読後駄弁
2001年読後駄弁5月〜6月


・レナード・ニモイ「わたしはスポック」,扶桑社ノンフィクション,2001.4
 元祖「スター・トレック」でミスター・スポックを演じた俳優で、映画監督としても活躍したレナード・ニモイの自伝。
 この人、かつて自分がスポックと同一視されることに嫌気がさして、最初の自伝の題を「I am not Spock」にしたことは有名。ニモイとしては「I am not only Spock」ということが言いたかったらしいのだが、出版された当時、熱狂的なトレッキーからは猛反発を食らったらしい。二冊目の自伝に正反対の題を付けたのは、自分がスポックと「スター・トレック」を嫌っているという誤解を解くためでもあるとのこと。
 …けど実際、スポック役のことを書いている部分よりも、ゴッホの弟を一人芝居で演じた「ヴィンセント」のことや、監督作品である「スリーメン・アンド・ベイビー」のことを書いている部分の方が、こころもち筆に力が入っているようにも感じる。やっぱり「not only Spock」を主張したい部分はまだ残っているんじゃないだろうか。それでも題を「わたしはスポック」とし、作中各章の最初と最後でスポックとの対話を演じてみせるあたりに、すでに俳優・監督としての地歩を確立したニモイの余裕が窺える。
 また「スター・トレック」の舞台裏、カーク役のウィリアム・シャトナーとの軋轢や、「スター・トレック」の発案者ジーン・ロッデンベリィとの意見の齟齬なども垣間見える。ニモイの人柄なのか、このあたりは控えめな表現をしたり冗談に紛らしたりしているが、実際はもっとドロドロしたものがありそうな…。

・金庸「書剣恩仇録」(全4巻),徳間文庫,2001.4,5
 時代は清朝の盛期。江湖に名高い結社・紅花会の差配(幹部)文泰来は時の皇帝・乾隆の出自の秘密を知ってしまい、虜囚となる。紅花会の若き総舵主(総帥)陳花洛は仲間を救出するため朝廷と対決するが、その秘密とは彼自身の出生とも深く関わるものであった。朝廷と紅花会との闘いは、清の攻撃で危機に立たされたウイグル族や敵味方に分かれた武道家の師弟らの、さまざまな公憤、私怨を巻き込んでさらに激しくなっていく…。
 ここ数年立て続けに邦訳が出ている金庸の武侠小説。文庫になったのを好機としての初挑戦である。全体的な雰囲気は、時代の違いこそあれ「水滸伝」を彷彿とさせる。出てくるキャラクターも結構似ているかな…?とくに主人公の陳花洛、いまいち優柔不断で大義名分に弱いところなど「水滸伝」の宋江そのままだ。彼の乾隆帝に対する言動やラストでのウイグル王女カスリーに対する仕打ちは、「滅満興漢は他のすべてに優先する正義である」という前提なしにはちょっと受け入れられないものだろう。
 そのへんさえクリアしてしまえば、あとは十分楽しめる。登場人物は勧善懲悪型の厚みのないやつばかりかと思いきや、意外としっかり人物像が描かれている(ものもある)し、歴史伝承をうまく絡めたストーリー展開もなかなか飽きさせない(ナスレッディーン・ホジャが武道家として登場するのには爆笑したが)。
 それと「武侠小説」であるからには、やはり見逃せないのが戦闘シーン。拳法の型や体さばきなどは文章で読むといまいちイメージが掴みにくかったりするが、そこは技名のものものしさでカバー。「追魂奪命剣」や「百花錯拳」、「絶技・霹靂掌」などを連打されると、何だかかよく分からないけどとにかくすごい、という気になってくる。

 なんか全然ほめてないような気もするが…読んでいて面白かったのは本当である。そのうち他の作品も読んでみるつもり。

・梅棹忠夫「情報の文明学」,中公文庫,1999.4
 工業革命に続く次の産業革命――情報産業の発展を予見した一連の論文集。99年刊行の本だが、中身はほとんど60年代から70年代にかけて書かれたものである。
 「情報産業」のことを「物質」を扱うものに対する意味で「精神産業」と言い換えたりするところなど、やや古くささを感じるところもあるにはある。しかし工業の発展を基盤とするがそれとは性格の異なる「人間の精神的生産の産業化」の時代が到来する云々という論旨は古くさいどころか、今現在の状況と照らし合わせてみるとびっくりするぐらい当たっている。インターネットどころかコンピュータそのものさえ普及していなかった時代に、「情報」そのものが生産・流通の対象になると考えつくなど、慧眼としか言いようがない。

・ティプトリーJr.,ル・グィン他「20世紀SF4・接続された女」,河出文庫,2000.5
 1970年代のSFは新しいものと古いものが入り交じっているように感じる。80年代で爆発的に拡がるサイバーパンクのはしりのような作品もあれば、オーソドックスなSFを強く意識した作品もある。前の60年代や続く80年代のように「〜の時代」と一括りにできないものがある。
 まあ、個々の作品が面白ければ、括れようが括れまいがどっちでもいいようなものだが。今回収録の目玉は編者が「本シリーズのハイライト」とする表題作、ジェイムズ・ティプトリーJr.「接続された女」。自殺未遂の醜女がとあるプロダクションの口車にのり、絶世の美女の肉体を遠隔操作する役目を引き受けるが、その「美女」に恋する男があらわれて…。ラストの展開は思いっきり苦い。
 ただ、これについては先に「大傑作!」との連呼を聞いていたせいか、実際読んだときにかえってインパクトを感じられなかったのが、ちょっと残念。ジョン・ヴァーリィ「逆行の夏」とかバリントン・J・ベイリー「洞窟鏡奇譚」の方が素直に楽しめた。とくに後者が私にとっては今回のベスト1。
 広大な空間に点々と星が存在する私たちの世界とは逆に、広大な岩盤に泡のような空間が存在する世界。ある若者が自分たちの住んでいる空間の他にも空間が存在するはず、と周囲の反対を押し切って固体航行船(…ドリルモグラ?)で旅立つが…。この作家の話は奇想天外が売り、と承知しているはずなのに、それでも毎回初めて読むかのように驚かされてしまう。

・梅棹忠夫編「文明の生態史観はいま」,中公叢書,2001.2
 「文明の生態史観」と言えば、西洋/東洋の枠組みからではなく、ユーラシア大陸を日本とヨーロッパの「第一地域」と中国・ロシア・イスラム世界などの「第二地域」に分けてその文明を比較したもの。発表から50年近くがたったこの名著の今日的意義を探る諸論文を、梅棹忠夫と「文明の海洋史観」の著者川勝平太との対談を中心にまとめる。
 川勝平太の「文明の海洋史観」は「〜生態史観」に海からの視点が欠けていることを批判し、ヨーロッパや日本の近代が、東南アジア進出を契機にはじまったとするものである。以前に一度読んだことがあるが、感想は肯定4に疑問6といったところ。これまで陸地からの視点でしか見ていなかった歴史を海洋から洗い直しているところは新鮮だったものの、歴史上の日本の役割をやや過大に見ている点に首をかしげた記憶がある。
 梅棹「生態史観」でも西ヨーロッパと日本を併置するなど、日本の独自性が大きく評価されているが、同時に日本だけに焦点を当てたナルシシズム的な見方を批判してもいる。対談ではその観点から「海洋史観」に対する梅棹忠夫の批判を期待していたのだが…その点についての言及はなし。
 あえて無礼な言い方をすれば、川勝平太が先輩の大先生を精一杯ヨイショして、その尻馬に乗って自分の論を宣伝しようとしている…ようにみえなくもない。 

・ロバート・A・ハインライン「人形つかい」,ハヤカワ文庫,1976.12
 アイオワに着陸した未確認飛行物体調査のため<機関>の秘密調査員サムは、局長<オールドマン>と女性調査員ドリスとともに現場に向かう。そこで彼らが出会ったものは、人間にとりついて意のままに操るナメクジ状の寄生生命体だった。対抗策を講じようとしたときには、すでにアメリカのかなりの部分が彼らに占領されていた。サムたちの必死の作戦も効薄く、「人形つかい」たちはじわじわと人間側に残った地域を浸食していく。だが逆転のカギは意外なところ、サムの身近に秘められていたのだった…。
 古さを感じさせないというのではないが、古さが面白さにほとんど影響していない。宇宙からの寄生生物といい、それへの対抗策といい、驚くべきアイディアや意外な展開というものには出会わなかったが、それでも話に引き込まれる。登場人物の方も、熱血の主人公、聡明で健気なヒロイン、冷静沈着な上官…と、パターンの王道を行っているが、それでいて陳腐さを感じない。このへんはやっぱりハインラインの上手さというものだろう。
 そういう上手さに引きずられて引っかかる表現も(右側通行全力疾走なところも)、つい笑って済ませてしまう。ソ連が「人形つかい」に占領されているかどうかというところで「どっちみち大した違いはないかもしれない」といってみたり、「日本人は平気で着衣を脱ぐせいで、助かった」ということになっていたりするのだが。
 それでも、ラストの「自由な人間たちがいま貴様らを殺しに行くぞ!彼らの上に死と破壊を!」というのは、いくらなんでもなんだかなあ…。

・光瀬龍「たそがれに還る」,ハルキ文庫,1998.8
 三千年代後半、突如音信不通となった金星の調査に向かったシロウズは、そこで異星文明が築いた巨大都市の幻影を見る。さらに地球、そして冥王星でも異星人のものと思われる宇宙船が発見された。そこに残された記録を解読した結果、シロウズたちが知ったのは、異星人たちを襲った宇宙的規模の災厄と「終焉」、そして人類もまたその危機を迎えるかも知れないということだった──。
 訪れるであろう災厄の存在を知ったシロウズやソウレ(この人、管理職なのに珍しくカッコよさげに描かれている)が、それに対するために築き上げたプロジェクトは、太陽系規模に発展を遂げた人類の「持てる力のほとんど半分を奪う」という壮大なもの。しかし、それでも結局は宇宙的「終焉」の前でははかないものにしかなり得ない。宇宙に比しての人間や文明の卑小さ、虚しさを感じずにはおけない、そんな物語である。
 ところで、物語の序章と終章、「星間文明史」を書いているのは、一体誰なのだろう?

・佐藤亜紀「バルタザールの遍歴」,新潮文庫,1994.12
 ひとりの体に双子の兄弟の精神が宿っているという奇妙な、だが興味深い設定。この二人が肉体の主導権を取り合って暗闘するドロドロした展開…だったらイヤだな、と思っていたが、幸いメルヒオールとバルタザールの仲は極めて良好。社会的に存在が認知されているのはメルヒオールの方だけで「バルタザール」はメルヒオールの酔狂、ないし狂気と見なされている。これでバルタザールがメルヒオールに歪んだ感情を持たないのはおかしいと思うのだが、それについてもちゃんと安全弁が用意されている。思えば、便利な体質だよな。
 話の方は、ハプスブルク貴族の名門に生まれた二人(…というべきなんだろうな、やっぱり)が戦間期の混乱と激動の中、生家を追われて転落していく「遍歴」を主にメルヒオールの筆で綴っていくというもの。転落の人生…とは言ってもその原因は半ば以上自業自得で、語り手たちも基本的にお気楽なのであまり悲劇といった感じはしない。クライマックスには立ち回りもあるが、全体的に淡々とした調子が印象に残る。旧貴族が没落し、ナチス勢力が台頭しはじめる当時のオーストリアが、背景に違和感なく描きだされているのも魅力だろう。
 なおこの作品、私が読んだのは古本屋で手に入れた新潮文庫版だが、知る人ぞ知るゴタゴタのあと、最近文春文庫から復刊されている。

・栗本薫「グイン・サーガ79・ルアーの角笛」,ハヤカワ文庫,2001.6
 久しぶりに視点はパロを離れて、グイン御大とすっかり凶状持ちが板に付いてしまったイシュトヴァーンサイドの話。今回は新章プロローグといったところか。例によってあまり話は進まないが、いまや国王となった二人の主人公の風貌や彼らに仕える周囲の様子を比べてみせるような趣向は面白い。
 ところで「あとがき」で「これまでの78巻というのは壮大なるプロローグ」などと恐ろしいことをのたまってくれているが、まさか本気で言ってやしないだろうな…?

・金子隆一「新世紀未来科学」,八幡書店,2001.2
 軌道エレベーターから人型汎用ロボット、タイムマシンやワープ航法にいたるまで、ハードSFに登場する様々なアイディア、ガジェットが、現在の科学技術の延長でいかに実現できるかを検証する。この類の本はありそうでなかなか少ない。講談社ブルーバックスのロバート・L・フォワード「SFはどこまで実現するか」は読んだことがあるが、宇宙関係に話題が集中しているし、内容も結構難しいものだった。その点こちらは生命科学やコンピュータまで広範にカバー(宇宙開発ももちろんあり)、難易度的にもなんとかついていける。…全部が全部きちんと理解したとはいえないにしろ。
 構成は、あるトピックについて概要を挙げたあと、それがどんなSFでどのように登場しているかを紹介し、そして現在の科学技術がそれにどこまで追いついているか、その延長にどれだけの可能性があるかを解説する…という定型。あとがきでいくつかの作品についてネタばらしを犯してしまったとあるが、それで作品の方が読めなくなるというものはなかったように思う。科学啓蒙書としてはもちろん、SFのガイドとしても楽しめる。ただぜいたくを言えば、SF関連作品の索引だけでなく、科学用語の方の索引も付けてほしかった。
 「宇宙開発」(第一章)においては現実が想像に追いつくにはまだ遠い道のりがありそうだが、「生命科学」(第三章)とくにクローンの関係ではもはやその境目は曖昧になりつつある…というふに章ごとに見ていくと、未来想像図と現実とにやはり少々のズレを感じるところはある。とはいえ どんな分野についてもSFの中にそのアイディアが見つかるということに、SF作家の創造力・想像力の豊かさを再認識させられる。

・スタニスワフ・レム「金星応答なし」,ハヤカワ文庫,1981.1
 2003年、シベリア開発の途中、前世紀のはじめシベリア中部に落ちた謎の隕石──ツングースカ隕石のものと思われる遺物が発見された。それは地球の技術では製造できないはずのコイルで、磁気により地球への攻撃とも解釈できる内容の<報告>が書き込まれていた。科学者たちは総力を結集してその出発地点、金星へと飛び立つ。
 原著が1951年出版の、レムの実質的デビュー作ということで、内容はさすがに古くさい。共産主義による世界革命が達成されたユートピア的21世紀という世界観もさることながら、遺物が発見されるに至ったシベリア開発の目的というのが、両極地方の寒気をなくすための人工太陽開発…となっていたときには、続きを読むかどうしようかと迷ってしまった。そりゃ冬の寒さから逃れるのはソ連、東欧の夢なのかもしれないが、代わりに水没するぞ、まちがいなく。
 まあ、そんなのは後知恵の文句だし…と思い直して読み続けることにする。金星船<コスモクラートル号>やその装備…プレディクター(航法システム?)やマラックス(計算マシン…コンピュータという言葉がまだなかった?)などの描写も、かなり時代を感じさせるものになってしまっている。しかし宇宙船を見学に来た子どもたちにこれらの「最新装備」を紹介しているくだりは、良心的なジュヴナイルを読んでいるような感じで、むしろ好感がもてた。それに探検のもっとも重要なカギを握るのが、ロケットの巨大エンジンや武装ではなく、一見地味な計算機であるとしているのは、ちょっとした先見の明なのかもしれない。
 で、肝心の金星の描写は、長々としてちょっと退屈ではあったが、原形質の黒い川や不可解な金星人の都市などに、後のレムの作品を連想させるものがあった。反対にラストで主人公の科学者に「理性をもった生物の歴史を支配する共通の法則がかならず存在しているはず」と発言させているところなどは、「ソラリス」と対照的。

・池宮彰一郎「島津奔る」(上下),新潮文庫,2001.6
 朝鮮の役から関ヶ原までの混乱と変革の時代を、薩摩の名将・島津義弘を中心に描く。
 主人公の島津義弘が、ちょっとひいきしすぎじゃないかと思えるほどに良く描かれているのは当然のことだが、それ以上に感動的なのが彼の家臣たち。とくに中盤、国元の命令を無視して戦場の義弘の下へと「奔る」薩摩武士たちを描くあたりはこの話の白眉だと思える。
 「関ヶ原小説」としては徳川家康の捉え方が面白い。根が小心な家康自身には天下取りへの野心が希薄で、本田正信ら周囲が彼を担ぎ上げて関ヶ原へと至るという構図である。山岡荘八「徳川家康」や司馬遼太郎「関ヶ原」での、善悪はいずれにしろ積極的に行動する家康像の方が私には好みなのだが、この作品のような見方もできるのかと、ちょっと感心した。
 石田三成、島左近といった西軍陣営の方は、とくにうがった解釈もしておらず可もなく不可もなしといったところ。所々で司馬「関ヶ原」とそっくりな場面が出てくるのは……単に原典資料が同じであるせいなのだろう、たぶん。

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