読後駄弁
2001年読後駄弁11月〜12月


・マーティン・リース「宇宙を支配する6つの数」,草思社,2001.10
 数秘術みたいな題名だが、科学入門書である。草思社サイエンス・マスターズの最新刊。
 重力の強さ(あるいは弱さ)を示すN、原子核が結び合わさる強さを示すε、宇宙の素材分量を決めるΩなど、宇宙のあり方を決定している6つの数字から解説する宇宙論。
 面白く感じたのは第7章で解説されている、宇宙の膨張に影響をあたえている「反重力」の存在。アインシュタインが提唱した「宇宙定数」と似た働きを持ち、それと同じ記号λが与えられている。アインシュタインの「宇宙定数」と言えば、彼の最大の誤謬とされていたはずなのだが…。「科学の常識」とは変化するものだということを(当たり前のことなのだが)実感させられた。
 実のところ話についていけたのはやっとこの章までで、残りの2章は読んでもいまいちピンとこなかったことは、白状しておこう。しかし、この宇宙や生命や人間が存在することができたのは、6つの数の微妙なバランスがあって初めてあり得たということ、だからといってこの宇宙が何かの意志によって特別にそう創られたのではなく、無数の多宇宙の一パターンだと考えられること…程度は理解できたし、それで十分読む価値はあった(ちょっと負け惜しみくさいが)。

・グラント・キャリン「サターン・デッドヒート2」(上下),ハヤカワ文庫,1990.3
 前作でインディ・ジョーンズに目覚めた考古学者クリアス・ホワイトディンプルが、今度はカーク艦長に目覚める話…といったら怒られるかも知れない。
 「土星」で「デッドヒート」の末入手した異星人のメッセージを元に、その異星人とのファーストコンタクトに挑む。前作とは少しテーマが変わったが、面白さのポイントは変わらない。出会う異星人「ヘキシー」の文化も紹介文で謳うほど想像を絶してはいないし、彼らの地球人観も定番と言えば定番。だが、それでも物語を楽しめてしまうのはホワイトディンプル&ジュニア、前作以来の名コンビぶりによるところが大きい。
 ところでエピローグを読んだところでは、ホワイトディンプル艦長はさらにリンカーンに目覚めそうな具合だが…。アメリカ人の理想を地でいくような御仁である。

・A・E・ヴァン・ヴォークト「イシャーの武器店」,創元SF文庫,1966.7
 遠未来の権力争いのとばっちりを受けてタイムスリップさせられた上に、人間爆弾と化してしまう20世紀の新聞記者マカリスター、その遠未来で苦難の末陰謀の才を開花させる田舎出の若者ケイル、暗躍する不死人ヘドロック…複数の話が絡み合った作品。イシャー帝国と「武器店」が争う世界設定は「武器製造業者」と同じものだが、とくにどちらかを読まないともう一方の話が分かりにくい、というものではない。
 途中の話はまあそこそこ面白いかな…といった程度にしか感じなかったのだが、ラストで迎えるマカリスターの最期には、やられた!の一言。見事な大風呂敷である。

・椎名誠「水域」,講談社文庫,1994.3
 陸地の大部分(あるいは全て)が水没した、おそらくは遠未来が舞台。水域を漂流するハルが冒険の中で伴侶を得、そして失う物語。全編とって淡々とした語り口で、読んでいる側もハルと一緒に流れを漂っているような印象を受ける。
 もうひとつ特徴的なのは、「ヒラヌル」「ハナヅラ」「サキヌマドクタラシ」などなど、登場する動植物の独特のネーミングセンス。多くはこれといった説明なしに登場するが、名前から発するイメージとハルの行動によって、なんとなくその姿を想像することができるようになっている。いわゆる「シーナ・ワールド」の、この辺が魅力か。

・伊藤典夫・浅倉久志編「タイム・トラベラー〜時間SFコレクション〜」,新潮文庫,1987.1
 巻頭のソムトウ・スチャリトクルからトリを飾るイアン・ワトスンまで、ラインナップだけでも見応えがあるが、内容もそれに恥じないアンソロジー。
 はずれなしの中でも一番楽しめたのはスターリング&シャイナー「ミラーグラスのモーツァルト」。未来からの企業進出で石油化学コンビナートと化している18世紀ザルツブルグで、所長のライスはマリー・アントワネットを愛人に囲い、「現地人」のウォルフガング・モーツァルトはポップミュージックに目覚めてしまうという、やりたい放題の話である。そんなことができる理由付けは一応されているのだが、それ以前に時間SFの定番であるタイムパラドックスを一笑に付してしまっていること自体が、とにかく痛快。過去の世界もヤられっぱなしではなく、最後はモーツァルトの手痛いしっぺ返しで幕を閉じるのだが…。
 次点はファーマー「わが内なる廃墟の断章」。こちらは毎朝起きるたびに全世界の人間の記憶が3日ずつ逆行していく。だんだんとパニックの度が増してくる前半部分は特に迫力があった。
 改めて見直してみると、タイムマシンを使った素直な時間旅行の話は少ない。ディヴィッド・レイク「逆行する時間」ではお馴染み車改造型タイムマシン(ただしスポーツカーではなくワーゲンビートル)が出てくるが、これは未来に旅行しているのに文明が人為的に退行していくという全然素直じゃない話だし。

・栗本薫「滅びの風」,ハヤカワ文庫,1993.2
 「グイン・サーガ」では、登場人物がえんえんと(時には数ページにわたって)モノローグを続けるシーンが1巻に1回は出てくる。それが魅力だったり少々うざったかったりするのだが、この「滅びの風」は、言わばそのモノローグだけで大部分が構成されているような連作短編集である。ハルマゲドンでも天変地異でもなく、ただゆっくりと滅びに向かう人類の姿を各話の主人公が語る──というよりは呟いている。
 ちょっと毛色の異なるのが4話目の「コギト」。私が勝手に名付けるところの栗本薫版「独裁者スイッチ」(コミュニケーション不全症候群mix)である。他の話が外界の滅びを扱っているのに対し、こちらで滅びるのは主人公の内宇宙となっている。

・ケイト・ウィルヘルム「杜松の時」,サンリオSF文庫,1981.4
 世界的な旱魃にあえぐ人類最後の希望として、中止されていた宇宙ステーション建設計画が再開された。そこで天文学者クルーニーは異星人のものと思われるメッセージを刻んだ円筒を発見、その情報を元に人類は再生への道を歩む…
 …という話では、全然ない。むしろ逆。この作品では異星人とか宇宙ステーションとか銀色のロケットとか、そういうSF少年の夢的なものがまったく皮肉な結末へと向かっていく。そして代わりに差し出されるのは、悲惨な境遇をくぐり抜けた主人公の女性ジーンがインディアンの示唆を受け辿り着いた、自己の内面への道。そこでは女性的な視点が非常に際立っている。
 テーマ性が強いぶん、宇宙SF大好き人間としてはかなりブルーになってしまう話ではある。

・細見和之「アイデンティティ・他者性(思考のフロンティア)」,岩波書店,1999.10
 社会学や心理学の方面からではなく、文学の面からみたアイデンティティ論。ホロコーストを体験したプリーモ・レヴィとパウル・ツェラン、日本の植民地支配と日本語教育の下に育った金時鐘の3人をとりあげ、自己のアイデンティティとそれを表現する言語の間に矛盾を抱えてしまった文学者の苦悩を考察する。
 元ネタを全く読まずに批評だけ読んでも、意味がなかったか…。

・栗本薫「グイン・サーガ82・アウラの選択」,ハヤカワ文庫,2001.12
 グイン−レムス対決編その2…というよりは泣き言をいうレムスとそれをいなすグイン編。百鬼夜行の魔王様が情けなく愚痴るのが今回の読みどころ、か? けどグインよりもレムスの方に共感できる点は多いだろう。なんだかんだ言っても結局、グインは強すぎるのである。ついでながら、強すぎるのにまかせて今回のグインの行動(とくに後半)はいきあたりばったりすぎ。…主人公が単身で大立ち回りをするのは、ヒロイックファンタジーの王道なのかも知れないが。

・吉見俊哉「カルチュラル・スタディーズ(思考のフロンティア)」,岩波書店,2000.9
 「カルチュラル・スタディーズ」と言えば、近現代の文化についての研究全般を指すのだろうが、この本ではイギリスの文化研究に集中して論じている。
 それほど難解な話ではなかったのだが、テーマがイギリスの大衆文化とあっては、いまいちピンとこない。イギリス一国の論述を離れて、ハンチントンやウォーラーステインらの世界システム論での「文化」の扱い、それに対する文化帝国主義批判に触れた第3章が一番納得できた。
 …この「思考のフロンティア」シリーズ、一見読みやすくはあるけど、どうもテーマが特論的なので予備知識なしでは浅くしか理解できないようだ。

・神林長平「グッド・ラック・戦闘妖精雪風」,ハヤカワ文庫,2001.12
 前巻「戦闘妖精・雪風」の直接の続編なので、そこから引き継いだテーマ…深井零ら人間と雪風ら機械、そしてジャムとの間のコミュニケーション…が、最初から表れている。そのせいで、前巻で魅力的だった空戦描写については、ほとんど見られない。その分、雪風とは何者か、ジャムとは何者か、彼らと人間との間にどのような関係やコミュニケーションがあり得るのか、などの考察については、より鋭さを増している。
 前巻ラストで深井零は雪風のコックピットから放り出され、意識不明となる。機械にとって人間は不要…となるかと思われたのだが、今回の第1話「ショックウェーブ」で雪風の呼びかけが零を目覚めさせ、第7話「戦意再考」で、ついに両者は新たな関係を築くことに成功する。互いに自分がジャムに対する兵器として機能することを認め合うという、厳しくドライな関係ではある。しかし零がその意志を身をもって示し、雪風がそれに応えて<thanks>とディスプレイに表示するシーンには、感動を覚えずにはいられなかった。…もっとも、最終話の「グッドラック」で心理学者フォス大尉がそれを「愛」と表現するところは、なんだか急に話が陳腐化してしまうように感じてしまったのだが。


・高橋克彦「天を衝く」(上下),講談社,2001.10
 豊臣秀吉の東北地方平定にほとんど唯一反抗を行った南部・九戸党の長、九戸政実の半生を追った歴史小説。天下を統一する側からみれば一挿話にもならない小事件が、統一される側にたてば全く違った意味と重みをもってくる。天下人秀吉という「天」を衝いて、それを傷つけたり落としたりすることはかなわないが、それでも命を懸けた目的は達成するという、悲しさと痛快さが同居する物語である。前に「炎立つ」を読んだときも思ったのだが、高橋克彦は歴史上の敗者が「試合に負けたが勝負に勝った」構図の話が巧い。
 この九戸政実、政戦両略の読みが深く戦場では鬼神という、ほとんど完全無欠の戦国武将として描かれている。だが、同志となる味方にだけは恵まれない。文武に秀でた兄弟や忠実な家臣団にも事欠かないが、それはあくまで政実の統率力があってこそのもの。期待をかけて本家に送りこんだ弟は押しが弱くて力を発揮できず、政実にもっとも似ていると言われた別の弟は功を焦って戦に敗れ、それが遠因となって政実の敵に回ってしまう。結局、不利に陥った状況を収拾するため政実自身が動かざるを得ず、それによって彼の進む道は狭まっていく。
 逆に敵方は、そういう政実に鍛えられる形でだんだんとしたたかになっていく。とくに南部本家を継ぐことになる南部信直。登場当初は、抜け目はないが政実からみれば器量が浅い…という程度の人間だったものが、最後の戦いでは政実に「さすが」と言わせるまでに成長する(正直なところ、政実より信直の方がキャラクターとしては面白いと思えるぐらいなのだが…)。そんなスーパーマンの悲哀を感じさせる話でもあった。

先頭に戻る
2001年9月〜10月の駄弁を読む  2002年1月〜2月の駄弁を読む
タイトルインデックスに戻る ALL F&SF 歴史・歴史小説 その他