読後駄弁
2000年読後駄弁9月〜10月


・グリム兄弟他著「書物の王国4・月」,国書刊行会,1999.10
 「月」にまつわる物語を集めたアンソロジー。月と言っても、あのアームストロング船長が足形を付けたクレーターだらけの月ではなく、夜に冷たく輝き、その光を浴びた人間を狂気に陥らせる月の話である。
 そういう幻想の月は、いつも妖しく美しいのかと思っていたら、どうもそうではないらしい。収録作のうちで最も異彩を放っているのはオスカル・パニッツァ「月物語」。ここでの月の正体は宙に浮かぶボロボロの堀立て小屋で、そこに住んでいるのは生活苦にまみれた老夫婦と30人の白痴の子どもたち。「満月」の夜に月男は縄ばしごで地上に降りて、背負える限りのチーズとその他もろもろの家財道具をかっぱらってくるのである。これほど奇妙で美しくない月の話は、他にはちょっと見つからないのではないだろうか。


・ヴァン・グーリック「中国迷宮殺人事件」,講談社文庫,1981.11
 外国の探偵もので古い中国を舞台にした「ディー判事」シリーズというのがある、とは話に聞いていた。しかし「ディー判事」が狄仁傑のことだったとは…。実在の人物じゃないか。唐の則天武后時代の宰相で、公明正大をもって知られる人物。中国小説には彼が主人公となって事件を解決する「狄公案」…日本で言ったら「大岡裁き」みたいなものか…というのがある。この「中国迷宮殺人事件」は、三編の「公案」が一つの話にまとめられている。
 物語は辺境の地蘭坊に赴任した狄仁傑(判官)が、その地を牛耳っていた地元のボスを懲らしめ、同時に起こった退役将軍の死にまつわる謎を解決するというもの。推理ものというより、中国版捕物帖という感じだ。死んだ将軍が残した絵のトリックもそこそこ面白いのだが、それ以上に狄判官と部下の馬栄や陶幹たちの会話や立ち回りが楽しい。
 翻訳は難しい漢字の部分をカタカナで表記するなど、極力平易になるよう努めている。最初は違和感があったが、慣れるとこれはこれで講談っぽくて、ひとつの味のように思えてくる。

・ピーター・デイヴィッド「スタートレック・ディープスペース9・3 潜入者」,角川スニーカー文庫,2000.9
 ピーター・デイヴィッドのST小説はこれが3作目の邦訳。スタートレック小説はテーマもさることながら、キャラクター同士のかけあいが一番の魅力なのだが、その点この人の話は、交わされる会話のテンポやユーモア感覚が絶妙である。また、時代設定はシスコ司令が赴任して間もないDS9ということで、まだぎごちなさを残した人間関係がうまく表現されている。
 小説のメインテーマとなっているのは、DS9の保安主任オドーとステーション内で殺人を繰り返す謎の暗殺者、ふたりの流動体生物の対決。知らない人には…「ターミネーター2」の敵役同士の戦い、と言えばイメージできるだろうか。自分の姿形を自在に変えるというこの能力は、いかにも荒唐無稽で便利すぎるので、私はあまり好きではない。しかし対決シーンはそこそこ迫力もあり、テレビドラマでは(資金不足で?)特殊効果をつけられないようなアクションも多く登場する。
 また、サブテーマには医療主任のベシアが患者の命を救うために、その患者のもつ宗教的タブーを犯してしまうエピソードが語られる。ちょっと重たい結末になっているのだが、独善的な解決で押し切られるよりは好ましく感じた。

・神林長平「戦闘妖精・雪風」,ハヤカワ文庫,1984.2
 南極大陸に突如出現した超空間の「通路」。その先にはまだ正確な位置も特定できない惑星「フェアリィ」と、正体不明の――それが人類のような生命なのかもさだかではない――異星体「ジャム」が存在する。「通路」のフェアリィ側で地球を守る任にあたるFAF(フェアリィ空軍)の特殊戦パイロット、深井零は愛機「雪風」を駆り、ジャムとの戦いの日々をおくる。
 地球人と異星体(…「人」かどうかは不明)との戦闘、となるとオーソドックスなスペースオペラを想像するのだが、やはり、というかさすが、というか、そういう素直な話にはならない。最初、人とジャムの戦いと見えていたものが、話がすすむうちに人と、人の造った機械との相克に変わっていく。「雪風」だけをパートナーとして信用していた主人公零でさえ、機械たちは最後には置き去りにする。そして、ジャムの方も実は人間を敵として認識していなかったという皮肉…。何とも寂寞なイメージだが、そのドライさがまた魅力でもある。
 もう一つ印象に残るのは空戦シーンの描写。ちょっと引用してみると…。
「…その声より早く雪風は急旋回、ズーム上昇、目標と対向、一八〇度ヘッドオン・スナップアップ攻撃態勢。レーダー・モードはボアサイト。零はトリガーを引く。対空機関砲作動。命中しない。不明機は回避運動。…」
 スピード感と無機的な鋭さが、描いている状況にマッチしていて良。

・永江朗「不良のための読書術」,筑摩書房,1997.5
 DASACON4の課題図書、ということだったので。
 ここでの「不良」とは本をマジメに読まない、権威主義に陥らないということ。そういう「不良」になるためには一冊読んだ本を絶対正しいと思いこまないよう、いろんな本を読めばいいのだが、いかんせん近頃は出版される本が多すぎる。適当に手にとった本がハズレばかりということもある。そこで、どうすればいいか…ということで登場するのが「ゴダール式読書法」。
 映画監督のゴダールが観に行った映画をごく一部、20分間ほどしか観なかったことにちなんだこの読書法、つまりは本を最初から最後まで読むんじゃない、というものである。本を手にとったら適当なページを開いて、長編なら一章分、短編集なら一話程度読むだけで十分。それで内容が分からないなら分からんように書いている方が悪いのである。…もちろん気が向けば、たまには一冊全部読むのもよし。
 いや、私も本はできるだけたくさん読みたいが、正直ここまでスッパリ割り切るのは無理である。せめて読みかけて面白くない本は、あっさり読むのやめる…その程度か。貧乏性かもしれないが、そういう性分である。無理にゴダール式にこだわるのは、本は楽しんでなんぼ、という「不良」のモットーにそぐわない。だから私は私なりの読書法を続けるということでよしとしよう。
 「ゴダール式のススメ」の後には現在の書店や出版流通事情、とくに再販制度についてかなり詳しい解説が書かれている(DASACONでの話題はこの分野がほとんどだった)。「ゴダール式」より私にはこちらの方が面白かった。
 第9章「図書館をしゃぶりつくせ」は私の商売柄、最も注意して読んだところである。「図書館からも本は消える」だとか「図書館は大きいがゆえに尊からず」など、図書館員としても言ってほしいところを言ってくれているが、文句の方も一つ挙げておこう。
 それは冒頭に図書館の十進分類法はつまらないとある部分。これは別に司書の想像力が貧困でそうなっているのではない。本文に「十進分類は既知の本を探すには便利だけども…」とあるとおり、まさにそのための分類である。図書館ごとに本の分類法が違っていたら、一冊の本を探すのにどれだけ苦労することだろうか。本を貸出すだけなら、驚きとロマンに満ちた排架も面白いが、調査のために使うとなると、つまらなくても日本全国どこでも通用する分類の方が、利用者にも使いやすいだろうと思うのだが。


・バリントン・J・ベイリー「カエアンの聖衣」,ハヤカワ文庫,1983.4
 破産寸前の服飾家ペデルが難破したカエアン船から盗みだした一着のスーツ、それは宇宙に名高いカエアン衣装の中でも最高のフラショナル・スーツだった。スーツから引き出される魔力的なカリスマの力を借り、ペデルは一躍社交界の花形に。だが、フラショナル・スーツはそれを着た者を輝かせるにとどまらない、すさまじい威力と秘密が隠されていたのだった…。
 「服装が人を変える」とはよく言われるが、こっちは服装が変えた人をさらに支配してしまうという話。メインとなるカエアン文明とフラショナル・スーツの奇想もさることながら、カエアン船が不時着した惑星の低周波恐竜だとか、宇宙船と同化した人間やサイボーグ化して宇宙に適応した野蛮人だとか、同著者の「禅銃」と同じくアイディアおもちゃ箱ぶっちゃけ型の賑やかなSFである。これでこそワイドスクリーン・バロック。もっとも、「禅銃」よりはストーリーに気を遣っているようなので、こっちを先に読んだ方が入りやすいかも。
 ところで上に挙げたサイボーグ野蛮人だが…これがなんと、日本人の末裔という設定である。その名も「ヤクーサ・ボンズ」(って、おい)。無重力・無酸素でも活動できる体をもち、頭部には脳に直結した砲塔を装備。まさかとは思うが、それってチョンマゲのパロディとか言わないだろうなあ…。

・中村融編訳「影が行く」,創元SF文庫,2000.8
 「ホラーSF傑作選」ということだが…最初の1、2作は恐怖というより歴史を感じさせてくれる。今さら四次元空間に落ちこんでしまった(けどなぜか声は聞こえる)少女の話を聞かされても、あまり恐いとは感じないよなあ…。
 しかし、同じく古さを感じさせるとはいえ、4作めのライバー「歴戦の勇士」あたりになると違ってくる。主人公が視界のすぐ外にいるはずの「何か」を見ないようにするために、タイプライターをひたすらにたたきまくるあたりの緊迫感がいい。表題作のキャンベル「影が行く」も、閉ざされた環境の中で隣にいるのが人間か怪物か分からない、そのパニックと疑心暗鬼の描写には色あせないスリルがある。やはり「恐怖」が異星生物などの道具だてに依っているより、人間の内面に依っているものの方が、時代のギャップには強いようだ。
 ホラーには吸血鬼がつきもの、ということでゼラズニィ「吸血機伝説」が収録されているが…ひょっとして、これはホラーというよりユーモア作品なんじゃないだろうか。世界最後の吸血「鬼」と吸血「機」が会話するさまなど、想像して思わず笑ってしまった。
 全体的には序盤に入っているものよりは中盤から後半にかけてのものが面白かった。こういうときこそ「ゴダール式」(ふたつ上を参照)を試してみるべきなんだろうか。

・中井紀夫「山の上の交響楽」,ハヤカワ文庫,1989.1
 ハヤカワ文庫30周年記念にて復刊。
 演奏に一万年かかるという交響楽を奏で続ける楽団の人間模様を描く表題作や、二つの壁に挟まれた世界を歩き通してその果てを見ようとする男の一生を語る「見果てぬ風」など、奇想メインながらラストに心地よい余韻を漂わせる名品が揃っている。さすが人気投票で復刊されるだけのことはあるなあ…。
 気に入りは上の2作と、次点で「電線世界」。「電線世界」はタイトルだけ見てサイバーな話を予想してしまったが…実はそれ以上にタイトル通りな話だったわけで。アイディアの奇抜さという点では甲乙つけがたいが、ラストの雰囲気は「山の上の交響楽」「見果てぬ風」の方が好み。
 「山の上の交響楽」の主人公音村は、立場的に「永遠の森」の田代とイメージが似通っている。芸術家の中に交じった常識人は、どこの世界でも苦労が絶えないらしい。

・塩野七生「ローマ人の物語9・賢帝の世紀」,新潮社,2000.9
問1(1)ローマ帝国の五賢帝の名を即位順に挙げよ。
  (2)(1)のうち、帝国の領土が最大になっとときの皇帝の名を挙げよ。
 正解は(1)ネルヴァ、トライアヌス(トラヤヌス)、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウス・アントニヌスで、(2)トライアヌス。世界史のテストでいやほどお目にかかった問題である。しかし、この皇帝たちのどのへんが「賢」だったのかまでは、学校の忙しすぎる授業ではまず教えてくれない。
 年1刊行の「ローマ人の物語」、今年の巻はこの五賢帝のうちトライアヌスからアントニヌス・ピウスまでの時代をとりあげ、三者三様の「賢」を紹介してくれる。
 領土を最大にした皇帝というから野心的な英雄型の人物を思い描いていたのだが、意外と実直そのものの統治ぶりだったトライアヌス。非難できる点があまりに少ないのでかえって彼を主題にした伝記や文学が書かれなかったというのは、皮肉なものである。
 文学の主人公としてならハドリアヌスの方がはるかに適任のようだ。人格的にも華やかだし、スキャンダルにも事欠かない。しかし前任者よりなにかと派手な印象のある彼が、実績としては守成の功が大きいというのが面白い点だ。彼の治世はその多くが帝国各地を守る軍団の視察と整備にあてられている。
 そして五賢帝中もっとも平和な時代を担ったアントニヌス・ピウス。「国家の父」という称号が、単なる敬称以上にふさわしい人物だったらしい。治世には事件らしい事件もなく、本書でも割かれているページは少ないが、多分実際に暮らすなら彼の時代が一番なのではないかと思わせる。
 同時代の人々も後世の歴史家もそろって讃える賢帝を、もともとローマ人をほめたくて仕方がない著者が書くのだから、悪くなりようがない。しかし、ユリウス・カエサルを描いているときほどの躍動感もないのは、著者の熱意の有無より、基本的に安定した時代が舞台だからだろうか。

・ロバート・シルヴァーバーグ編「遙かなる地平〜SFの殿堂〜」(1・2),ハヤカワ文庫,2000.9
 アメリカSFを代表する人気シリーズのサブ・ストーリーを集めたアンソロジー。
 カード「投資顧問」は別に書いたので、ここでは他の作品について。シリーズものということで、一番気になるのは元の作品を知らなくても楽しめるかどうかだろう。先頭のル・グイン「古い音楽と女奴隷たち(ハイニッシュ・ユニバース)」はその点ほとんど問題なく読める。反対にカード「投資顧問(エンダー)」、アン・マキャフリィ「還る船(歌う船)」あたりは元シリーズと連続する物語になっているので、元を知らない人はいまいちピンとこないに違いない。日本で未訳のシルヴァーバーグ「竜帝の姿がわかってきて(永遠なるローマ)」、ナンシー・クレス「眠る犬(無眠人)」が、二つとも元シリーズを知らなくても、序文の作品紹介だけで分かる話だったのはありがたい。先に「ローマ人の物語」を読んだばかりのせいか、ローマ帝国が現代まで存続した歴史を描く「永遠なるローマ」にはちょっと興味がわくが…これは邦訳はされないだろうな。
 私自身は未訳の2シリーズの他に、ベンフォード「銀河の中心」とベア「道」が未読(正確にはベア「永劫」は読んだはずなのだが、全く話を覚えていない)。前者、機械知性が人間を理解するため生きた人体を素材にして「芸術作品」をつくるという「無限への渇望」はそれでもなかなか面白い。一方後者の「ナイトランド――<冠毛>の一神話」の方は、背景世界をうまくイメージできないせいか、いまいちよくわからなかった。
 他、良かった作品はダン・シモンズ「ヘリックスの孤児(ハイペリオン)」にフレデリック・ポール「いつまでも生きる少年(ゲイトウェイ)」。
 「ヘリックスの孤児」は元シリーズの「エンディミオンの覚醒」よりずっと後の時代の話になる。「〜覚醒」で起こった人類の変容をあえて拒否した人々の宇宙船が遭遇した事件を描く。元シリーズと話が連続しているわけではないが、背景や用語などは元シリーズを読んでいないと分かりづらいだろう。主人公デム・リアのキャラが結構気に入ったので、このネタで連作短編というのも面白いんじゃないか、と思ったりもする。しかしシリーズに共通して出てくる、妙な東洋趣味のAIはなんとかならないものか…。
 「いつまでも生きる少年」は元シリーズ「ゲイトウェイ」「ゲイトウェイ2」とほぼ同時代を描く外伝的なもの。上と違って元シリーズを知らなくても無理なく話に入りこめる(ネタバレが少し混じっているようだが…)。行き先不明の異星船に乗り込む緊迫感、狭い宇宙船内での圧迫感の描写は元シリーズと共通するものである。

・栗本薫「グイン・サーガ75・大導師アグリッパ」,ハヤカワ文庫,2000.10
 ヴァレリウスのアグリッパ探索編がいよいよ佳境を迎えた今回だが、面白かったのはそちらより天才学者ヨナが活躍する後半部分。思えばイシュトヴァーンの友として初登場したのは外伝第6巻(ちなみに1986年刊)。外伝の脇役が本編でメインになるというのも、このシリーズならではことかなあ…。
 そういえば、ここ4、5巻は主人公(格)のアルド・ナリスよりもその周囲に侍るヴァレリウスやヨナを描く方に力が入っているようだ。その方が私の好みに近いからいいのだが。

・ロジェ・シャルティエ、グリエルモ・カヴァッロ「読むことの歴史〜ヨーロッパ読書史〜」,大修館書店,2000.5
 書かれたものは、ただそこにあるだけでは何の意味ももたない。それを読む人間がいて、初めて意味を持つようになる。そうなると書かれたものの内容だけではなく、それがどのような文字のどのような書体で、どのような媒体に記録されたのか、またそれがどのような人間にどのような方法で読まれたかということまでが問題になるだろう。本書はギリシア・ローマを起源とする西欧での、読む側から見た書物の歴史を時代ごとの各論に分けて考察するものである。
 古代ギリシア語の「読む」という単語の語源から推測する、当時の読書のあり方(第1章)。中世修道院での音読から黙読への移り変わり(第3章)。印刷技術が大きな役割を果たした宗教改革での読書と、それに対抗するカトリックの読書に対する統制の試み(第8,9章)。18世紀に読書の習慣が急速に広まったとされるドイツの「読書革命」はどんなものであったのか(第11章)、そして現代世界の読書(第13章)…と、広範な時代をカバー。
 読んでいて気付くのは、読書全体における朗読の役割が古代から近代にいたるまで非常に大きいということ。もちろん黙読の習慣もギリシア時代からあったものだが、それが読書の主流になるのはずっと時代が下ってからのことである。自分が読むと同時に周囲の人々に読んで聞かせるというパブリックな読書は、歴史的にも大きい意味を持つらしい。
 もうひとつ印象に残るのは、読書というものはずっと何かの目的のためにするべきものであって、現在の(私などが好んでするような)読書のための読書が勧められるようになったのは、ごくごく最近のことだということ。18〜19世紀をとりあげている第11、12章では、小説などを読みふけることが悪い習慣として戒められている事例が多く紹介されている。自分のことを振り返ると、当時の人の言ってることもあながち間違いばかりでもないような…。ま、改める気はさらさらないけども。
 副題にもあるとおりこの本で扱う対象はヨーロッパに限定されている。同じような研究が日本で行われたらどのようなものになるだろう。日本での書物は漢字を用いる関係上、字面と読みが直感的にはつながらない。そうなると朗読の意義などについてはかなり違ったものになるんじゃないかと想像するのだが…。「読むことの歴史〜日本読書史〜」が出るのを期待したいところだ。

・スティーヴン・バクスター「タイム・シップ」(上下),ハヤカワ文庫,1998.2
 去年の星雲賞受賞作を今ごろ読んでいたりする。
 未来世界から辛うじて生還を果たした「時間旅行者」は、友人に自分の冒険を語った翌日の朝、再び未来へと旅だった。未来で助けることができなかったエロイ族のウィーナを、今度こそ救うために。だが、二度目に見た「未来」は最初に訪れたそれと全く異なるものだった。タイムマシンの存在は発明者である「時間旅行者」の意図を遙かに越えた影響を時空に与えていたのだった…。
 ウェルズの元祖「タイムマシン」の物語的には続編、アイディア的にはリメイクとなる。元祖では一本道だった時間の捉え方が、今回は量子論を用いた多元宇宙に進化。「時間旅行者」は「次元旅行者」となって時空の片道旅行を繰り返すことになる。これは最後をどうまとめてくれるのかと読みながら心配になったほどだが、下手に小さくまとめずに、いき着くところまで話を大きく膨らませて、一気にラストまでもっていったあたりはお見事。主人公の意識だけが時空を駆ける終盤の展開はステープルドンを意識しているのだろうか。しみじみとしたラストシーンは小松左京「果てしなき流れの果てに」と同じようなものを感じたのだが。
 また、量子論を絡めた話というと難解そうな印象だが、実際読んでみるとこむずかしい議論はあまり出てこず、単純に「時間旅行者」の冒険や、彼が目撃する過去や未来のビジョンをたどるだけでも十分に楽しめる。私としては序盤の未来世界で「モーロック」が築いたダイソン球殻に瞠目。
 題名が「タイム・シップ」のわりには船が登場せず、むしろ「タイム・タンク」なんじゃないか?と思っていたのだが、最後はきっちり「シップ」になった。…もっともあまり船っぽいイメージではなかったけど。


・豊田有恒「ダイノサウルス作戦」,徳間文庫,1982.9
 白亜紀末期で調査をしていた探検隊が何者かに襲撃された。事件究明のため現地に向かったタイムパトロールのエベレットがそこで出会ったのは、文明化前夜の段階にまで進化した恐竜たちと、正体不明の円盤機だった。円盤機にタイムマシンを破壊されたエベレットらは、はからずも恐竜の一部族とコミュニケーションをもつことになるが…。
 よくも悪くもダイナミックな作品。恐竜が絶滅する白亜紀末ばかりか、その恐竜が、それ以前に繁栄していた哺乳類型爬虫類にとってかわったペルム紀にまで話が展開、壮大な進化史をうまく絡めたドラマになっている。
 …が、活躍する登場人物の行動の方も、変にダイナミック。地球の進化史に影響を与えないよう、威力の小さな核兵器を使用――って、おい、威力の大小の問題か?それに冒頭で主人公たち、突然現れた謎の円盤をいきなり敵と決めつけ狙撃しているし、石器使用の段階にある恐竜の部族抗争に中性子銃をもって参加するし…。ダイナミックと通りこして、粗雑というべきかも知れない。
 まあ、これはこれで割り切ってしまえば、痛快な話ではある。それにそういう歴史への干渉を物語の伏線として利用しているあたりは上手い。
 しかし、この物語での人類と「異類」の戦争は、上の「タイムシップ」のような多世界解釈をあてはめたら全く意味のない戦いになってしまうんだなあ…。

・N・アーチャー「スタートレック・ヴォイジャー・3 最終戦争領域」,角川スニーカー文庫,2000.10
 自分たちをデルタ宇宙域まで引き寄せたテトリオン・ビームの反応を捉えた航宙艦ヴォイジャー。その源を探れば自分たちが故郷に還る手がかりが見つかるかも知れない。しかし、そこでは星間国家ハチャイとプニアが800年間絶えることなく戦闘を続けていた…。
 で、われらがジェインウェイ艦長がどうするのかというと、なんのバックボーンももたない船一隻(しかも遭難中)で、この戦争の仲裁をしてやろうというのである。おばさんいくらなんでもそりゃムチャやで、と言いたくなるが、元祖スタートレックみたいでちょっと嬉しくもなる。もっとも結末はカーク艦長のときほどの力技ではでないが。
 スタートレックに現実のアメリカを重ねて見過ぎるのは、あまり面白い読み方ではないけれど…。強大な軍事力をもってしてもパレスチナとイスラエルの紛争を解決できないアメリカにしてみれば、こういうのがカタルシスになるのだろうか?
 キャラクターとしては、今回はハーフ・クリンゴンの機関士ベラナ・トレスが面白い。しばしばカンシャクを破裂させながらも、艦長の難題にはきっちり応えてみせる様子を見ていると、彼女もスコッティ、ジョーディらに連なるスタートレックのエンジニアなんだなあ…と思えてくる。

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