読後駄弁
2000年読後駄弁11月〜12月
・オースン・スコット・カード「エンダーズ・シャドウ」(上下),ハヤカワ文庫,2000.10
…長すぎるんで、「O・S・カード駄弁」のこっちをを見て下さい。
・リン・マーギュリス「共生生命体の30億年」,草思社,2000.8
細胞の中の葉緑体やミトコンドリアが、元々は別の生命体だったというのは、すでによく知られていることだろう。瀬名秀明「パラサイト・イヴ」のネタである。この本ではさらに進んで、精子の鞭毛など運動を担うオルガネラ(細胞内の器官)も、別の生物との共生の結果であるとし、これらの共生なしには最近から真核生物への進化はなかったと断言する。
大胆な主張に似つかわしく、その論調もかなりアグレッシブ。第4章「ブドウの名前」で、現在の分類学上の不合理を糾弾するあたりは中でも一番激しい。あとがきによるとこの人の著作は攻撃的なのが常のようだ。専門家が読むと腹が立つのかも知れないが、素人が読む分には、こっちの方が面白い。
ラストの章「ガイア」では、細胞内の「共生」を全地球を一個の有機的システムと見るガイア理論にまで拡大して…と考えるのは、大間違い。ここでは逆にガイア理論をそういう安易な類推で考えてしまうことを厳しく批判している。
・池上永一「風車祭(カジマヤー)」,文芸春秋,1997.11
舞台は沖縄本島よりさらに南の石垣島。数え年97歳の祭りである風車祭を目前にひかえたフジオバアの悪戯で、武志は自分のマブイ(霊体のようなもの?)を落としてしまった。しかしそのおかげで、少年は肉体のないマブイだけの少女、ピシャーマと出会う。盲目の彼女は、228年もの間6本足の魔豚ギーギーだけを友として島をさまよっていた。自分がなぜこのような目に遭うのか全く分からないピシャーマだったが、武志に会ってしばらく後、島の神マユンガナシィからの預言をうける。島はいくつかの災害の後、マブイのない少年が死んだとき大津波に見舞われる、というのである。武志の、ピシャーマの、石垣島の運命やいかに。そして島内最強最悪のオバア、フジは風車祭を迎えることができるのか…?
…などと解説目録ふうに筋書きを書いてみると、緊迫したシチュエーションになってしまうのだが、物語の方はまったく脳天気である。最初から最後までドタバタした展開で、連載ギャグマンガを全巻一気読みしたときのような読後感があった。
一応の主人公が(比較的)まともで、周りに濃い面々が揃っているという点は「レキオス」と同じ(書かれたのはこっちが先だが)。とくにすごいのがフジオバアで、どう見ても武志よりこっちが真の主役である。読んでいて思わず吹き出したシーンは必ず彼女がらみ。この人の「長寿の秘訣」をすべて実践した日には、殺しても死なない完全無欠のクソババアの出来上がりである。将来役立てようなんて考えてる人が周りにいなきゃいいんだが。
・イタロ・カルヴィーノ「レ・コスミコミケ」,ハヤカワ文庫,1986.6
「太陽は二億年を費やしてこの星雲を一周する…」とか「宇宙の全物質がただの一点に集中していた時点…」といった百科辞典的一文の後に、「そうそう、あのときはこうだった」としゃしゃり出るQfwfq(クフウフク?)じいさん。宇宙の誕生から恐竜の絶滅まで、奇想天外なホラ話12編を収録。
ビッグバン宇宙でも定常宇宙でも「わしがいたときは〜」とやるあたり、このじいさんも結構ちゃっかりしたところがある。落語に出てくるしったかぶりのご隠居を、宇宙論的規模にスケールアップしたような御仁だ。
収録作のうち私の気に入りは、Qfwfqじいさんが最後の恐竜だった頃の体験を語る「恐龍族」。まあ恐竜の話というよりは、ちょっと皮肉な人間批判という感じだったが。これが他の話に比べるとスケールの小さいホラだというところが、Qfwfq話のすごいところだなあ…。
・カフカほか「書物の王国2・夢」,国書刊行会,1998.7
カフカから芥川からボルヘスから、東西の作家・文学者の描く「夢」のショーケース。解説によると、「夢」の代表的なコレクションは澁澤龍彦「夢のかたち」や埴谷雄高「夢」、筒井康隆「夢探偵」などがあるので、このアンソロジーではあえて趣味に走ったラインナップにしたのだという。…しまった、私はそのどれも読んでないぞ。
収録作でいちばんは良かった(というか、笑えた)のがフロイト式の夢分析を裁判ふうのパロディにしたてた筒井康隆「夢の検閲官」。次点で、宮部みゆきの描くファンタジー調ロマンス「たった一人」。物語はうまいと思うのだが、ラストが予想できてしまったあたりがいまいち…。
・有賀妙子,吉田智子「学校で教わっていない人のためのインターネット講座」,北王子書房,1999.9
インターネットや電子メールの仕組みから簡単なネチケット、ホームページのデザイン・レイアウトのポイントまで例題つきで解説…要するに教科書である。
インターネットを始めてから3年以上もたって、今さら読むものでもないかも知れない。しかし、きちんと系統立ててコンピュータやインターネットを習わず、試行錯誤を繰り返して使い方を覚えた私のような人間にしてみれば、設定などで「ここの欄にこういう数字を入れたら動くのは知っているが、それがどんな意味なのかは全く分からない」ということがよくある。使えりゃそれで十分と言ってしまえばそれまでだが、やはり多少は理屈の方も知っておきたいものだ。
よくある「はじめてのインターネット」式の入門書より技術的に一歩踏み込んだ内容で、入門書には飽き足らないが専門書はチンプンカンプン、という人向き。
・中村融,山岸真編「20世紀SF1・星ねずみ」,河出文庫,2000.11
夏頃にこの河出からSFの年代別傑作選が出ると聞いて以来、発刊を待ち望んでいたシリーズである。第1巻は1940年代より。
こういう傑作選的なアンソロジーは選ぶのが難しいと思う。読む人のうち大半とは言わないまでも、ある程度は選ばれるに値すると納得する作品でなくてはならないだろう。かといって、誰もが知っている作品を改めて収録するだけでは、いくら名作でも本を買う人がいない。オールタイムベスト的な作品ばかりで占めればとりあえず「傑作選」にはなるだろうが、マニアック嗜好の読者からお叱りがくるし編者自身のこだわりも満足させられない。…このへんの編者たちの苦労については、オンライン書店bk1に掲載されている大森望氏連載ページのインタビューに詳しく載っていて、舞台裏の葛藤を垣間見ることができる。
私的にはほとんど文句のないラインナップだった。たしかに収録11作全部が既訳作品で、私でさえ5作は読んだことのあるものではある。しかしハインライン「鎮魂歌」にしろ、ブラッドベリ「万華鏡」にしろ、1回やそこら読んだことがあるぐらいで色あせる作品ではない。
それに有名な作品だとはいえ、今では新刊本を手に入れられないものも多い。例えばムーア「美女ありき」が収録されていた「空は船でいっぱい(SFマガジン・ベスト)」など、古本屋か図書館を探さないと手に入らないだろう。古参SF者の方々は「今さら…」とか思うのかも知れないが、ここ数年から読み始めた人にとっては貴重だ。
ただ一つ文句を言うとすれば、アシモフ「AL76号失踪す」。いや、これはこれでラスト一発で笑いのとれる佳作だし、他でも読める「夜来たる」や「ロビィ」を入れるのはそれこそ「今さら」だ。しかしどうせアシモフを入れるならもっと他にもなかったかな、と思ってしまう。…まあ、こんなこと言い出せばキリがないか。
初めて読んだ中でとくに面白かったのはハミルトン「ベムがいっぱい」にスタージョン「昨日は月曜日だった」、どちらも軽く笑って読める話だった。前者はSFそのものをパロディにしたストレートな笑い、後者は現実世界の文字通り「舞台裏」に迷い込んだ男のひねくれた笑いを、それぞれ提供してくれる。
・今泉恂之介「関羽伝」,新潮選書,2000.11
三国志で好きな人物というと私の場合、一番最初に読み始めたときには関羽、ついで張遼や郭嘉などややマイナーな登場人物へ移り、その後「やっぱり曹操だよな」というところに落ち着いて現在に至っている。たぶんこういう変遷を経た三国志ファンは私だけではないだろう。とくに「三国志演義」で見せ場の多い関羽にまず魅せられたという人は少なくないに違いない。
…で、この本はその関羽をクローズアップし、「三国志演義」をベースに彼の足跡を追ったもの。生誕地・解県や旧都洛陽・許、終焉の地荊州など関羽ゆかりの地に現在も残る遺物や伝説を紹介する。人物伝というよりは、歴史紀行に近い内容だ。だいたい関羽については「演義」での活躍ぶりに比べると、いちおう史実として扱われる「正史」での記述が極端に少ない。本を一冊書こうと思ったら、かなり眉唾っぽい伝説まで含めないと分量が不足してしまうのだろう。
現在の関羽信仰についても、面白いエピソードが多く紹介されている。往事の豪傑はいまや派手な関帝廟にまつられる商業の神様だ。信仰している人の数だけでいえばイスラム教に次ぐというから驚く(もっとも教団があるわけじゃないから、信者といってもあいまいなんだろうが…)。関羽の生涯をネタにした経営論があったり、「関羽は独特の2進法でで計算していた。これはコンピュータの先駆である」とかいう雑誌記事まで出たというから笑える。
しかしまあ、私らの国でも信長や秀吉で同じようなことをしていることだし、他人のことは笑えんか。
・K・W・ジーター「スタートレック・ディープスペース9・4 血の福音」,角川スニーカー文庫,2000.11
惑星連邦とベイジョーからワームホールの管理権を奪うため、カーデシアはワームホールの出口側に独自の拠点を築こうと画策する。この動きを知ったDS9のシスコ司令官は、カーデシアより先にワームホール出口を押さえるため、副官キラ少佐とドクター・ベシアを派遣した。だが、キラが乗り組んだステーションには、彼女を暗殺しようとするベイジョーの原理主義者たちが潜んでいたのだった。彼らの仕掛けた爆発でワームホールの口が閉じてしまい、キラとベシアはお互いからもDS9からも孤立してしまう。
「DS9」第1エピソードの少し後ぐらい設定されたオリジナル小説。著者のジーターというと、「ドクター・アダー」や「ブレードランナー2」を書いた人だよな…。何となくダークな話を予想したのだが、実際はさほどでもなかった。悪役の原理主義教団の描写は若干それっぽいが、それ以外はごく普通のスタートレック小説。
短気で自他共に厳しく対するキラと、有能だが虚栄心も旺盛でカルい性格のドクター・ベシア、DS9メンバーの中でももっとも相性の悪そうな二人がチームを組むというのが話のミソ。最初は角突きあって、危機を乗り切った後に和解、という王道パターンに文句はないが、もうちょっといがみ合うシーンを派手にしてくれても良かったように思う。
ところで小説版DS9も4冊目だが、2冊目の「トリブルでトラブル」以外は、だいたいシリーズ初期のエピソードである。そろそろシリーズ中盤の重点エピソードを小説化したものなんかも読みたいところだ。
・石橋崇雄「大清帝国」,講談社選書メチエ,2000.1
中華帝国最後の王朝・清の勃興を、初代ヌルハチから最盛期を担った乾隆帝まで追う。
清朝は支配層の満州族と最多人口を擁する漢民族の他に、モンゴル、ウイグル、チベットなどを領土に収めた多民族世界帝国だった。筆者によると、清朝は支配地を拡げてはじめて多民族国家になったのではなく、建国当初から多民族の上に立脚して発展した政権だったという。
そういえば清朝に限らずオスマン帝国にしてもムガル帝国にしても、近代直前のアジアの大勢力は、どれも現代では考えにくいほどの多民族国家なんだよな…。西欧の「国民国家」の思想が流入する前だからこそ可能だったこととはいえ、現代の民族紛争を見ていると、そんな国家が100年単位で存続するのが不思議に思えてくる。
・ゼナ・ヘンダースン「果しなき旅路」「血は異ならず」(ピープル・シリーズ),ハヤカワ文庫,1978.7,1982.12
2冊まとめて。
故郷の惑星が滅び、地球へと逃れてきた<同胞(ピープル)>たち。見た目は地球人と変わらない彼らだが、さまざまな<能力>を持つがゆえに、恐れられ、迫害をうけてきた。彼らのうちまとまった集団は辺境に共同体をつくり、ひっそりと暮らしている。だが<同胞>と離ればなれになった者や、また彼らの血を承けた二世たちは地球人社会の中で、<能力>をひた隠しにして生きていかねばならない。…そういう彼らが共同体にたどり着くまでのエピソードを中心にまとめられた短編集。
たしかに話はちょっと古くさい。超能力をもった異星人という設定はほとんど「昔なつかしの〜」の領域だし、そういう異星人のコミュニティがなんの抵抗もなくキリスト教とその文化を受け入れているのにもちょっと首を傾げてしまった。
だが、そんなことが単なるイチャモンだと思い直させるほど、物語の方はうまい。2冊ともただエピソードを羅列するのではなく、最初に<同胞>たちの物語が語られるに至るエピソードがまずあって、その中で登場人物が各短編を語る、という形式をとっている。下手にこれをやられるとかえってうざったく感じられるものだが、このシリーズ、とくに2冊目の「血は異ならず」には各短編のつなぎ方にとってつけたようなところがなく、うまく話に引き込んでくれる。
その各短編の内容は、ドキドキしたりワクワクしたりの刺激にこそ欠けるぶん、落ち着いてひたることのできる「ちょっといい話」揃い。著者が学校の先生だったというだけあって、<同胞>共同体の小学校に何も知らない教師が派遣されてくる、というシチュエーションでの話がうまい。例えば「果しなき旅路」に収録の「アララテの山」や「ヤコブのあつもの」など。
第2作の「血は異ならず」は<同胞>たちの故郷での最後の日々や、地球に辿り着いて間もない彼らの受難を語る。各短編をつなぐ物語では「果しなき旅路」で登場したキャラクターがちらほら登場する。「果しなき旅路」を読んだあと時間をおいてから「血は異ならず」を読んだ人にはうれしい趣向なのだろうが、わたしは2冊連チャンで読んでしまったので、この辺のありがたみは今ひとつ。もったいない読み方をしてしまったのかも知れない。
・栗本薫「グイン・サーガ76・魔の聖域」,ハヤカワ文庫,2000.12
レムス王が久々にメインで登場している…とはいえ、これをもって彼の「登場」としていいのか、少々疑問。やっぱりこの少年王が「グイン・サーガ」の主要登場人物で一番割りを食っているなあ…。この先本当の意味でのレムスの登場があるのかどうかが気になるところだ。久々といえば、双子の姉のリンダが出てくるのも久しぶりだ。冒頭で断章的にグインが顔を出しているし、リンダが出てくればおまけでスニもついてくる。おお、第1巻「豹頭の仮面」のメインキャラが勢揃いじゃないか。
…で、この巻のストーリー?そんなん別にええやん、という気がしてくる。…いいかげんパロ内乱編ケリつけようよ。
・杉山正明「クビライの挑戦」,朝日選書,1995.4
近代の到来以前に世界システムの濫觴を築いたモンゴル・ウルスと、その大成者クビライ・カアンの事績と大構想を解説する。
征服王朝であるモンゴル…元の時代には知識人層が差別され、中国文明が損なわれたとする「従来の説」にこの本は真っ向から反対。抗州、泉州(ザイトン)といった当時有名だった大都市はモンゴル支配の時代でこそ最も栄え、これらの都市やクビライが建設した大都(北京)はユーラシア全域に及ぶ商業圏の一大拠点となった。また人材についても、儒教知識に偏りがちな士大夫層にとらわれず、実務本意の登用が行われていた…とする。論旨が歯切れよく明快なのはこの著者の常である。この種の本としては抜群に読みやすい。
しかしそんなに大した世界システムだったのなら、なぜそれが崩壊してしまったのか、とは当然出てくる疑問だ。この本ではそれについては、この時代(14世紀)にアジア・ヨーロッパを問わず大規模な災害や疫病が立て続けに起こったこと、クビライらが構想したような世界システムを支える技術がまだ開発されておらず、いわば「早すぎた時代」だったことの2点が挙げられている。天変地異の方は不運だったとして、自前の技術で維持できないようなシステムを立ち上げてしまったのは、クビライの失点だったのでは…と、結果論的な難癖をつけてみたりする。
このクビライと言えば、日本では元寇の敵役で名が知られているのだが、本書でのその方面の扱いはごく小さい。「文永の役」はモンゴルにとって対南宋戦略の補助的作戦にすぎず、南宋接収後に行われた「弘安の役」での大船団も、旧南宋軍の希望者により編成された非武装の「移民船団」が主力であり、どちらも「弱小な日本国」を「強大なモンゴルの嵐」が襲う、というイメージにはほど遠い…というのが本書の主張。
クビライらモンゴル首脳にとっては日本進出など大きな問題ではなかった、というのは多分その通りなのだろう。しかし、小なりとはいえ武力抵抗があることが分かり切っている国に対し非武装の移民船団を送ったという、その意図については説明がない。「元寇」の過大なイメージを訂正しようとするあまり、検討不十分な説を出してしまったように思える。
「元寇」で思い出したが、来年の大河ドラマは「時宗」らしい。「神の国」発言のあった翌年に「神風」の話をやるというのに、何か危ないものを感じたりもするのだが、それはおいといて。
ドラマ中、クビライが登場したりするのだろうか。もし出すんだったら、私が小学生のころ伝記「北条時宗」で見たような「野蛮なモンゴルの侵略者」イメージまるだしのキャラクターには、絶対してほしくないものだ。この本でのクビライ評価は少々誉めすぎだとはいえ、彼が大きな構想力と冷静な判断力を備えた人物であることは、まず確かなのだから。
・菅谷明子「メディア・リテラシー」,岩波新書,2000.8
「メディア・リテラシー」とは新聞・雑誌からTV・映画まで、さまざまなメディアが送り出す情報を批判的に読みとり、同時に自らもそのメディアを使って表現していく能力のこと。
メディアが伝える「現実」は送り手の観点からとらえられた一断面にすぎず、制作者やそのスポンサーの思惑が入り込んでいることを承知した上で、その情報を有効に使っていかなければならない。日常的にメディアの奔流にさらされている現代人、とくに子供には、そういう技術を学校教育や市民活動の中で培っていくことが必要である。この本ではイギリスとカナダの学校でのメディア教育、アメリカでの草の根メディア活動といった先進例を紹介している。
まず目を引いたのが、メディア教育が「英語」…つまりは向こうの「国語」の授業で教えられているということ。映画やコマーシャルを見てその意図を探るという授業を「国語」の時間でやるというのは、少なくとも私が学校にいたころの授業イメージとはまったく異質だ。しかしメディア教育のポイントとして「事実と意見、偏向と客観性を区別する」「表現形式がテクストの内容にどう影響するか」などが挙げられているのを見ると、なるほどたしかに国語の領域とも思える。だいたいふつう私たちが触れる国語は小説や詩よりテレビやマンガの方がずっと多いのだから、それに応じて「国語」の授業も変わるべきなのかも知れない(逆に日常で触れることがないのだから、学校でこそ物語や詩を紹介しなければ、という考え方も当然あるだろうが)。
もう一つ、学校教育にしろ草の根活動にしろ、ここで紹介されている活動はメディアを一面的に糾弾するのではなく、その性質と限界をわきまえて活用することを目的としていることにも注目すべきだろう。メディア批判というと、どうも暴力的な描写や差別表現が「子供たちに悪影響を与えている」というPTA御用達の意見に偏りがちだ。はては某教育会議のように「バーチャル・リアリティは悪であるということをハッキリと言う」という意図不明確な発言が堂々と出てくる始末。だいたいこうまでマスメディアが社会に浸透し、毎日それにさらされて生きていく以上、それとの上手なつきあい方を教えていくのが当然なんじゃないだろうか。
非常に考えさせるところの多いレポートだったのだが、話が外国の例だけにとどまり、日本でどういうメディア教育が可能なのか、どんな問題点があるのかについて述べるところが無かったのが残念。そういうのはこれからの課題だし、他人の書いた本に頼らず自分たちで考えろ…というところなのかも知れない。
イギリスの事例で紹介されていたような実際に映像作品をつくる授業というのは、日本の学校では使えるハードウェアも教える技術もないだろう。まずはマンガをテーマにして、事例で紹介されているようなメディア教育やってみるというのはどうだろうか。マンガが子供、大人を問わず社会に与えている影響というのは、外国とは較べものにならないほど大きいと思うのだが。
・中村融,山岸真編「20世紀SF2・初めの終わり」,河出文庫,2000.12
シリーズ2巻目、1950年代。シェクリィ、ディック、コードウェイナー・スミスなど有名どころを外さず、おおかたのところを満足させるラインナップである。…SF読書歴の長い方にとっては前巻に引き続き定番すぎるのかもしれないが。私の場合は、前巻よりも未読のものが多かったので文句なし。
解説でも触れられているとおり、今回収録の作品の多くに通底するのは「不安」。核戦争に対する不安(マシスン「終わりの日」)、全体主義に対する不安(ベスター「消失トリック」)、家族や隣人に対する不安(ディック「父さんもどき」)など、さまざまな対象への懐疑が各所に表れる。エリック・フランク・ラッセル「証言」のように、主役の機知がクライマックスになる話でさえ、その舞台となっているのは全体主義社会の法廷である。国としてのアメリカが絶好調だった時代にもかかわらず…というかそれゆえにこそ、失う「不安」がよく描かれるものらしい。
今回いちばん気に入ったのはリチャード・マシスン「終わりの日」。天災で滅亡を迎える地球の最後の一日を描いた作品である。前半部での人々のパニックぶりと、ラストの穏やかな母子交流とのコントラストが印象的だった。オーソドックスすぎるぐらいオーソドックスな終わり方なのだが、それがまたいいのだ。
・ロイス・マクマスター・ビジョルド「バラヤー内乱」,創元SF文庫,2000.12
故郷ベータ植民惑星を単身脱出したコーデリアは、アラール・ヴォルコシガンと結ばれた。だが蜜月も束の間、バラヤー皇帝の死によりアラールが次期皇帝の摂政に任命される。封建制度の色濃いバラヤーを改革しようとするアラールには政敵が多い。ある夜、テロリストの放ったガス手榴弾がコーデリアとアラールを襲った。辛くも一命をとりとめた二人だが、そのときすでにコーデリアは長男マイルズを身籠もっていたのだった。重度の障害をもって生まれるのが必至のマイルズを、それでもコーデリアは産むことを決意するのだが…。
正直なところ、前巻「名誉のかけら」だけを読んだときには、マイルズが主人公の「ヴォルコシガン」本編に比べて、それほど面白いとは思っていなかったのだが、この「バラヤー内乱」と合わせて読みなおしてみると…すごく面白いじゃないか。
先に「戦士志願」などでマイルズの活躍を読んでいるのだから、コーデリアがマイルズを中絶したり、ラストの救出作戦に失敗したりしないことは分かっているのだが、それでも戦う彼女の姿には感動させられてしまう。ラストの「生きなさい。生きなさい。生きなさい」でしめくくられるコーデリアのモノローグが力強い。
それにコーデリアの夫アラールが、これまたいい男なのだ…ちょっと理想的すぎやしないかとは思うほど。帝国の冷徹な摂政として友人の息子を処断しなくてはならなくなった彼が、コーデリアの前で苦衷を明かすシーンは、とくに印象に残る。私としては奇矯なところが多いマイルズ・ヴォルコシガンより、この父親の方がよほど魅力的に感じるのだが。
「名誉のかけら」「バラヤー内乱」と続けてしまうと、また「戦士志願」から全部読み直してみたくなるな(ああ、でも他にも読みたい本も…)。
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