読後駄弁
2002年読後駄弁1月〜2月


・塩野七生「ローマ人の物語10・すべての道はローマに通ず」,新潮社,2001.12
 今年はひょっとしたら出ないんじゃないかと思っていたが、年末ギリギリで年1刊行の公約を守ってくれた。ただし今回は9巻の続きではなく、街道、水道といったローマのインフラストラクチャーだけをとりあげて一冊にまとめた断章的なもの。
 冒頭で筆者自ら「読むのが困難」と言ってはいるが、予想したほど読みにくくはなかった。それは、これまでの他の巻のように人物主体でない以上、物語的な面白さは少ない。ただローマ人の優れた点をできるかぎり引き出すというスタンスは変わっていないので、違和感は感じなかった。付録の地図や巻末の資料を繰り返し見直す手間をいとわなければ、結構楽しく読める。カラー図版も多いし。
 この後「五賢帝」最後のマルクス・アウレリウスを出したら、次は「グラディエイター」で暴君の名が知られてしまったコモドゥス帝の番だし、さらにその後は皇帝が乱立する「軍人皇帝時代」になる。ローマ帝国が下り坂に入るその前に、もう1回ローマ人を賞賛しておきたかったのでは…というのは、下手な勘ぐりか。
 ローマのインフラストラクチャーの優れている点は高い技術力もさることながら、それを数百年も維持し続けた持続力にある。それを可能にした制度や財政基盤、ローマ人の倫理観については本書でも繰り返し述べられているが、もう一つ、専門的な知識やノウハウを帝国各地に広め、また次世代に伝える人材の育成、確保はどうだったのだろうか。第二部「ソフトなインフラ」で挙げられている家庭教育や私塾では専門技術の分野はカバーできないだろうと思うのだが。
 インフラを作るだけならローマ人を引き合いに出さなくても、どこでも盛んにやっている。ローマ人がインフラの名手と言うからには、それを十分活用するための「人」を無視していたはずはない。その辺りをもうちょっと重点的に論じてほしかった。…公共インフラを職場にしている人間の我田引水ではあるが。

・ニール・スティーヴンスン「ダイヤモンド・エイジ」,早川書房,2001.12
 ニール・スティーヴンスンといえば、去年文庫化された「スノウ・クラッシュ」がまだ記憶に新しい。この「ダイヤモンド・エイジ」も、今現在あるような国家が解体して、イデオロギーや民族、企業ごとの小集団が国家都市を形成している点などは「スノウ・クラッシュ」と共通している。もっとも物語のノリはそれほどに軽くはない。
 上海の国家都市ネオ・ヴィクトリアの「株主貴族」フィンクル=マグロウ卿は、娘へのプレゼントのため「若き淑女のための絵入り初等読本(プライマー)」をナノテクノロジスト・ハックワースに作らせた。注文通り「プライマー」を完成させたハックワースは、自分自身の娘のためにそれを不正コピーするのだが、そのコピーはハックワースの娘ではなく、貧民の娘ネルの手にわたってしまう。「プライマー」の仮想世界で冒険をかさねたネルは現実世界でも端倪すべからざる少女に成長していく。一方、不正コピーがばれたハックワースは裏社会を牛耳る中国人ドクターXと謎めいた地下組織「ドラマーズ」の計画にまきこまれる。
 まず目を引くのがこの世界でのナノテクノロジーの扱い。それはすでに特種な技術ではなく、公衆電話なみに社会に浸透している。最悪に近い生活環境で生きているネルでさえ、公共「物質組成機(コンパイラー)」を使って必需品を手に入れられるほど。登場するナノテクそのものは、ちょっと何でもありに思えてしまったのだが、それが実現している世界の描写は非常に楽しかった。
 そんな世界で最高レベルのナノテク技術をもってつくられた「プライマー」は当然、「読本」などという古式ゆかしい代物ではない。持ち主の境遇、社会背景を自動的に読みとって物語をアレンジし、その物語の進行とともに読み書きは言うに及ばず、護身術から臨機応変の機知、はては情報理論まで無理なく教えてくれるという、究極のエデュテイメント・メディアである。こんなのができた日には、童話作家も小学校教師も学校図書館司書も、のきなみ失業まちがいなし…?
 だが、そこまでいたれりつくせりの教材があっても、それだけでは人が育つには充分でない、というのが著者の考えであるらしい。プライマーで育った少女たちの中で、ネルだけが「プライマー」の製作意図通り人の上に立つ人物になっていく。それは彼女の「プライマー」だけが、ただ一人の女優、それもネルに深く感情移入してしまった女性の肉声で語られるものだったからであり、さらに「プライマー」が全てを教えてくれるわけではないと示すムーア巡査やミス・マシスンが身近にいたから…ということにならないだろうか(こう書いてしまうと説教臭さでせっかくの話をだいなしにしてしまうようだが)。
 また、登場する様々な事物の中で、イメージとして鮮烈なものといえば、自らの肉体そのものをナノコンピュータの伝達媒体とする「ドラマーズ」の存在が挙げられるだろう。彼らをもっと積極的に描く話もSFとしてはアリだったと思う。だが物語は、成長したネルが「プライマー」の女優──ある意味で彼女の母親──をドラマーズのもとから救出するところでラストを迎えている。
 そういうあたりに注目してみると、舞台や設定の賑やかさの奥に、意外なほどオーソドックスな面が隠れているように思えた。

・秋山瑞人「鉄コミュニケーション」(1,2),電撃文庫,1998.10,1999.3
 「猫の地球儀」で当たりをとった秋山瑞人だが、犬の方の作品も書いていたんだなあ…。
 その「猫の地球儀」でも「EGコンバット」でも思ったのだが、この人が書く作品は、人間以外のキャラクターが並はずれて立っている。
 最終戦争後の世界で、ひょっとしたらたった一人の生き残りかも知れない少女ハルカは、記憶喪失の彼女を助け育てた五人のロボットたちと賑やかに暮らしている。そこへ現れたのがハルカそっくりの姿をもったロボット・イーヴァと、虫型の超高性能戦闘ロボット(実はサイボーグ)・ルーク。二人は用心棒としてハルカたちに雇われるが…。
 戦争前の記憶に突き動かされるルークの話は、名犬話に弱い私には非常に当たりだったし、ルークを失うまいとするイーヴァの行動にも心動かされるものがあった。ハルカと五人のロボットたちがメインとなるところも、コミカルとシリアスの配分と切り替えが絶妙。
 ただ……、「ハルカ−ルーク−イーヴァ」の物語と「ハルカ−五人のロボット」の物語は、それぞれに面白い。だが、二つを合わせてみると、一方のキャラクターがメインとなっている話ではもう一方のキャラクターが「お客さん」扱いになっているような違和感というか、おさまりの悪さも感じられた。秋山瑞人の100%オリジナル作品ではなく、ノヴェライズだからだろうか?

・キム・スタンリー・ロビンスン「グリーン・マーズ」(上下),創元SF文庫,2001.12
 「レッド・マーズ」の直接の続編。最初の章でネルガルたち火星生まれの登場人物がメインになっているので「お、今度はネクストジェネレーションか?」と思いきや、その後は前作に引き続き「最初の百人」たちが話の中心となる。
 火星の環境の方は、題名が示すとおり、荒野と氷の世界から、水が流れわずかながら植物も繁茂する世界へと変化しつつある。このテラフォーミングの過程は、科学に忠実な見方からすればかなり早回しであるらしいが、素人目には十二分にリアルで、読みどころの一つとなっている。
 一方、火星の人間たちはというと…どうも惑星環境より変化が難しいらしく、マヤもアンもサックスも、怒って、喧嘩して、その合間にセックスして…と前作とほとんどお変わりない様子。しかしだからと言って話がつまらない、というわけでもない。前作が気に入った人なら、苦笑しながらも結構楽しめるんじゃないだろうか。
 とくに良かったのが、マヤが語り手となる第九部からラストの第十部へ移るくだり。火星独立運動が徐々に追いつめられ、重苦しい緊張感が極限に達したそのとき、ある大事件(今度も水がらみ…)で事態が一斉に動き出す。じらすだけじらした後での静から動への展開は、物語中の白眉だと思う。

・菊池良生「傭兵の二千年史」,講談社現代新書,2002.1
 中世、近世ヨーロッパの軍事力の中心だった傭兵の歴史。とくにルネサンス期のイタリア都市国家で活躍した傭兵隊長たち、有名なスイス傭兵、ドイツ傭兵「ランツクネヒト」について詳しく述べられている。
 「軍人」というよりも「戦争企業家」である傭兵隊長が、戦争に勝つためではなく戦争で食っていくためにとった行動、エピソードが多数紹介されているのが面白い。同時に彼らの詐欺紛いの口車にのせられたり、貧困でやむなく加わった傭兵たちの悲惨さも見逃してはならないのだが。
 傭兵隊長にとっての理想は、長期にわたって安定した雇い主が、常に滞りなく給料を払ってくれること。だが、それが完全に果たされることは、国が常備軍をもつということであり、そうなったとき傭兵は傭兵でなくなっていく。絶対王政の時代には傭兵はそれまで享受していた自由を失い、近代国民国家の登場とともに、彼らは軍事史の中心から外れていく。
 だが、今あるような国民国家が求心力を失ったとき、再び傭兵が軍事力の中心になるということもあり得るかも知れない。たとえば「スノウ・クラッシュ」「ダイヤモンド・エイジ」に出てくる国家都市や「グリーン・マーズ」のトランスナショナルのように、企業が国家的な権力を握ったとしたら、その軍事力は傭兵的なものになるのではないだろうか。
 ところでこの本、分かりやすく書かれているのはいいが、使っている史料に二次史料(つまりは孫引き)が多いのがちょっと気になった。ま、私が読むのは歴史研究のためではなくて歴史鑑賞のためだから、読んで楽しければそれでいいのだが。

・養老孟司「カミとヒトの解剖学」,ちくま学芸文庫,2002.1
 宗教は進化論的にどういう意味があるのか、臨死体験や「魂」は脳のどんな働きで説明できるのか、「死ぬ瞬間」というのは存在するのかなど、宗教や神秘主義に切りこんだエッセイ。著者の代表作「唯脳論」の応用編とも言える。
 「これはこうである」「こうに違いない」というのではなく、「私の脳の場合これはこうで、同じ人間の脳である以上他でも同じはずだが、違うというならそれで結構」という論調。無責任なようではあるが、自分が責任をもって発言できる範囲を明確に示すのは、非常に誠実な態度であるともとれる。この先生の場合、どっちにとられてもさして気にしないだろうが…。
 とはいえ、エッセイの初出が「季刊仏教」であるものとそうでないものとを較べてみると、前者の方では若干遠慮が見られるようではある。

・ウィリアム・シャトナー「鏡像世界からの侵略」(上下),ハヤカワ文庫,2002.1
 シャトナーが書いたSF小説がファンサービスにあふれた巧みなものだということは、既刊の「カーク艦長の帰還」「サレックへの挽歌」で証明済み。しかし願わくば、その巧みさをカーク以外のキャラクターでもっと発揮してくれたらなあ、と邦訳3作目の今回も思わざるをえない。
 とくに今回はカークの一人舞台が目立つこと目立つこと。一応ピカード艦長中心の場面もあるにはあるのだが、カークに較べるとずっと影が薄くなってしまっている。「ヴォイジャー」のジェインウェイ(ただし本人ではなく平行世界の)も登場するが、こっちは完璧にカーク艦長の引き立て役。これだとTNG以降のSTファンにはずいぶん受けが悪いんじゃないだろうか。
 話としては元祖スタートレック中のエピソード「鏡像世界」(「地球上陸命令」に収録)の後日譚である。平行世界とこちらの世界とでは全く違う歴史を歩んでいるのに、なぜ同じ人間が存在するのか…などの説明についてはツッコミどころ満載だが、そこのところは笑って済ませることにしよう。そうすればあとはTVエピソードを見て知っているファンにとっては、基本的に楽しく読める話である。カークが干渉した平行世界のその後の歴史が語られたり、平行世界の髭を生やしたスポック(なかなか似合っていた)とオリジナルのスポックとのご対面シーンがあったり、ピカード艦長と平行世界版ピカード(こっちもやはりはげている)が対決したり…。やはり「話は面白いんだけどコンセプトがなあ」という前作、前々作の感想を繰り返さなければならないようだ。
 だがそれ以上に問題なのは、話が「To Be Continued…」で終わってしまっていること!さらに後書きによると、あと2作分、話が続いているらしい。何だかんだ言いつつどうせ出たら喜んで買ってしまうのは確実なのだが、そろそろカーク艦長の関わらない話が読みたいと思っていることもまた確かである。

・ロジャー・ゼラズニイ「影のジャック」,サンリオSF文庫,1980.4
 何よりまず、世界観に惹きつけられる物語である。主人公、影の中では絶大な魔力を行使できるジャックが往来する世界は、「暗黒界」「薄明界」「陽光界」に分かれている。魔力をもつ「王(パワー)」たちが支配する「暗黒界」は剣と魔法がものをいうファンタジー色が濃い世界。ところが一方「陽光界」は人工衛星が打ち上げられ、大学ではコンピュータを使うことができる現代威風の世界なのである。ジャックが「暗黒界」を支配する力を「陽光界」のコンピュータを用いて手に入れるなど、ストレートなヒロイックファンタジーではなかなかお目にかかれない展開が楽しめる。
 また「陽光界」では地球の中心が溶けた岩層になっている(ジャックに言わせれば「火の精の行為」)のに対し、「暗黒界」では地下に<大機械>があって世界を司っている。科学が支配する世界の中心に人間が手出しできない力がある一方、魔法が支配する世界は人の手で調整され、人の手で破壊することのできる機械が制御している、という逆説的な設定も面白い。
 ストーリーは「薄明界」でいったんは殺されたジャックが「暗黒界」でよみがえり、「陽光界」へと至る冒険の末に復讐と野望を達成するが、彼の行為のため世界全体は危機に瀕する。ただひとつの解決策を実行するため、ジャックは単身地下の<大機械>へと降りていく──というもの。場面展開が非常に歯切れよく、翻訳作品にしては珍しくすらすらと読み進めることができた。

・阿部謹也「ハーメルンの笛吹き男」,ちくま学芸文庫,1988.12
 次に読む予定の「キング・ラット」が「ハーメルンの笛吹き男」ネタだというので、関連本でも読んで気分を盛り上げてみようかと。
 ドイツの町ハーメルンでネズミを退治した笛吹き男が、町の背信に怒って子どもたちをさらって消える、有名な伝説。1284年6月26日にこの町で130人の子どもが失踪したのは、複数の史料から確認できる歴史的事実らしい。しかしさらったのがネズミ退治をした男だというのは、16世紀に入ってから付け加えられた要素だとのこと。ううむ、なんか微妙に盛り下がってしまったような…。
 とはいえ、この本そのものは非常に面白かった。ハーメルンの行方不明事件についての様々な説のうち、戦争での被害説、東方植民説、祝祭後の事故など有力なものを紹介、検討したあと、事件を伝説へと変えた中世の社会背景を詳しく解説している。とくに良かったのが、寡婦や賤民らの不安に満ちた生活を述べたくだり。そこで著者が彼らに向ける視線には、単なる研究対象というにとどまらない温かさがある。「親たち自身が無自覚の底において、この世の苦しみから逃れたいという衝動にかられながらも、辛うじて毎日を送らなければならなかった時に、たとえ事故にもせよ多数の子供たちをあの世へ送らなければならなかったとしたらどうだろう。その痛みは時代を超えて語り伝えられてゆくに違いない」(4章「経済繁栄の陰で」)という文など、歴史叙述としては珍しいほどの情感がこもっている。
 そして後半では、近代以降「笛吹き男伝説」がどのように研究されてきたかを、研究者らの生きた社会背景も併せて論じている。そこでは、いわゆる「学者」的な高所から伝説を冷たく分析し、「当時の庶民はこうであった」と軽々と言い切る立場を厳しく批判している。序言として引用されている魯迅の言葉「歌、詩、詞、曲は、私はもともと民間のものだと思います。文人がそれを取って自分のものとし、作るたびにいよいよ難しくしたのです。それを結局は化石にしてしまう…」は、読み進めるほどに意味を持ってくる。

・栗本薫「グイン・サーガ83・嵐の獅子たち」,ハヤカワ文庫,2002.2
 前巻続きのグイン編とみせかけて、実はイシュトヴァーン編。イシュトヴァーンを妻の仇と狙う黒太子スカールの奇襲…はいいのだが、スカールってまだパロにいたのか。だいぶ前の巻でアルド・ナリスの弄する策に腹をたてて帰ったはずなんだが。「お前らのことなんかもう知らん!」と叫んでいる割には、策を立てたヴァレリウスに対して愚痴愚痴言っている。どうもこの作品の登場人物は「快男児」でもどこか女々しいような気がしていけない。
 今回気になったのは本編よりも後書きのほう。ネットでの批判、悪口雑言に対する反動なのか、いろいろ大仰なことを書いている。書きかけの自分の作品を「空前絶後」はまだしも「人類の文化遺産」とまで言うのは、ちょっとどうかと思う。せめて作品が完結するか、そのメドがたった後にしてほしいものだが。

・チャイナ・ミーヴィル「キング・ラット」,アーティストハウス,2001.2
 父親殺害の容疑をかけられ、わけの分からぬまま留置場に放り込まれた主人公サウル。その彼の目の前に突然、伯父と名乗る怪人「キング・ラット」が現れる。人のものとは思えない身のこなしと怪力でやすやすと牢を破ったこの男、自分は都市の裏を闊歩するネズミたちの王で、サウルにもその血が流れていると誇らしげに語る。人間でありネズミでもあるサウルは、キング・ラットの「仇敵」を倒す、最後の切り札なのだった…。
 路地裏のゴミ溜めとか、汚泥の流れる下水道が舞台の多くを占めるのとは逆に、話の方は実にスッキリしていて爽快感がある。
 文字で読んでも面白かったが、これは映画か舞台にしても結構いけるんじゃないだろうか。最初にサウルの前に現れたときのキングラットの大仰な名乗りはぜひステージで見てみたいものだし、彼と共闘することになる「蜘蛛の王」アナンシや「鳥の王」ロプロップの異形は、映像にすれば見栄えがするに違いない。そして最初は彼らに圧倒されていたサウルが主導権を握り、ネズミたちを従えて最終決戦へと臨む物語はスピード感もあって痛快。
 しかしクライマックスでサウルが敵の秘策に打ち勝つくだりなどは、文章の助けがないと分かりにくいかも知れない。映像と音楽、そして文字をも併せもったメディアとなると…デジタルノベル(ヴィジュアルノベル)あたりが、あるいは最適か?

・ジョン・クロウリー「エンジン・サマー」福武書店,1990.12
 機械文明が荒廃したはるか未来の世界を、そこに生きる少年「しゃべる灯心草(ラッシュ・ザッツ・スピークス)」が語る。ラッシュが目にしたさまざまな事物が、過去の世界、つまり私たちの世界の何をさしているのかを想像するのが、この物語の醍醐味の一つだろう。タイトルの「エンジン・サマー」じたい、「小春日和」を意味する「インディアン・サマー」が時を経て転訛したもの。また同時に機械(エンジン)文明が栄えた過去の時代をも意味している。
 こんなふうに一つの言葉やイメージにいくつもの寓意が込められているようで、自分がどれだけ読みとれたか、はなはだ自信がない。それに出てくる過去の遺物はアメリカのものなので、元を知らないとちょっと分かりにくいものも…。向こうの風景を知っていて、しかも作品を原書で読めていたら、もっと楽しかっただろうと思うと惜しい。
 それでも、ラッシュが初恋の少女ワンスアデイを追って加わった<ドクター・ブーツのリスト>の真実や、ラッシュがどこで誰に物語を語っているかが明かされるラストなど、他にも読みどころは多い。

・佐藤賢一「ダルタニャンの生涯」岩波新書,2002.2
 アレクサンドル・デュマの名作「三銃士」の主人公、ダルタニャンにはモデルが実在した。彼の名はシャルル・ダルタニャン、小説と同じく銃士隊長などを歴任した軍人だった。彼の生涯を追い、同時に当時のフランス地方貴族の一生を描く。著者は言うまでもなく「王妃の離婚」「双頭の鷲」で有名な直木賞作家。初のノンフィクション作品である。
 実在したダルタニャンは当然というべきか、小説ほど華々しい活躍をするわけではない。小説と同じように地縁を頼って銃士隊に入隊するのだが、「三銃士」の舞台となったルイ13世時代にはあまり業績が残っていない。彼の名が現れるのはルイ14世が即位した後のことだが、それも宰相マザランの腹心の一人としてである。「ダルタニャン物語」の第2部で登場したマザランが大した人物とも描かれてなかったことを思うと、ちょっとがっかりしてしまう。マザランが失脚しルイ14世の親政が始まってからは堅実で老練の軍人として王の新任を得るが、対オランダ戦で流れ弾に当たり戦史──。小説のラストと似てはいるが、熱望した元帥にはなれずに終わっている。
 地方貴族としては出色の成功者だとはいえ、どちらかといえば地味な一生。だがそれだけに少ない挿話には魅力的なものがある。政争に敗れ失脚した大臣を護送するとき、王や有力者の白眼視をものともせずその大臣を手厚く人道的に扱うなど侠気あふれるエピソードも紹介されている。「三銃士」のダルタニャンが実在のダルタニャンから受け継いでいるのは、きっと名前だけではない。

・田村俊作編「情報探索と情報利用」勁草書房,2001.7
 「図書館・情報学シリーズ」の一冊だが、前半に収録されている論文は現場の図書館を離れて、人が物事を調べるときの行動そのものを研究したもの。
 自分の仕事に役立てるにはやや迂遠なものがあるが、情報探索には方向性を絞った検索より前にブラウジング──つまり机や本棚を漠然と眺める行動──に重点がおかれていることなど、面白い指摘も見つかった。この「ブラウジング」というやつが、図書館の蔵書検索やオンライン書店のシステムでは大きな弱点になっている。オンライン書店の方は、まだしもカバーしようという意志が見られるが、図書館の方はまだまだそこまで手が回っていない。手間暇かければ、改善の余地はあると思うのだが……。なんか自分の首を絞めるていような気がしないでもないが。


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