読後駄弁
2000年読後駄弁5月〜6月


オースン・スコット・カード「エンダーのゲーム」,ハヤカワ文庫,1987.11
 東京オフの目印用に持っていったんだが、ついでに再読。改めて読み返してみて、つくづく厳しい小説だなぁとため息をついた。
 登場人物が皆、逃げない、逃げることを許されていない話なのである。エンダーは能力的にも精神的にも限界ギリギリまで追いつめられる。そして、ついにキレてとった行為こそが、次なる苦難への始まりになってしまう。
 主人公ばかりではない。エンダーを「つくりあげる」責任者グラッフは、あえてエンダーと直接対面し、行動をともにし続ける。遠くで指示だけ出して、自分が追いつめた子供の苦痛を見ずに済ませるとこともできたと思うのだが、そのような「逃げ」には走ろうとしない。ピーターにしても、自分の野心と適当なところで折り合いをつけずに、地球の「覇者」にまでなってしまう。ボンソーですら、エンダーに対する憎悪から逃げず(…彼の場合「逃げられず」と言う方が正しいだろうが)、いき着くところまでいってしまったと言えるのではないだろうか。
 こんな容赦のない話なのに、それでも引き込まれてしまうはなぜだろうか。アーライやビーンらのエンダーに対する信頼・友情、グラッフがアンダースンやメイザーの前でときおり見せる人間的な躊躇、そしてラストでバガーの窩巣女王がエンダーに遺した許しと希望……そういった要所要所におかれた優しさが、エンダーを彼の苦痛多き人生に繋ぎとめると同時に、読者をも繋ぎとめているのかも知れない。

陳舜臣「風よ雲よ」(上下),中公文庫,1999.12
 明朝末期のマカオ。大阪夏の陣の落ち武者、安福虎こと安福虎之助は、偶然出会った瀕死の武士から重大事を託された。大阪の陣から逃れた豊臣秀頼の遺児が中国でかくまわれている、彼を見つけて日本へ帰してほしい、というのである。やがて見つけた少年千丸とともに、虎之助は明末清初の乱世を彩るさまざまな人物と出会っていく…。
 しかし主人公の安福虎之助、どうしようもないほどの巻き込まれ体質だ。逃亡先のマカオで豊家の落胤探索を頼まれ、その子を見つけて日本に帰る途中に和冦の大立者・鄭芝竜(ちなみに国姓爺鄭成功の父)と同船になる。南は蘇州の町を歩けば中国史上有数の美女陳円円にぶつかり、北は遼陽を旅すればこの時代のキーマンのひとり呉三桂に捕まる、という具合。小説なんだから、と言ってしまえばそれまでなんだが…。
 小説的と言えば、ラストで明朝の落胤と豊家の落胤が顔を合わせるというのも非常に小説的。前に読んだ「戦国海商伝」も毛利家の隠し子が主人公だったし、陳舜臣こういう設定が好きなんだろうか。…いや、書いている方が好きなんじゃなくて、読み手の日本人の方が貴種流離譚を好んでいるからなんだろうな。

橋本治「宗教なんかこわくない!」,ちくま文庫,1999.8
 オウム事件が世間を揺るがせている中で書かれた批評。なぜこんな事件が起きたのか、オウム真理教に破防法を適用することは是か非かという議論を横目に、なんで日本はこと「シューキョー関係」となるとこんなに及び腰になってしまうのかと嘆ずる。いわく「宗教なんかこわくない!」。
 前近代の、まだ「自分で考える」のできなかった人間たちが、ものを考えるためのよりどころとして発明したのが宗教である、とこの本では断言してしまう。日本人が真に近代人になるために必要なのは宗教を理解することよりも「自分で考える」ことだ、とも。非常に明快なのだが、明快すぎて一歩退いてしまうような気分も生じる。
 もともと私は「こうかも知れない」と言われると「そうかも知れない」と納得するが、「こうだ」と言われると「そうか?」と聞き返したくなるタチである。日本はともかく世界中では宗教というのは大きな意味を保っているものなのだから、もっと「前近代人の思考枠」という他に現代的な意義があるんじゃないか、そして自分はそれを理解していないのではないか、と思ってしまう。
 著者に言わせると、それこそ日本人特有の宗教コンプレックスだ、ということなのだが。

ジョージ・R・R・マーティン「サンドキングス」,ハヤカワ文庫,1984.6
 やっと見つけた、マーティンの短編集。収録作の構成は叙情的な作品に、2、3のホラー系といったところ。読む前に聞いていた前評判どおり、最初に収録されている「龍と十字架の道」と最後の表題作「サンドキングス」が印象に残る作品だった。
 「龍と十字架の道」では、キリスト教では裏切り者であるはずのユダを聖者とする異端信仰を知らされた異端審問官が、それを奉ずる惑星を訪れて信者と対決するのだが、そこで「信仰」というものの本質をつきつけられてしまう。ユダの物語もさることながら、信仰とは真実から身を守るための「暖かく、美しい」嘘であると喝破するあたりが、キリスト教徒にとってはショックなんだろうか。
 これにつづく「ビターブルーム」も次点で良。「あたたかな嘘」というキーワードは上の「龍と十字架の道」と共通している。
 そしてトリにして表題作の「サンドキングス」。グロテスクなペットを見せびらかすのが趣味のサイモン・クレスが、とある怪しげな輸入商で手に入れた「サンドキングス」の群れ。この生物は群れ同士で戦争を繰り広げたり、餌を与える人間を神として崇めたりするという。刺激的な戦争シーンを求めたクレスが、サンドキングスの餌を断ってわざと戦争を起こさせようとしたことから、恐怖ははじまる…。アリを飼って巣を作らせたり、女王アリを見つけようとして巣を掘り崩した経験のある人間には(…私のように)、とくにお勧めできるホラーSFである。

佐藤賢一「カルチェ・ラタン」,集英社,2000.5
 16世紀、宗教改革の波に揺れるパリ大学の学生街「カルチェ・ラタン」が舞台。親の七光りで夜警隊長にまつりあげられたお坊っちゃんドニ・クルパンと、パリ大学きっての天才にして不良学生マギステル・ミシェルが事件に挑む。当初無関係と思われていた個々の小事件は、大学の闇にひそむ異端信仰に繋がっていた…。
 副題は「ドニ・クルパンの筆おろし騒動記」に決定。基本は宗教史ミステリなのだが、カバー絵の重々しい雰囲気とは裏腹にどうも艶笑譚の色彩が濃い。もちろん16世紀の宗教界・大学の状況はうまく再現されていると思うし、パリ街区の描写についてはこだわりと言っていいほど詳しいのだが…。ひょっとしたら、私の目がシモネタにばかりいっているだけなのか? なにせコンドームの語源が地名だったということに感心してしまったぐらいだし。
 主人公コンビ以外の登場人物としては、バイプレイヤーの熱血宗教おじさん・イニゴ・デ・ロヨラ(イグナティウス・デ・ロヨラ)が面白かった。彼の設立したイエズス会は、絶対体育会系だったに違いない。
 それにしても、宗教系が続いてしまったなぁ…わざとじゃないんだが。

伊藤典夫・浅倉久志編「スペースマン(宇宙SFコレクション1)」,新潮文庫,1985.10
 「日本人が読んで楽しめる海外SFアンソロジー」として厳選された短編集。ブラッドベリの散文詩的な小作品「イカロス・モンゴルフィエ・ライト」を筆頭に、粒よりの作品が並んでいる。収録の11作品のどれをとっても楽しめるが、私がとくに気に入ったのが最後の3つ。
 バリントン・J・ベイリー「空間の大海に帆をかける船」。私たちにとっての水と同様に、空間そのものの「上」に浮かんだり航海したりする存在がいたとしたら…?さすがなんというか、バカな発想をマジなふりをして話にするあたり、いかにも「時間衝突」「禅銃」の作者らしい。
 セイバーヘイゲン「バースデイ」。故障した世代宇宙船で、ただひとり人工冬眠で成長を遅らせられる少年。最後の最後まで、なぜ少年がそういう境遇におかれるのかがわからなかった。ラストであっと言わされ、またゾッとさせられもした。
 そして最後がジョーン・D・ヴィンジ「鉛の兵隊」前2者とはうってかわって、ロマンティックな作品である。船乗りの女と酒場の男、普通とは逆のシチュエーション。ラストが悲劇に終わらなかったのは良かった。…だがこの「鉛の兵隊」と「踊り子」のカップル、先行き不幸な結末になりそうな気がしてしようがない。

津野海太郎「誰のための電子図書館?」,HONCO双書,1999.11
 日本の電子図書館計画には市民の存在感があまりにも薄い。市民と電子図書館との直接の橋渡しとなるはずの公共図書館員ですら、第二国会図書館など国の電子図書館計画への関心が薄い。さらに、70年代以来の市民図書館運動で公共図書館が身近になったのはいいが、貸出実績のみを重視しすぎたせいで「図書館というよりも親切な無料貸本屋みたい」になってはいないか……?などなど、図書館員にとっては少々耳の痛い評論集。
 電子図書館についての著者の言葉は、収録されている対談で図書館側からも発言がでているように、急ぎすぎの感は確かにある。現場にいる人間としては「目の前の仕事を片づけるのがやっとでそれどころじゃない」とも言いたくなる。だが逆に考えれば、目先の多忙さにとらわれない広い視野に立った意見でもある。別にその全てを採り上げなくても、できるところからやる、という姿勢は必要なんじゃないだろうか。
 …などと私が偉そうに言わなくてもそう思っている図書館職員は多いようで、実際この評論が最初に掲載されたころに比べると、状況はかなり良くなっている。インターネットの大幅な普及のせいで対応しないわけにはいかない、ということもあるだろうが。
 第三部「公共図書館」では、公共図書館がベストセラーの複本を大量に購入する一方でリクエストの少ない専門書などの収集がおろそかになっていないか、貸出至上主義の「無料貸本屋」になっていないかと警告している。
 利用者の求める本をできるだけ確実に、できるだけ早く提供するのが図書館なのだから、人気のある本を複数購入することは必要だ。利用者の要求を重視しているのであって、貸出至上主義という言葉は当たらない。…もちろんそれも程度の問題で、他のリクエストを受け付けないのにベストセラーだけは複本が10数セットもある、というのは間違っているのだが。
 他のリクエストにも応じられるだけの資料費を確保した上で、さらに人気のある資料は複本を購入するというのが理想なのだが、そんな余裕のある図書館は多くはない(というか、全くない)。図書館間の相互貸借制度を充実させるのが一番の早道だろうか。評論では「公共図書館」とひとくくりに述べているが、同じ公共図書館といっても市町村立図書館と県立図書館では少々役割も異なる。市町村で利用度の高い本を購入して、高価で利用回数の少ない専門書は県立がカバーする、という分担は実際に行われている。もっとも、県立にも個人の利用者が多く訪れる以上、ベストセラーを扱わないというわけにはいかない。県立が市町村立に比べて資料費に余裕があるとは言えないのが辛いところだ。
 「無料貸本屋」の言葉に刺激された感情的な反論もあるようだが、私は実物の貸本屋を見たことがないのでいまいちピンとこないし、向こうが怒らせるつもりで使った言葉に素直に乗ってやるのも癪なのでノーコメント。ただ、貸本屋として利用する人に対しても、それ以外(それ以上)を求める人に対しても、その役割を果たせるのがいい図書館なんじゃないかと思う。

山田正紀「宝石泥棒」,ハルキ文庫,1998.10
 甲虫を守護者とする戦士ジローは、初めて出会ったいとこの少女に恋情をいだいてしまう。だが、いとこを異性としてみることは、ここマンドールの集落でも許されないタブーであった。マンドールの神「稲魂(クワン)」はジローが思いを達するための条件として、ひとつの試練を与えた。かつて人間のものであった最も美しい「宝石」を取り戻すこと。伝説では「甲虫の戦士」が「宝石」を探して旅に出るのだという。ジローは女呪術師ザルアー、”狂人(バム)”チャクラとともに、「宝石」を求めて「空なる螺旋(フェーン・フェーン)」へと向かった…。
 クエストが与えられそれを達成するために仲間と旅に出る、というヒロイックファンタジーの王道のような始まり方だが、中身はどうして、そう単純ではない。一行の旅する世界…生態系や文化…の描写が、ふつうのファンタジーとは較べものにならないぐらい濃密なのである。本文中では語り足りないとばかりに、ふんだんな原註まで付けられている。この註がまた単なる補足ではなく物語の伏線にもなっている、というふうに、とにかく一筋縄ではいかない。
 そういうふうに描写された世界が、実は現実と無関係の異世界ではなくて、実は…ということが後半で明かされていくのだが、このあたりはまあ、よくあるパターンだと思う。とはいえ、そのパターンの演出が上手いので興味が薄れることはほとんどない。
 ラストに登場するスフィンクスは「幼年期の終わり」のオーバーロードを連想させる。しかし「幼年期〜」が人間が彼らの支配を受容するところから話がはじまるのに対し、この作品では、半ば諦めの念をいだきつつも、彼らを拒もうとする人間の姿が描かれる。こっちの方により共感を覚えるのは、私が著者と同じ文化圏に属しているせいなのか、それとも単にひねた性格のせいなのか…。

鯨統一郎「邪馬台国はどこですか?」,創元推理文庫,1998.5
 邪馬台国はどこに存在したのか、聖徳太子の正体は、本能寺の変の真相は――?歴史の謎に、「歴史エンターテイナー」宮田六郎が奇説を披露する。
 書かれていることをどこまでマジに受け取っていいものかは分からないが、表題作「邪馬台国はどこですか?」は私の素人目には説得力があるように見える。「謀反の動機はなんですか?」「維新が起きたのはなぜですか?」あたりは、いくらなんでもムチャだと思うが…。
 説得力のいかんに関わらず、「そうだったとしたら…」と想像をたくましくしてみるのが面白い。ムチャだといった「謀反の動機〜」にしても、キリスト復活ネタ「奇跡はどのようになされたのですか?」にしても、その線で小説を書いたらかなり面白いものになるんじゃないかと思う。
 ただ、宮田の論敵役をつとめる早乙女静香が、「才媛」という設定のわりには言うことがステロタイプすぎるように思えるのが、ちょっと興ざめなところ。

鈴木董「オスマン帝国の解体〜文化世界と国民国家〜」,ちくま新書,2000.5
 題名では「オスマン帝国」が正面に出ているが、とくにイスラム史を詳しく知らなくても、興味深く読める。
 第1部「民族国家と文化世界」で、現代の国際関係、国際秩序で基本単位になっている「ネイション・ステイト」の本質を説き、それが近代西欧で生まれた特殊な形態であることを示す。第2部「文化世界としてのイスラム世界」では「ネイション・ステイト」によらない国家、秩序として近代以前のイスラム世界での国家のみかた・ありかたが紹介される。そしてその実例として挙げられるのが第3部「オスマン帝国の場合」。以上が全体の構成。
 現在、ほとんど絶え間なく民族紛争が続いているバルカン諸国を、それなりの秩序をもって支配していたのがオスマン帝国だった。西欧から流入した「ネイション・ステイト」の思想が、この地域の分裂と混乱、ひいてはオスマン帝国の解体を生み出したことになる。
 オスマン帝国の支配を礼賛するわけではない。オスマン帝国支配下の平和はイスラム教を頂点とする、不平等を前提とした「平和」だった。それを現代の状況に単純に当てはめるのは間違いだろう。だが、現在自明のものとされている「国」のありかたが唯一不変のものではない、ということは覚えておいていいのではないかと思う。

綱淵謙錠「乱」(上下),中公文庫,2000.4
 幕末維新期、フランスから江戸幕府に派遣された軍事顧問団と、その一員で函館戦争まで幕府軍と行を共にしたフランス士官ブリュネを軸に、激動の時代を描く史伝。
 カバーでは歴史小説…と紹介されてはいるものの、本文は当時に生きた人間の日記や回想録など一次史料をふんだんに引用した堅牢なつくりである。画才豊かだったブリュネが遺したスケッチを追うように話は進むが、彼の視点からの描写があるわけではなく、あくまで客観的な立場を崩さない。
 小説的に感情をこめて描写される部分は少ないが、それだけに印象に残る。まず、フランス軍事顧問団の来日に先立ってフランスを訪れた池田筑後守について語る一節。生粋の攘夷論者だった彼はパリの繁栄を目の当たりにし、苦悶の末開国論に転身。だが帰国後その意見は容れられず、旅先で得た病と心労のため発狂し、不幸な最期を遂げている。幕末の日仏関係史全体を語る本編としてはプロローグ的なエピソードなのだが、同情の念を抱かせずにはおかない。
 もう一つは、大政奉還直後に起こった神戸事件や堺事件で、スケープゴートのように切腹を命ぜられる攘夷志士たちを描いた部分。とくに神戸事件の責任を負わされた備前藩士・滝善三郎の切腹するシーンは、全編中最も感情豊かな描写がされている。どちらも、日本が急激な方向転換をとげるときに、その下敷きになってしまった犠牲者である。
 本編はブリュネの行動を追って函館戦争の終結までが収録範囲になるはずだったのだが、幕府軍の五稜郭占拠あたりまでたどり着いたところで、著者の死のため「未完の大作」に終わってしまった。クライマックスでは上記二つに続く名場面があったかも知れないのに、残念。

栗本薫「グイン・サーガ72・パロの苦悶」,ハヤカワ文庫,2000.5
 まだまだ引っぱりそうな、パロ内乱編。前にも書いたが、やっぱりアルド・ナリスという人は「正義の味方」が似合わないなあ。「闇の微笑」あたりの、ウラで人を操るのが好きでたまらない悪魔というのが、私のイメージなんだが。

J・M・ディラード「スタートレック・ディープスペース9・1 選ばれし者(エミサリー)」,角川スニーカー文庫,2000.6
 カーデシアの圧政から解放されたばかりの辺境惑星ベイジョー、その軌道上に位置するステーションDS9に、ベンジャミン・シスコ中佐は司令官として赴任してきた。3年前ボーグとの戦いで妻を失って以来宇宙での勤務を厭ってきた彼は、できるだけ早くこの任務から降りる心づもりだった。だがDS9近傍に突如として出現したワームホールはDS9の、そしてシスコの運命を大きく変えてゆく…。
 ということで、まさか出るとは思っていなかったスタートレック第3シリーズのノヴェライズである。他のスタートレックが深宇宙を探索する航宙艦の話であるのに対し、こちらは原則として一カ所にとどまりつづける宇宙ステーションが舞台。ともすれば地味になりがちな設定だが、他シリーズのレギュラー陣が艦長を中心として最初から立場を同じくする人々の集まりであるのに対し、DS9でのそれは様々な背景をもった寄り合い所帯が出発点となる。人間ドラマという点では逆に他シリーズより複雑微妙な展開が期待できる。
 さて第1話となるこの「選ばれし者」は、舞台背景の説明やレギュラーの人となりの紹介が主となるエピソードではあるが、妻の死にとらわれ続けてきたシスコが、ワームホール内の異星生命との邂逅をきっかけとして人生の再スタートをきるという、ドラマとしても悪くない仕上がりになっている。このシスコと異星生命とのコンタクト部分、テレビではいまいち話の流れが読みとりにくかったのだが、小説ではうまくそれをカバーしてくれる。
 著者ディラードは映画第5作以降のノヴェライズもてがけており、今回もまず無難な出来。訳の方にはところどころ違和感があったが、これは私がハヤカワの斎藤伯好訳になじんでいるせいかも知れない。

L・A・グラフ「スタートレック・ヴォイジャー・1 惑星管理者(ケアテイカー)」,角川スニーカー文庫,2000.6
 キャスリン・ジェインウェイ艦長が指揮する新鋭航宙艦<ヴォイジャー>は、ゲリラ組織<マキ>の遭難船を捜索中、正体不明の変動波によって7万光年離れたデルタ宇宙域に飛ばされてしまう。最高速度を出し続けたとしても、故郷にもどるまでには75年もかかる。ジェインウェイ艦長は同じ境遇にあった<マキ>のクルーとも力を合わせ、デルタ宇宙域の探索に乗り出した。生きて故郷にたどり着くために…。
 まさか出るとは思っていなかった(その2)、スタートレック第4シリーズのノヴェライズ。シリーズ初の女性艦長、(かの伝説の名副長を輩出した)ヴァルカン人のレギュラー登場などなど、注目すべき点は多い。DS9と比較して「やっぱりスタートレックは宇宙を旅しなければ!」という声も。
 第1話「惑星管理者」は<ヴォイジャー>がはるかデルタ宇宙域まで飛ばされることになった顛末を描く。元凶の「惑星管理者」、宇宙船を一瞬で7万光年も引き寄せる超技術を持ちながら、その動機がなんかボケ老人並みなのは、ご愛嬌と言うべきか。わざわざ遠くから拉致してこなくても、デルタ宇宙域には他にも知性生命は、文字通り星の数ほどいるような気がするのだが…。ミもフタも無いことを言ってしまえば<ヴォイジャー>がデルタ宇宙域まで吹っ飛ばされる状況をつくるのが目的なので、その理由付けの方は適当に済ませてしまったのかも知れない。
 登場人物としては、今回はジェインウェイ艦長と、パイロットのパリスの二人が主な中心。私としてはもっと久々に登場のヴァルカン人、トゥボックからの視点が欲しかったが…まあ、先の楽しみとしておこう。
 著者グラフの名前は初めて見るが、話の序盤で死ぬだけの<ヴォイジャー>乗員に簡単な設定を与えて背景をゆたかにしている点や、ホログラム・ドクター視点のときの描写など、ほどよく工夫を凝らしているところに好感がもてた。

・ハリィ・ハリスン「テクニカラー・タイムマシン」,ハヤカワ文庫,1976.6
 倒産寸前の映画会社クライマックスが起死回生の手段として選んだのは、在野の博士が造ったタイムマシンでヴァイキング時代の過去に渡り、スペクタクル映画を撮ることだった。迫力満点、時代考証は(当然)完璧、製作期間の短縮は思いのまま。…いいことづくめの企画だったはずなのに、アクシデントが続出する。監督のバーニイは果たして大作「ヴァイキング・コロンブス」を完成させることができるのか?
 とにかく気軽に楽しめる作品。きっちりタイム・パラドックスも登場するが、難しく考えることは全くなし。斜に構えた現代人バーニイと、豪快かつシンプルなヴァイキング・オッタルの対比が面白い。「らくにウイスキーがとれるのに、なぜ働くか?」はやっぱり名言だな。
 あと、私は絵にはあまり注意を払わない方なのだが、この本のモンキー・パンチ描く挿絵は話と絶妙にマッチしていて良。

・グランド・キャリン「サターン・デッドヒート」,ハヤカワ文庫,1988.5
 宇宙コロニー<ホームV>の大学に考古学教授として勤めるクリアス・ホワイトディンプルは、突然コロニーの首脳の呼び出しを受ける。土星の衛星で発見された異星人のメッセージを解読し、それが指し示す遺物の回収に協力せよとの要請だった。コロニーと対立する地球政府も、独自に遺物獲得に動いている。コロニーとしては何としても彼らより早く遺物を回収し、そこにあるだろう知識とテクノロジーを手に入れなくてはならない。「私には向いていない」などとぼやきつつ、クリアスは土星へと旅だった…。
 宇宙人の遺物…というところでホーガンの「星を継ぐもの」あたりを連想してしまったのだが、こちらは実のところ、遺物そのものの謎はあまり話の本筋にはならない。遺物獲得をゴールとして、地球とスペースコロニーとの間で戦われるレースがメインとなっている。
 土星のGにうち勝っていかに目標をゲットするかというハードSFとしての要素もさることながら、主人公クリアスと相棒の天才少年ジュニア、ふたりの爽快な活躍も読みどころだ。ラストの展開には拍手喝采。…もっともあんまり爽やかなんで、社会の威信と未来ををかけたプロジェクトが、アマチュアスポーツみたいに見えてしまったりもしたのだが。

・トム・リーミィ「サンディエゴ・ライト・フット・スー」,サンリオSF文庫,1985.11
 DASACON2のオークションでは競り負けてしまったが、今回Yahoo!オークションでめでたくゲット。落札価格もDASACONのときよりずっと安かった。出品されているのを教えてくれたNALさんに感謝。
 夭逝の作家トム・リーミィの短編集。SFも収録されているが、幻想小説やホラーがメイン。収録作品の中では「ハリウッドの看板の下で」や「デトワイラー・ボーイ」、表題作「サンディエゴ・ライト・フット・スー」のように、無垢な美少年と、彼と表裏一体をなす都会の闇を描いた作品が目立っている。とくに印象に残るのは「ハリウッドの看板の下で」のラストシーン。話そのものはあまり好きな類ではないのだが、ハリウッドの看板の下で死を迎える主人公と、寸分違わぬ無表情でそれを見つめる「天使」たちのイメージが強烈に頭に残る。
 物語だけというなら「デトワイラー・ボーイ」の方が好みだ。親しい人間が変死するとき必ずそばにいるのに、本人は純粋そのものという美少年の謎を追う私立探偵の話。きちんとラストで謎に答えを与えてくれるのがいい。ただその分、小さくまとまってしまっているとも感じられる。
 表題作の「サンディエゴ・ライト・フット・スー」はネビュラ賞受賞作だが、そうだと思って読まなければ、これをSFだとは思わないだろう。田舎からロスにやってきた無垢な少年と、中年の元娼婦との恋物語。情感あふれるいい話なのだが、他の作品と続けざまに読んでしまうとちょっと地味な印象も。


・井上祐美子「紅顔」,講談社,1997.7
 明末、最前線を守る主将ででありながら山海関を清に明け渡した「漢奸」呉三桂と、彼の愛人・陳円円の物語。
 この二人についての通説といえば、北京を占領した李自成の反乱軍に陳円円が捕らえられたと知った呉三桂が、愛人への情に惑わされて清朝に裏切った、というもの。だがこの「紅顔」では、彼らの真の出会いを呉三桂が清について北京に入城した後に置く。そして呉三桂は自分を屈服させた清の摂政・ドルゴンを越えるため、帝王への野心を陳円円に「預け」、裏切者としての日々を送るのである。描かれる二人の姿には、終始悲しい影がつきまとう。
 主人公らの対照として登場する、銭謙益と如是の組み合わせも面白い。ひそかな反清活動を行う彼らは呉三桂とは正反対の立場にいるのだが、やはりその悲しさには通底するものが感じられる。
 近々ドルゴンの方を主人公とする「海東青」が刊行されるそうなので、そちらも楽しみだ。

・岩村隆雄「星虫」,ソノラマ文庫,2000.6
 宇宙飛行士をめざす高校生・氷室友美は、ある夜無数の「星」が天から降ってくるのに遭遇する。夢かと思われたその夜が明けてみると、彼女の、そして他の人々の額には不思議な「星虫」が付いていた。人間の感覚を増幅させるらしいこの小生物は、友美らを魅了する。だが、この小さな「救世主」がしだいに巨大化してきたとき、彼女たちの身に起こった事件とは…。
 幻の名作がついに復刊、というのに乗せられて買ってしまったのだが。前半読んでいるときは、正直言って「これは、ハズしたな…」と感じていた。感覚を増幅させた人間たちの耳に環境破壊を被った地球の「声」が聞こえてくることといい、友美のクラスの鼻つまみ者が実は…というラブコメ調といい、パターンが見えすぎてしまう。
 しかし、つづく後半では一気に話に引き込まれて、自己内評価は上昇。ラブコメ調はそのまんまだが、展開がスピーディーなのでさほど気にならなかった。前途洋々の未来を予想させるラストで、読後感も至極よい。
 だが、ここでもう一回「しかし」である。この物語を気に入ったかと訊かれたら、あんまりそうでもない、と答えてしまうだろう。いい話である、それは間違いない。けど、あんまりいい話すぎるので、主人公があんまりひたむきすぎるので、読んでいる私がそれに負けて退いてしまったような感覚が残るのだ。…読む側の精神的な若さを問われる作品かも知れない。

先頭に戻る
2000年3月〜4月の駄弁を読む  2000年7月〜の駄弁を読む
タイトルインデックスに戻る ALL F&SF 歴史・歴史小説 その他