雰囲気を盛り上げてくれる。
 巻末の解説によると映画化の計画もあったらしいがそれも頷ける。

・大野修一編「SF Japan」,徳間書店,1999.4
 日本SF大賞20回記念ムック。まず受賞経験者の作品として新井素子「チグリスとユーフラテス外伝」、堀晃「柔らかい闇」、梶尾慎治「あしびきデイドリーム」、神林長平「ウィスカー」の4編を収録。「チグリス〜」は本編を読んでないのでパス。「柔らかい闇」が中では気に入っている。やっぱりSFの舞台は宇宙が一番。
 しかし目玉はやはり第1回SF新人賞受賞の三雲岳人「M.G.H」。
 新婚カップルに抽選で宇宙ステーション「白鳳」へのハネムーンご招待!…幼なじみの森鷹舞衣に誘われ、偽装結婚で「白鳳」行きの切符を手に入れた若き科学者・鷲見崎凌。だが到着早々「白鳳」の副所長が変死体で発見される。死因は墜落死。無重量状態のステーションではあり得ないはずなのだが…。
 宇宙ステーションが舞台とする理系ミステリ。トリックの核が私の苦手分野で、完全に分かったと自信をもって言えないのが悲しいところだが、ステーションならではの特性を巧く生かしているのでは?
 殺人事件が起こるまでのかなりの分量が、登場人物たちの描写にさかれている。鷲見崎凌のキャラクターはいかにも理系ミステリの主人公らしくて面白い。しかし、相方ヒロインが主人公のことを想っている「ちゃん」づけ幼なじみというのは、ちょっと狙いすぎ(…嫌いじゃないんだが)。
 ワキの登場人物のうち、キャラに肉付けがされているわりにはあまり事件に絡んでこないのがいることが、ちょっと不満。彼らのうち鳥にちなんだ名前をもっている登場人物は、シリーズ化したときにレギュラーにでもする予定なのだろうか。もしそうなら、ちょっと読んでみたい気もする。


・ロバート・J・ソウヤー「フレームシフト」,ハヤカワ文庫,1999.3
 ヒトゲノム研究に携わる遺伝子学者ピエールは、ある晩ネオナチの暴漢に襲われる。新婚の妻モリーの力で辛うじて助かったが、彼には狙われる理由に全く心当たりがない。わざわざ殺しに訪れる必要のない自分なのに…。事件を追ううちピエールは自分が巨大な陰謀に巻き込まれていることを知る。同時に、彼が研究しているヒトゲノム研究でも驚くべき発見が…。
 SFと医療(+保険)サスペンス両方の要素をもった作品。…というよりはSFパートとサスペンスパートが混在している作品、と言った方が正確だろうか。これまで訳されてきたソウヤー作品のようなアイディアの賑やかさは、あまり感じられなかった。多少食い足りない気はするが、逆にとSFを読みつけていない人が入り込みやすいとも言える。
 とはいえ、まるで当然のようにテレパスを登場させたり、ジャンクDNAの謎やネアンデルタール人遺伝子といった大がかりなネタを軽々と使ってしまうあたりは、やはりソウヤーならでは。ただしそれぞれのネタの連携が少なく、いくつかの話が独立して進んでいまっているような…。ラストがちょっと泣かせる展開なので、読んだ直後はあまり気にならないのだが、振り返ってみると「あれ?」という感じだ。

・井上雅彦監修「異形コレクション15・宇宙生物ゾーン」,廣済堂文庫,2000.2
 谷甲州に森岡浩之、堀晃に眉村卓というラインナップに惹かれて手にとった、評判のアンソロジー「異形コレクション」。SFとホラーのどっちつかずの作品が多いんじゃないかと思っていたが、かなりSF方面に開き直っている。ホラーを期待するとちょっとハズレなのかも知れないが、私にはこっちの方が嬉しい。
 24点の作品のうち私が一番気に入ったのは、森下一仁「黒洞虫」。ストレートなSFだ。題名は怪奇っぽいが宇宙で「黒い洞」といったら、アレしかないでしょう。
 山田正紀「一匹の奇妙な獣」も、現代思想の用語を使うペダンティックなところがちょっと引っかかるが、不思議と印象に残る。別の長編SFの一部となる予定ということで、そっちも気になるところだ(宣伝に乗せられているわけだが)。
 森岡浩之「パートナー」は、コニー・ウィリス「我が愛しき娘たちよ」を別の視点から見たものだと思うのだが、どうだろうか。
 ホラー、ということなら田中啓文「三人」が一番だろう。閉ざされた宇宙船内で、互いに相手が幻想の産物ではないかと疑い出す三人の乗組員。怖い、というよりおぞましいという方に近い感触だった。ラストはちょっと尻すぼみかな?
 あと、ツボにはまってしまったのが笹山量子「占い天使」。ON/OFF思考しかできない異星人に、妙に可愛げを感じてしまった。
 全体としては大当たりの作品こそなかったものの、小当たりの良品は多かったので、まずまず満足。

・スティーヴン・ジェイ・グールド「ワンダフル・ライフ〜バージェス頁岩と生物進化の物語〜」,早川書房,1993.4
 なかみをパラパラとめくってみる。ところどころにあるのは億単位の過去に生きていたとされる虫どもの図版。エビカニやダンゴムシの親戚や先祖みたいなのについて延々と論じたこんな分厚い本、素人が読んでもつまらんだろう、と思う人がいるかも知れない。描かれているのが本当にダンゴムシの先祖だったのなら、それは正しいのだが…。
 学校の理科で習う、進化の系統樹を思い出していただきたい。教科書には一本の幹が上のほうにいくにつれ枝分かれしている「樹」が描かれていたことだろう。枝の一つ一つがそれぞれの動(植)物種、上の方にある枝ほど最近の種であることは言うまでもない。この図に従うと木の幹のほう…つまり太古の昔には、生物のバリエーションは現在に比べてずっと少なかったことになる。
 この本で扱われているバージェス頁岩の化石生物も、発見当初はすべて現生生物の原始的な先祖だと思われていた。だが最近になって再研究されたこれらは、実は現在の生物とはまったく別の造りをもった「奇妙奇天烈生物」が大半を占めていたのである。この事実から導き出される生命観の大転換とは…?
 バージェス生物についての解剖学的な詳細(第3章)は少々退屈かと思いきや、これがなかなか面白い。扱っている生命の不思議さに加え、グールド先生の解説は懇切丁寧で読むものを飽きさせない。
 また、これに続く第4章はバージェス頁岩を最初に発見した大学者ウォルコットがなぜ誤りを犯してしまったのかを追求する。社会的な風潮や偏見から決して自由でない科学、事務と研究の板挟みに科学者の実像を垣間見せてくれる。
 バージェス生物についての研究は現在も進行中なので、この本が書かれてから新たに分かった事実も多い。本書で現生生物とは全く別物と紹介されたバージェス生物について、類縁関係が発見されたり、想像図の間違いが発見されたりしている。例えば本の表紙を大きく飾っている「奇妙奇天烈生物」ハルキゲニアの絵も、現在の研究結果では上下が(ひょっとしたら前後も)逆さまの想像図だったということだ。
 また本書は他の学者からの風当たりも強い。本文中にも登場している古生物学者コンウェイ・モリスがこの本に対抗して自著を出しているし、「利己的遺伝子」のドーキンスも、グールドが自分の進化論のためにバージェスを恣意的に利用している、と批判している。まあ何にせよ、一冊の本をまるまる鵜呑みに信じてしまうのは危険だということ。とりあえずハルキゲニアについては、今月(2000.3)に出た文庫版では(とりあえず現時点では)正しい図が表紙に出ているようだ。これから読む方には文庫版をお勧めしたい。

・ジョアン・フォンクベルク,ペレ・フォルミゲーラ著・荒俣宏監修「秘密の動物誌」,筑摩書房,1991.12
 知られざる博物学者・ペーター・アーマイハウゼンの残した研究成果。6対の脚をはやした蛇ソレノグリファ・ポリポディーダ、亀の甲羅を持つ鳥トレスケロニア・アティス、神話のケンタウロスそのままの容姿をもつ類人猿ケンタウルス・ネアンデルターレンシスなど。これら従来の動物学から無視され、抹殺されてきた珍獣・奇獣を、写真も交えて一挙公開!
 …つまりは活字版「水曜スペシャル!」である。「かーわぐっちぃ ひろしがぁ〜 どーくつにはぁいる〜」という嘉門達夫往年の名曲を思わず口ずさんでしまう。もっとも本当らしさという点ではこちら「秘密の動物誌」の方がはるかに上だが。意味ありげに写真だけ載せて一切解説なし、という項があったりするのも「それらしさ」を醸し出している。ちょっと目には本物としか思えないほど真に迫った写真群も一見の価値ありだ。
 しかし、紹介されているのは脚のはえた蛇や魚、甲羅のある鳥、羽のはえたライオンらしき骨格などなど、既存の動物のキメラか、神話上の動物がほとんど。先に読んだ「ワンダフル・ライフ」のバージェス生物に匹敵するオリジナリティをもった奇妙さはちょっと見つからない。想像力の限界というか、事実は小説より奇なりというか。「ワンダフル・ライフ」のあとにこんなのを読んでいたら、グールド先生にしかられるかも知れないが…。

・栗本薫「グイン・サーガ71・嵐のルノリア」,ハヤカワ文庫,2000.3
 ナリスのパロ内乱編、いよいよ佳境。
 久しぶりに登場したレムス国王、いつのまにやら死霊憑きから魔物憑きに昇格しているし。私は、最初の方のレムスの不器用な王っぷりが、結構好きだったのだが…。これは私がひそかに期待していた「大器晩成の名君」路線にはなりそうにないか?

・神林長平「Uの世界」,ハヤカワ文庫,1996.8
 19歳の女性優子には奇妙な祖父がいる。この世界も人間も実は偽物で、「都市」から送られている幻想なのだと彼は言う。そして優子は本当は優子ではなく、ユウという男性なのだ、と。優子がそれを信じないまま、祖父は死んでしまった。だが、遺品にあったヘッドセットをかぶると、祖父の声が同じことを語りかけてくる。その言葉に従った優子…ユウが見たものは――。
 …という第一話「虚蝉」を冒頭に、6つの短編で構成されている「Uの世界」。各話は一方の世界が別の一方で語られている虚構の世界である、という形を主として連結されていく。だが、語る側の世界も、実は確固とした現実ではなくて…と、現実に対する不安と疑惑が話全体を貫いている。第六話「うん醸」(「うん」の字が出ない…)でいったん全ての説明がなされるのだが、その安心も束の間のこと。読み終わって、ふと自分の周りを見回してみるのが怖くなったりする。

・神林長平「言壺」,中公文庫,2000.2
 ワーカム。それは文書の編集、校正はおろか自分の思ったとおりの文章を書く支援、はては持ち主の文体で著述の代行までやってのける。その驚異の機械に、作家解良翔はある文章を入力しようとして拒否される。一見ただ意味の通らないだけのその文章が、世界中のネットワークに接続するワーカムに入力されたとき、何が起こるのか?
 私たちは世界そのままを見て理解しているのではなく、「言語」というもので世界を切り分けてからそうしている。「言語」のない状態、たとえば動物や生まれたばかりの赤ん坊にとって、世界はどう見えるものなのか、私たちには想像もできない。私たちの世界を形作っているのは「言語」なのだとも言い換えられる。だから、その「言語」が根本的に(たとえば、ワーカムのような機械を使って)歪められたら…。
 もちろん、世界も歪むのである。
 現実世界というものの不確かさという点で、先に読んだ「Uの世界」とは共通するものがあるように感じた。

・ジェイムズ・ブリッシュ「宇宙大作戦・二重人間スポック!」,ハヤカワ文庫,1972.2
 突如地球連邦に対し攻撃をはじめたクリンゴン帝国。二国の戦争を防いでいた純エネルギー知性オーガニア人たちはクリンゴンの設けた思考フィールドによって惑星に幽閉されている。カーク艦長率いる<エンタープライズ>は一刻も早くオーガニア星にたどり着くため、一時的なタキヨン・コピーを目的地に送り込む新型転送装置で、タキヨン転換されたスポック副長をオーガニアに派遣しようとした。だが思考フィールドがタキヨンをはねかえし、寸分違わぬ二人のスポックが実体化してしまった…。
 大家によるオリジナル。だいぶ昔に読んだときの記憶ではかなりハードSFしていたと思っていたのだが、今読み直してみると、そこはやっぱりスター・トレック。「ハード」というには少々キツい。ただ、事件の前振り部分で転送装置嫌いのマッコイと技術屋スコットが、転送された人間は転送前の人間と真に同一であると言えるのか、人間の「魂」はそこにあるのか、という議論をするくだりなどは面白い。
 キャラクターについての描写が少ない点スタートレック小説特有の面白さはやや薄れるが、上の転送装置問題や二重化したスポックの真偽をめぐる議論など、キャラクターに依存しない部分が読みどころである。
 ところでミスター・スポック、転送された人間の魂問題は結局「わからない」ということで落ち着いてしまいましたが、転送するしないに関わらず人間にそもそも不滅の魂が存在するのか、という点の議論はされないんですね…。

・アーサー・C・クラーク「楽園の泉」,ハヤカワ文庫,1987.8
 22世紀。地球から宇宙へ上がる手段としては、いまだにロケットが使われていた。年々増える大気圏外への輸送量に対し、それはあまりに非力で不経済なものだった。だがひとりの工学者が破天荒なアイディアを案出する。静止軌道上の衛星と地上とを炭素繊維で繋ぐ「宇宙エレベーター」を建設しようというのである。建設予定地は赤道直下タプロバニー島にそびえるスリカンダ山。そこは二千年来の仏教の聖地でもあった…。
 クラークのSFを読むとき私が期待するのは、まず美しく壮大な光景。今回も期待は裏切られなかった。建設途上のエレベーターを昇る途中、主人公が電離層で目にするオーロラの描写は荘厳なまでのイメージを想像させる。この部分だけ映像化したものを見てみたいほどのものである。
 また、上のシーンが描かれるのは、事故によってエレベーターの中途で立ち往生した人間を救出に向かうシーンでのことだが、この部分の「一難去ってまた一難」の緊迫感もまた読みどころに挙げられるだろう。「渇きの海」といい、この作品といい、クラークはレスキューものが結構上手かったりする。
 エレベーターの理論や建設方法の点で科学的にも十分筋の通ったテクノロジー系の作品なのだが、それだけにとどまらない。序盤、古代タプロバニー王カーリダーサのエピソードと22世紀のシーンとをオーヴァーラップさせるあたりは映画「2001年〜」の、あの「投げた骨から宇宙ステーションへ」を連想させる。
 このカーリダーサのエピソードは物語全体とも密接に関わっている。エレベーター建設予定地を保持する仏教寺院が、自分たちの聖地を明け渡すきっかけもカーリダーサの伝説によるのだが、この顛末が私には少しだけ不満。せっかくタプロバニー島=スリランカの位置を現実から800kmも動かして宗教vs科学の構図を作ったのに、宗教側が早々と退きすぎると思うのである。科学を代表するエレベーターの設計者モーガンと、かつては著名な科学者でありながら宗教への道を選んだパーラカルマ師の、もっと劇的な対立と和解を期待していたのだが…。
 それはともかく。他にも背景的に言及される異星文明からの訪問者<スターグライダー>や遠未来を舞台にとったエピローグなども他クラーク作品に通じるものが感じられた。彼の作品のおいしいところをできるだけ詰め込んだ集大成的作品である。

・山内昌之「ラディカル・ヒストリー」,中公新書,1991.1
 ロシア、そして今はなきソ連は、広大な中央アジアをその領土の内に抱えていた。彼らにとって中央アジアとはどういう存在だったのか、そして中央アジアにとってロシアとは、またロシア革命とは何だったのかを探る。
 題名には「ラディカル」とあるが、とられている方法が急進的なわけではない。史料批判を積み重ねていく従来どおりの歴史叙述である。ここでのラディカルさは現代の世界システムを念頭に置きながら、執筆当時、分裂への途上にあったソ連をアジア側主体に考察するという、視点のラディカルさにある。
 ソビエト連邦の解体と再編を予測した部分があるのはさすがだが、この本が出版されたその年のうちに、本当にソ連が崩壊してしまうとまでは、果たして予想の内だったのだろうか。ひょっとしたら「ラディカル・ヒストリー」よりさらに、現実はラディカルだったのかも。

・小林泰三「玩具修理者」,角川書店,1996.4
 まず表題作の「玩具修理者」。一番ゾッときたのは、少女が弟を玩具修理者に連れていく途中で、友達に呼び止められるシーン。普通の会話が交わされる、その情景を想像するとそうとうに怖い。
 だがそれ以上にインパクトがあったのはラストの一節。男女の間で交わされた会話の意味が一言でガラリと変わる。鋭い人なら予想できる結末なのかも知れないが、幸い(この場合は「あいにく」ではない)私はたいへんニブい。そうくるか、と思わず手を拍ってしまった。
 その手を拍ったところの少し前、男女が「生命」とは何かについて言い争うところで、SFへの傾斜が感じられた。そして収録されているもう一つの作品「酔歩する男」になると、これはもう完全にSFの領域である。こんなところで量子論SFを読むことになるとは思わなかった。
 時間のながれや因果律といった、日常的現実を支える根本中の根本を動揺させてくれる作品。読んでいくうちに題名のせいでなく酔ったような気分になるのだが…。この酩酊感はクセになる。

・グレッグ・ベア「ダーウィンの使者」(上下),ソニー・マガジンズ,2000.4
 人間の妊婦のみに発病して、確実に流産を引き起こすという難病「ヘロデ流感」。女性遺伝学者ケイ・ラングはそのウィルスがヒトゲノムに内在し、なんらかのきっかけで発現するものであることをつきとめていた。同じ頃、人類学者ミッチ・レイフェルスンはアルプス山中でネアンデルタール人の夫婦と思われるミイラを発見。だが、その母親の胸に抱かれている子供は、現世人類の特徴を備えていた。二つのの謎が出会うとき、明らかになる進化の真相とは…。
 グレッグ・ベアで人類の進化もの、となるとどうしても「ブラッド・ミュージック」を連想してしまうが、今回はヒトゲノムがらみということで、むしろ先月出たソウヤー「フレーム・シフト」と比較できる点が多い。「フレーム・シフト」ではあくまで人為の範囲、それも科学者個人で扱えたDNAが、こちらでは国家プロジェクトをもってしても抗えない進化の鍵…「ダーウィンの使者」を秘めている。話のスケールではこちらに軍配が上がる。進化の結果については、ちょっと都合良すぎやしないかとも思うが…。
 ケイ・ラングたちが明らかにする進化の形は、進化論で言う「断続平衡説」を極端な形に発展させたものなのだが、彼女らがどう言い換えようとしても宗教と密接な関わりを持つ(このへんあまりはっきり言うとネタばらしになるので勘弁)。宗教と進化論の発展的な融合を意図…と言うのは大げさだろうか。

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